脳内麻薬の続きを書きます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

アンヌ・ド・ボージューは、ルイ11世からシャルル8世の摂政を任され、国王の権力を与えられていたが、彼女本人に肩書きそのものはなかった。夫ピエール・ド・ボージューの立場もまた、死期が迫った国王が若い国王に代わって統治することを口頭で彼に託したため、公式なものではなかったのだ..。

 

出典:Louis XI, le pouvoir fracassé

 

そのため、諸侯たちは「ボージュー政権」は違法であると抗議した。

オルレアン公ルイは摂政権を主張し、大勢の従者を引き連れて、若きシャルル8世が姉の世話で暮らしていたアンボワーズ城に向かった。

過去の前例に照らし合わせれば王位継承順位の高いルイに摂政がいくはずだったのだ。

 

「親の七光りで摂政など絶対認めん!!ムキー

 

ルイの到着を予期し、万が一の事態に備えるため、王姉は城のすべての衛兵に彼女への忠誠を誓うよう求めていた...。

当面の安全は確保されたが、アンヌ・ド・ボージューは王国基盤が非常に不安定であることに気づいた。安心のためには、王国全体が彼女と夫の任命を承認しなければならなかった。三部会の招集が必要だった。

 

 

父の遺言通りシャルル8世の摂政を主張するアンヌ・ド・ボージューと、第一王子として摂政の権利を主張したオルレアン公ルイの両方からの要請により、1484年1月5日にトゥールで三部会が開かれた。長い討議の後、摂政会議が設置され、その後全州の代表者がアンヌ・ド・ボージューに若い王の後見を委ねたのだ。

この結果にオルレアン公ルイは納得せず激怒した。

 

「あなた無礼よ!私は摂政殿下よ。跪きなさいよ真顔

「ふざけるな!シャルルの摂政は私だ!!ムキー

「シャルルの摂政はこの私よ!たった今三部会で承認されたでしょ!真顔

「お姉様!ルイ!喧嘩やめてよ

「うるさい従姉に役立たずの妻、もうたくさんだ!!ムカムカ

 

オルレアン公ルイは怒って、直ちにトゥールを去り、ブルターニュ公の宮廷に移り住んだ。ブルターニュ公フランソワ2世はルイを温かく迎えた。

 

後のルイ12世になるオルレアン公ルイがブルターニュに亡命している間の出来事は省略されているが故にこの人の立場がとても誤解を招きやすいです。

日本語の資料だけではこの情報を得ることは不可能でした。この省略されている部分実はとても大事なところですね。

 

フランソワ2世は、アンヌ・ド・ボージュ―に対してももちろん良い印象を持っていない。彼女の父ルイ11世を憎んでいた。ずっと抵抗してきた。

 

ランスでのルイ11世の戴冠式への出席を拒否し、臣従の誓いを拒否し、ルイ11世から贈られたサン・ミッシェル勲章の首飾り(およびこれが意味する制約)を拒否し、トゥール総領事館に重要な代表団を派遣することを拒否し、ブルゴーニュのシャルル突進公と結んで反フランスの公益同盟に参加し戦争するほどだった。

 

また、かつてブルターニュには大学がなく、ブルターニュの人が大学に通うためにはフランスの方に出向かなくてはいけなかった。そうすることで、知らず知らずのうちにブルターニュの学生たちがフランス色に染まってしまうことをフランソワ2世は懸念していたのだ。

フランソワ2世は、1460年にナント大学を創設した。別名ブルターニュ公爵大学とも言われている。1460年というとまだシャルル7世の治世だが、亡くなる1年前である。シャルル7世が比較的ブルターニュに好意的であったことから王太子の即位する前に手を打っておこうと思ったようだ。フランスからの独立を主張したいというフランソワ2世の意志の表れである。

 

ブルゴーニュとブルターニュについてはフランスの一部ではなく外国扱いとした方がよいですね。フランス側とブルゴーニュ、ブルターニュ側とでは国の認識が乖離しています。ブルゴーニュは1369年にフランドル地方の相続権を得た頃から独立へのフラグが立っていたようです。ブルターニュは更に明確な事情があり、長きにわたって独立国として主張し続けたかったのです。この二国についてはおさわり禁止が得策でした。

 

こちらはルイ11世の風刺画です。余程諸侯たちに嫌われていたのかルイ11世の風刺画は非常に多いです。この絵は公益同盟戦争のもので当時の対立構造がわかります。真ん中の白地に黒のアーミンの服を着、王冠を被った細身の男性がブルターニュ公フランソワ2世ですね。

 

 

この風刺画の対立構造が世代交代したと考えればわかりやすいでしょう。

 

ルイ11世 → アンヌ・ド・ボージュ―、シャルル8世

 

マクシミリアン1世が後に反フランスに加わったのはブルゴーニュのシャルル突進公の意向をそのまま引き継いだというのもあります。神聖ローマ帝国ではなくブルゴーニュ(フランドル)と置き換えれば繋がるんです。リレーみたいなものです。

 

フランソワ2世は、亡命してきたルイが自分と同じ女性嗜好の持ち主であることを知っていたため、お互いにどんな話ができるかとても楽しみにしていた。

フランソワというブルトン人は歳の離れたルイの従兄だったが、とても陽気な人だった。

 

「やあ、ルイ君。歓迎するよ。」

 

フランソワ2世は、亡き寵姫アントワネット・ド・メニュレのことを思い出し語った。当時、彼のお気に入りは、アニエス・ソレルの死後、シャルル7世が愛妾にした、絶世の美女アントワネット・ド・メニュレだった。

 

 

フランソワは彼女を溺愛し、彼女が宮廷で暮らすようになった日を祝った。

 

「神が彼女を私に遣わしたのだ」と彼はよく言った。

 

実際は、神ではなくルイ11世であったのだが…。

 

[回想]

ブルターニュにスパイを置きたかった狡猾なルイ11世は、アントワネットにフランソワ2世の攻略を依頼したのだった。ハニートラップである。

その任務は簡単なものだった。アントワネットがブルターニュ宮廷に到着するやいなや、公爵は目を奪われ、妻のマルグリット・ド・ブルターニュを脇に置き、凛々しい男であることを見せつけた。知性の効いた貴婦人たちから何度か手ほどきを受けたアントワネットは、最初の夜から、彼を喜ばせたという。

翌日、公爵は感謝の意を込めて、彼女にショレの領地を与えた。

 

アントワネット・ド・メニュレについてはこちらにも書いています。

 

 

当然のことながら、マルグリット・ド・ブルターニュ夫人は夫の振る舞いに大変苦しんだ。特に、フランソワ2世は初日から新しい寵姫と一緒にいるところを目撃され、ナント中の噂になっていた。マルグリット夫人は病に倒れた。

しばらくの間、ルイ11世はブルターニュ宮廷に関する貴重な情報を密書で受け取っていた。しかし、その後、手紙の頻度は減り、ついにはアントワネットからの手紙は途絶えてしまった。

国王は激怒し、なぜこのような裏切りが起こったのかと訝しんだ。猜疑心の強い国王が、どうして「王のスパイ」がブルターニュ公と恋に落ちたなどということが想像できたのか。

 

ルイ11世はその事実に驚きを隠せなかった。そして、アントワネットがブルターニュ公に肉体的な喜びを与えるだけでは飽き足らず、公爵の財政難を救済するために宝石を売り払ったことを知ったときの彼の落胆は想像に難くない。

マルグリット・ド・ブルターニュの死後、アントワネットは結婚して私生児を正統化するだろうと誰もが思っていた。しかし彼女はそうはせず、フランソワ2世はマルグリット・ド・フォワと再婚した。マルグリット・ド・フォワ夫人は当然、寵姫が夫婦の屋根の下にいることを受け入れながらの生活となる...。しかし二人の女性は互いに敵意も見せず、ブルターニュ公を優しく取り囲んでいた。

アントワネット・ド・メニュレは1474年に亡くなった。

 

フランソワ2世の第二夫人マルグリット・ド・フォワは、後にブルターニュ中が慕うことになるとても気品のある少女を授かった。アンヌ・ド・ブルターニュである。

 

 

[回想おわり]

 

彼女を紹介された時オルレアン公ルイは、ほとんど興味を示さなかった。

むしろ、話題になったアントワネット・ド・メニュレ(故人)の方が気になっていたくらいだったのだが、その後再びアンヌと再会したとき、彼は悩んだ。

 

ルイが亡命した時、ちょうどアンヌはまだ7歳。英才教育を受けている真っ最中だった。将来的に女性君主になることを見据えての教育である。彼女はたいていの王族女性よりもさらに包括的な教育を受けていた。経理、税制、相続についても学んでいた。ほぼ帝王学に近い。彼女はフランス語とラテン語、そしてギリシャ語も読み書きした。彼女の教育はブルターニュの貴族フランソワーズ・ド・ディナンという女性家庭教師よって監督されていた。アンㇴは言語に加えて、音楽、ダンス、刺繍、狩猟、鷹狩り、ジュ・ド・ポーム(リアルテニス)なども学んでいた。最も得意なことは読み書きであるが、既に手慣れた手つきで書く署名は達筆だった。

対照的なものを好むルイは、目の前にいる青い果実が非常に魅力的に映った。この娘が大きくなったらとても素晴らしい女性になるに違いない、そう見込んだのである。

 

 

ルイは既に知性と自立心が育ちつつあるアンヌを気に入った。自分に依存し、強制結婚に甘んじて一人で何もできない妻ジャンヌには心底うんざりしていた。彼はすぐに、ベリーにいる哀れなジャンヌとの結婚を破棄し、ブルターニュ公女アンヌと結婚することを考えた。

 

ジャンヌは足が不自由で、召使いはいたと思いますが、映画ではルイが馬からジャンヌを降ろしていました。

どうやらジャンヌは自力で降りられないもよう。気の毒といえば気の毒だが、全部ルイ11世のせいです。

 

出典:Louis XI, le pouvoir fracassé

 

ルイとアンヌが初対面した時のこと、ある歴史家がこのように言った。

「このとき初めて、欲望にまみれた放蕩者を後の名君に仕立て上げることになったのだ。」と大げさに言うように、この考えは悪いものではなかったとフランス本国では捉えられている.....。

彼はすぐに少女に贈り物を贈り始め、少女は喜んでそれを受け取った。

まだ7歳の幼い少女は、ルイを兄のように慕っていた。

フランソワ2世は二人の娘たちとできる限りのことをし、できるだけ愛情を注ぎどこへ行くにも連れ添った。公爵の好きな狩りにも連れて行った。ルイもそれに付き添った。亡命生活の中でアンヌとの楽しい共通の思い出ができていた。ルイは幼いころのアンヌを知る数少ない人物である。

ある日、ルイはフランソワ2世にアンヌとの婚約の打診をする。

 

年の離れた従兄はシャルル8世の存在を懸念するが…

 

 

安心しきったフランソワ2世は、ジャンヌとの強制結婚がローマ教皇によって簡単に破棄できることを確信し、密かに幼い公女との婚約を約束した。

正式に条約として締結されるのはもう少し後の1484年11月23日のことである。

 

ルイはやる気満々でブルターニュのためにアンヌのために尽くすのだった。彼女が12歳になった時迎えに行くことを確信して。

1484年4月にオルレアン公ルイはローマ教皇に、フランスのジャンヌとの結婚を取り消すよう要請を出す。

 

オルレアン公ルイが真っ先に解決させたいことは妻ジャンヌとの離婚です。もし最初から摂政だった場合でも、真っ先に離婚に切り出すでしょう。ジャンヌとの強制結婚こそが彼の立場を複雑にし身動きできなくなっている最大の原因なのです。

 

アンヌ・ド・ボージューは、あちこちにスパイを置いていたため、ブルターニュ側の陰謀は筒抜けだった。

 

「ブルターニュには私のスパイを放ってあるわ。あまく見ないでちょうだい。結婚取り消しも絶対に認めない。」

 

実はこの時、シャルル8世はまだ戴冠していなかった。

しかし、オルレアン公ルイは、王家の第一王子として、従兄弟の戴冠式を手伝わなければならなかった。

慣習に従い、彼は若い王の頭上に王冠をかざすことになっていたのだ。

 

王冠をかざす?どういうことかというと、王冠があまりにも重すぎて頭の負担になってしまうので被っているように見えるためにかざすのです。

王冠の重さ、例えばチャールズ国王の王冠は2キロ超えだそうです。

この王冠は1661年チャールズ2世(以前に過去記事で最もロイヤル・タッチを行った英国王)のために作られたそうですが、小柄なシャルル8世が王冠の重みに耐えられるわけないですね。

 

 

 

ルイをパリに戻らせるのにこれ以上の口実はないと考えたアンヌ・ド・ボージューは、戴冠式が行われることを発表し、ルイに手紙で出席の要請を出した。

 

「アンヌとの楽しいひと時を、あの女が邪魔をしたか…!

 

アンヌ・ド・ブルターニュの婚約者は、求愛の邪魔をされたことに腹を立て、ナントを離れ、従弟の招待を受けた。

戴冠式は1484年5月30日にランスで行われた。

7月5日、シャルル8世はパリに入城し、オルレアン公ルイも出席を希望するほどの盛大な祝宴が催された。そして8月になっても、ルイはまだナントに戻っていなかった......。

 

アンヌ・ド・ボージューは、自分がルイに仕掛けた策略が成功したことに喜びの笑みを浮かべていた。

もしオルレアン公ルイが従順であったなら、謀略や第一王子の称号では得られなかった地位を摂政から得ることができたのかもしれない。義姉の好意に応じなかったのは、あまりにも彼女のことを恐れていたからでもあった。

ルイ11世のように蜘蛛の巣を張って執拗に追いかける様は悪夢でしかなかった。

権力を濫用して思い通りに操ろうとしてくる。彼は彼女を拒絶した。二人の関係はよりこじれてしまう。

 

ある日、ルイがジュ・ド・ポーム(リアルテニス)の試合をしていたときのことである。この時代、テニスはハンドボールとしても知られるジュ・ド・ポームと呼ばれていたが、このスポーツは今日のテニスに発展することになる。初期のボールは動物の毛を詰めた革でできており、手袋をはめた手で打っていた。このラケットが使われるようになったのは数十年後のことである。

 

 

この画像は17世紀のものです。

ジュ・ド・ポームの動画があります。普通のテニスよりも自由度が高くお遊び感覚で楽しめそうな感じです。

 

 

この時代の試合の説明からは、屋外で行われたのか閉鎖された場所で行われたのか、コートにネットやコードが張られていたのかは不明である。

 

試合中は、観客による多くの賭けがあったため、非常に白熱したものだった。試合中に起こった興味深い事件がある。ルイが競技し、アンヌ・ド・ボージューがロレーヌ公とともに観客として参加していた。

試合中に疑わしい判断があり、ルイはアンヌ・ド・ボージューにその点を決定するよう求めた。

 

「従姉よ、今の私のスマッシュは入ったと思うか?」

 

「アウトね。真顔

 

彼女はルイが不利になる判定を下し、相手に点を与えた。

当時はビデオ判定などという判断はできないので、審判のさじ加減に託されていたのは言うまでもない。

 

「この大嘘つきめ!入ってるだろう!ムキー

 

ルイは激怒し、彼女を嘘つきだの娼婦だの悪態をついた。彼女はロレーヌ公に、こう言った。

 

「ねぇ、ロレーヌ公。私公正な判断をしたと思うんだけど、侮辱されたわ。酷くない?」

 

騎士道精神にあふれたロレーヌ公は、すぐさまルイの顔面に平手打ちをくらわした。

 

「痛っ!何をする!!この野郎!!!ムカムカ

 

争いは他の傍観者によって止められたが、ルイとロレーヌ公はそれ以来敵になった。ルイとアンヌ・ド・ボージューはさらに険悪になった。

 

アンヌ・ド・ボージューは、今までのルイの数々の侮辱に復讐するために、アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚をも阻止することを固く決意した。ブルターニュの地が手に入れられないばかりか、ルイが結婚するなんて面白くない、認められない、許すものか。

しかし、そのためには、アンヌ・ド・ブルターニュと別の誰かを結ばなければならなかった。別の誰かとは一体…??

摂政は長くは考えなかった。

 

「いるじゃないの。フランス王がひらめき電球」と彼女は考えた。

 

続きます。

 

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