続きを書いていきます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

百瀬さんの動画はこちらです。

 

 

ただし、この動画ではアンヌ・ド・ブルターニュがシャルル8世とマクシミリアンを異性の条件として天秤にかけたかのように言っていて、若い乙女の身になって考えましょうというような言い回しがありますが、それでは現代の女性の誤った感覚を入れてしまうので、私はこれは異議を唱えたい思います。と書いたら悪神の邪気が…。

 

百瀬さんの動画の元ネタは、実は佐藤賢一さん著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』です。もちろん私もこれを読んでいますが、あくまでこれはフランス目線のもの。日本語の資料です。

 

 

私は、『二つのケルト』も読んでいます。こちらはブルターニュ目線です。

 

 

それプラス、海外の動画を見てそれを組み合わせると…

 

ブルターニュ公国は逃げ道を塞がれ、絶体絶命の大ピンチに陥ります。

そしてヴェルジュ条約が結ばれてから1ヶ月も経たないうちに、フランソワ2世は落馬事故でこの世を去ります。1488年9月9日のことでした。このとき娘のアンヌ・ド・ブルターニュは、まだ12歳にも達していませんでした。 この少女の肩に公国の将来がかかることになったのです。

アンヌの意志は固まります。父の無念を晴らすため、ブルターニュ公国の独立を守るためにその身を捧げたのです。だから若い乙女の心などとうに捨てているのです。フランスに唯一対抗できる男性と言えばもうこの人しか残っていませんでした。

 

 

1489年1月、ブルターニュ公国はフランス側の要求を拒否します。フランスに服従する意志など更々なく、ヴェルジェ条約など最初から従うつもりはないという意志の表れです。

父の遺志を継ぎ、マクシミリアンと結婚することを決意したアンヌ。地理的な面から見ても神聖ローマ帝国から直接的な支配を受けることは難しいこともわかっての判断です。ブルゴーニュの時とは違い神聖ローマ帝国がアンヌを救出できなかったのは、皮肉にもこれが災いします…やはり海路からしか入国できないので…。同盟国スペインもイングランドもそうです。

 

 

アンヌは、最後の最後までマクシミリアンが駆けつけてくれるのを待ち望んでいました。しかし、間に合いませんでした。

時系列を整理してまとめました。シャルル8世がボージュ―夫妻から自立し自らの意思で動き出したのは一体いつからでしょうか?

 

百瀬さんの動画でも強硬路線から柔軟路線に切り替えたともあります。

まず、オルレアン公ルイの釈放です。ボージュ―夫妻はオルレアン公のルイの釈放に反対しました。それを有無を言わさず退けています。

これにはある人物による働きかけがありました。

なので、シャルル8世が自発的にではないようです。

 

ブールジュに幽閉されたオルレアン公ルイは釈放され、その後ランジェ城での結婚式にも立ち会うことになります。つまり、シャルル8世が連れて行ったということです。これも、実は意図的に行われています。

釈放されたことで、オルレアン公ルイは命の恩人である王に感謝し、忠誠を誓うことにはなるのですが、それでもかつて、フランスに盾突き反乱軍の総大将だった人物です。そんな人を釈放してランジェ城に連れて行く。これはつまり、アンヌ・ド・ブルターニュと結婚するところを見せて反逆心を喪失させるためですね。ブルターニュは諦めろ、アンヌのことも諦めろ、フランス王位も諦めろ、これからはフランスの手足となってほしいそういう目論見がありました。

しかし、これもシャルル8世の意志によるものなのか。

 

どこからどこまでがアンヌ・ド・ボージューでどこからがシャルル8世なのかを見極めることも一つ大事なポイントになってきます。

アンヌ・ド・ボージューとシャルル8世では知性の高さがまるで違います。

 

シャルル8世の本当の気持ちの変化というのは新たな資料で明らかになりました。途中まではブルターニュを手に入れることだけを考えていたことは間違いありません。

マクシミリアンからの援軍がまったく到着しそうもない状況で、ブルターニュ公国には提案を拒否する力はもはや残っていませんでした。結婚式は神聖ローマ帝国側の襲撃を恐れて、秘密裏にランジェ城で執り行われました。 

 

 

 

マクシミリアンの娘で、10年以上にわたりシャルル8世の婚約者だったマルグリット・ドートリッシュは結婚式の直前に婚約破棄となり、二重の意味で辱めを受けた神聖ローマ帝国側の復讐の危険があることは、フランス側も予測できたからです。そして、翌日にはランジェ城を後にし、アンボワーズ城へ向かいました。

 

そして、既にマクシミリアンと婚約をしていたアンヌ・ド・ブルターニュを略奪する形で無理矢理結婚させたわけです。これこそがアンヌに対しての同調圧力、つまり悪魔術をかけたことになります。そして、結婚の時に魔の約束がなされます。もしシャルル8世が嫡子を残さずに他界した場合、アンヌは次王と再婚しなくてはならないというものです。

 

ブルターニュを手に入れることが悲願だったフランスは、ブルターニュを絶対に手放したくない思いでした。

 

実際、ブルターニュが征服されたのは、1514年のアンヌの娘クロードとフランソワ1世の結婚からです。

 

  

 

 

しかし、ここに繋がる布石を打ったのがまさにシャルル8世で、1591年12月6日の結婚が事実上の征服という解釈もできます。

 

その証拠にWikipediaにこのような記述があります。

 

 

ルイ11世の死から計算してブルターニュ公国の独立は592年間守られていました。こちらで、600年と書いてしまったのですが誤りです。ここのところ睡眠時間を削って書いていまして、1日4時間くらいしか寝てないので余程疲れていたんだと思います。

申し訳ありません。修正しました。

 

 

そして新たに計算しますが、ルイ11世の死1483年を1491年に変えます。

 

1491-845=646

 

うち、イングランドの支配下に置かれていた1166~1202年で36年

百年戦争中は1349~1359年で10年

 

638-46=600

 

ブルターニュ公国は累計600年間で独立の歴史に幕を閉じたのでした

 

 

 

一人の少女の犠牲と引き換えに…

 

 

シャルル8世にとって600年間独立を守り続けたブルターニュ公国を手に入れた喜びは相当大きかったのではないでしょうか。

ちなみに、シャルル8世の頃にはフランス王朝の根底にある穴がかなり広がっており、悪神を呼び寄せる条件をこんなにも揃えていたのです。

 

 

そして、父王ルイ11世が残した対ブルターニュ政策を引き継ぎ、その役割をついに果たしたのです。

 

 

そしてブルターニュを支配下に置き、アンヌ・ド・ブルターニュを我が物にすることで、フランスの屈辱の歴史において壊されたフランス王朝の穴が一気に塞がったように錯覚したのです。

 

 

フランスという国家のインチキ自己肯定とシャルル8世自身のインチキ自己肯定が同時に起きました。

ここに壮大なインチキ自己肯定が原因で、脳内麻薬が発生しました。

 

 

悪神による脳内麻薬に飲み込まれたシャルル8世は闇堕ちしました。

 

次回で、脳内麻薬の記事は終わりにしたいと思います。

 

 

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