続きを書いていきます。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

23年間続いたブルターニュ継承戦争はモンフォール家の勝利でジャンがブルターニュ公ジャン4世として即位します。1366年にはフランス王シャルル5世もジャン4世を認めざるを得なくなります。 継承戦争の間は敵対していた両者も、ジャン4世がフランス王に臣従の誓いをすることで、彼をブルターニュ公と認めたのです。まぁ、これも形上の臣従の誓いでしょう。

 

1369年の夏、 ジャン4世はイングランドのエドワード3世とこっそりと軍事同盟を結んで、イングランド王に忠誠を誓ってしまったのです。 しかしこれにはシャルル5世が怒り心頭です。 

 

1373年にフランスに対して始めた戦いでジャン4世は大敗し、イングランドへの亡命を余儀なくされたのです。ブルターニュ公のいなくなった公国は、フランス王に支配されるピンチを迎えます。ヨーロッパ全体の流れでは出てきませんが1373年のブルターニュは確かにピンチでした。

 

 

 

弱体化した公国に対して、シャルル5世は、このまま一挙にブルターニュ公国をフランス王国へ併合しようと考えます。1378年の冬、フランスの議会はジャン4世を不敬罪で告発し、6月にはブルターニュ公国の併合を宣言します。

 

公国最大の危機に直面したブルターニュの有力貴族たちが出した結論は、それまでのいきさつを一旦棚上げにしてジャン4世をイングランドから呼び戻し、フランスに対抗することでした。 継承戦争でフランス側だったパンティエーヴル家の人たちさえも、フランス王を君主として仰ぐことには反対だったのです。

 

そしてブルターニュにとって何よりも幸いだったことは、翌1380年にシャルル5世が亡くなったことでした。1381年には二度目のゲランド条約が結ばれ、これによってイングランドとの同盟を解消し、それ以降のブルターニュ公国は、英仏のどちらからも距離をとる中立化政策を掲げたのです。 ジャン4世以降の歴代の大公たちもそれに倣い、おかげでブルターニュ公国はその後約100年の間、平和の中で繁栄することになるのです。

 

歴代のブルターニュ公の中で、ジャン4世はかなりの功績を残しています。勇敢公の異名があります。ブルターニュ継承戦争を終結させ、一時は気の迷いがあったものの、その後は両大国の間で巧みにバランスを取りながら中立化政策を進めていきました。イングランド、フランス両国との関係も良好に転じ、1396年からは両国より年金を受け取るまでになりました。

 

その2年後、20年ぶりにジャン4世がイングランドに渡った際にはガーター勲章が与えられ、没収されていたリッチモンドの領土も再び返還されました。1399年にジャン4世が亡くなると、 息子のジャン5世が跡を継ぎます。母親ジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランド王ヘンリー4世と再婚したため、ブルゴーニュのフィリップ豪胆公が幼いジャンの後見人となりました。

 

 

このフィリップ豪胆公なんですけど、シャルル6世が発狂した時代わりに政治をしてた人でもあるんですよね。1396年はちょうどその頃です。ここでブルターニュ公国とブルゴーニュ公国の結びつきは強くなります。それは近い将来、フランスにとっては脅威となったのは言うまでもありません。

 

成長したジャン5世の治世では、ブルターニュは平和でした。その頃ライバルのパンティエーヴル家が失脚していてモンフォール家の体制は磐石のものとなります。 その勢いは、フランス王家に対しても明確に示されていきます。

 

例えば1422年、フランス王シャルル7世の即位の式に出席したジャン5世の振る舞いです。これはランスの戴冠式ですね。

 

 

当時、フランス王の即位式では、列席の諸侯は跪いて脱剣で王に対するのが慣習でした。しかしその際、ジャン5世だけは、直立・帯剣のままフランス王に臣従の誓いをしたのです。王家にとってその態度は無礼に思えたことでしょう。しかし百年戦争もいまだ終わることなく続いている中で、こんなことでブルターニュを敵に回すことはフランスにとって良策ではないのは明らかで、シャルル7世もあえてそれを咎めようとはしませんでした。

 

ブルターニュ公が直立のまま臣従の誓いをするスタイルは、その後2代のブルターニュ公にも受け継がれていきます。そしてさらに、ブルターニュ公に即位するまではフランス宮廷の高官であったアルチュール3世は、なんとフランス王に対する臣従の誓いそのものを拒否しています。 ブルターニュ公国はフランス王国と対等の、独立した一つの国家であるという自信に満ちていたということです。

 

アルチュール3世の治世は短命に終わり、甥のフランソワ・デタンプが、その後フランソワ2世として即位します。 アンヌ・ド・ブルターニュの父です。

良い肖像画がないのが残念…。

 

  

 

彼もシャルル7世の宮廷に長く仕えた人物でしたが、歴代のブルターニュ公たちと同様、フランス王に対しては直立・帯剣のまま臣従の誓いをしています。しかし彼の代でブルターニュ公国が存亡の危機に直面することになります。

 

野心的なルイ11世は、ブルターニュ公国の併合に限らず、歴代のフランス王が成し遂げられなかった強力な中央集権体制の構築を目指していました。 しかしその頃のフランス国内には、王家を脅かすほどの力をもった諸侯たちが、依然として各地に存在しました。なかでも強大だったのが、ブルターニュ公国とブルゴーニュ公国でした。

 

この時期は、特にブルターニュとブルゴーニュの両公国は非常に親しい間柄であった上に、通商を通してフランス最大の敵イングランドとの関係も非常に良好でした。

そんな中、 ブルターニュ公フランソワ2世は王弟ベリー公シャルル、シャルル突進公、ルイ11世に反抗する諸侯たちと公益同盟を結んで、ルイ11世へ対抗します。

 

  

 

省略してしまいましたが、ルイ11世に反抗する諸侯たちを一応挙げておきます。

アランソン公ジャック2世、ブルボン公ジャン2世、ロレーヌ公ジャン2世、ヌムール公ジャック・ダルマニャク、アルマニャック伯ジャン5世、サン・ポール伯ルイ・ド・ルクセンブルク、アルブレ伯シャルル2世、デュノワ伯ジャン(ルイ12世の庶叔父)
アルマニャック伯、サン・ポール伯、アルブレ伯は辺境の中堅諸侯ですが、その他はいずれも王族かその女系相続した家系でした。

ルイ11世にはこんなにもたくさんの敵がいたのです。

 

 

またその過程で、ブルターニュ公国は、1494年にはイングランドとも軍事上の同盟関係を結び、フランスへは海上からも圧力をかけていたのです。 ブルターニュへは、王弟シャルルが1465年に亡命してきたのをはじめ、各地からルイ11世に不満を抱く貴族たちが集結し、公国はさながらフランス王家に対する反抗勢力が集まりました。

彼ら諸侯たちの結束はルイ11世にとっても大きな脅威となり、 彼らの要求に膝を屈せざるをえない場面も少なからず見られました。まぁ、実際はそれさえも計算の内だったのですが…。

 

1465年に結ばれたサン=モール条約にはブルターニュの司教区に対する王権の放棄が記され、さらにフランス王は一国の独立の証である貨幣の鋳造権までブルターニュに認めています。でもそんな約束事ももみ消してしまうのがルイ11世…。その過程でブルターニュとフランスとの間の緊張は高まり、両国の衝突は避けがたいものとなっていました。

 

1467年、次いで翌1468年、ついにフランス軍はブルターニュの辺境地帯にまで兵を進軍させますが大事には至りませんでした。ルイ11世にとっての当面の敵がブルターニュよりもはるかに強力なブルゴーニュだったのでそちらの対応に追われ、余裕がなかったのです。

1468年はペロンヌ会談でルイ11世はシャルル突進公の捕虜になっています。

1470年6月、フランスとブルゴーニュ両国の間で、 全面戦争が始まりました。その結果、ブルゴーニュは壊滅的な打撃を受け、 シャルル突進公がナンシーの戦いで戦死、 領地のほとんどはフランドル以外直ちにフランスに併合されてしまいました。ブルターニュにとって同盟国ブルゴーニュの敗北は、かなりの痛手で、王弟シャルルやアランソン公などの有力な反抗諸侯たちが次々に死亡して味方を失ったことで、フランソワ2世は孤立し追い詰められていきます。

 

 

今や頼りとなるのはイングランドや神聖ローマ帝国など、外国からの援軍だけとなったのです。

 

ブルゴーニュ公シャルル突進公が亡くなった1477年1月と同じ月の25日にフランソワ2世一家が住まうナント城で、将来のブルターニュ公国を大きく左右する女の子が誕生しました。アンヌ・ド・ブルターニュです。

 

 

翌年には妹のイザボーが生まれました。

その後、男子が生まれなかったので、アンヌは公国の相続人と見なされていました。しかし主筋にあたるフランス王国では、王位継承者は男子に限るというサリカ法が厳しく守られていたし、ブルターニュ公国でも大公は男子に限るというゲランド条約をなかなか無視することもできず、ブルターニュ公国は男子の誕生を待ち望んでいたのです。ちなみに、ライバルのパンティエーヴル家でも、この時点での相続人は女子でした。ゲランド条約最大の問題が浮上しました。

 

このブルターニュ公国最大の弱点をルイ11世は見逃しませんでした。 ブルターニュ公国の併合を目論むルイ11世は、1480年の冬ブルターニュにおける最後の一手を仕掛けます。何度も書いていますが、パンティエーヴル家が所有していた公国の継承権を5万エキュで購入するという奇策です。

 

 

5万エキュも大金です。15世紀の貨幣価値がどれだけなのか資料がないのですが、16世紀の貨幣価値だと1エキュあたり日本円にして6,000円だそうです。6,000×50,000=3億…

ブルターニュ公国の価値が凄すぎですね…

 

もしこのままフランソワ2世に男子が生まれず、サリカ法あるいはゲランド条約を遵守するのであれば、公国は合法的にルイ11世のものになります。

 

独力ではフランスに対抗できずに追いつめられたブルターニュ公国は、アンヌの婚約をちらつかせて諸外国の援助を仰ぐことにした。 そこで1481年4月、まず神聖ローマ帝国と、続いて同年5月、イングランドともそれぞれ同盟関係を結びました。特にイングランドとは、娘のアンヌとイングランド皇太子エドワードもしくはその弟のヨーク公との結婚の密約をも交わしていました。 しかし国家間の外交では、保険はお互いできるだけ多くかけておいた方が良いということで、 将来の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンも、ブルターニュとの同盟関係を築きます。神聖ローマ帝国はルイ11世の計らいではあるもののフランスとの間に縁戚関係が結ばれています。 フランス王太子シャルル(シャルル8世)とマクシミリアンの娘マルグリット・ドートリッシュの婚約が発表されたのは、1482年のことでした。 わずか2歳で誘拐同然でフランスに連れていかれたマルグリット。

 

 

将来のフランス王妃として、その後、宮廷で育てられていきます。

ところが、ブルターニュ公国とイングランドとの縁戚関係の策は、思いもかけない事件で白紙になりました。イングランド王エドワード4世が1483年に死去すると、弟のリチャードが兄の子どもたちであるエドワード5世と弟のヨーク公を殺害してしまったからです。 

一方、 フランスでも、この年の8月にルイ11世が亡くなりました。

 

とここで、フランス視点とブルターニュ公国視点の時系列が追いつきました。

ルイ11世が亡くなった年=シャルル8世が即位した年である1483年を基準にブルターニュ公国が累計何年独立を守ってきたのか計算してみました。

 

1483-845=638

 

うち、イングランドの支配下に置かれていた1166~1202年で36年

百年戦争中は1349~1359年で10年

 

638-46=592

 

な、なんと累計約592年間独立を守り続けたことが明らかになりました!!!!

 

6世紀分ですよ!6世紀分!

 

これまで、窮地に陥っても幾度となく乗り越えてきたブルターニュ公国。

 

 

これじゃあ、海外の人たちがアンヌ・ド・ブルターニュの結婚を重要視するのも無理はない。

 

 

 

ここまで独立を守ってきた小国は他にありません!!

 

592年の独立の歴史を守ってきたブルターニュ公国を征服した王こそ…この人なわけで。

 

 

これはね…脳内麻薬出ますよ。

次回は、いよいよシャルル8世について書きます。

 

続きます。

 

2023年4月7日脳内麻薬が消失した日より、能力開発士Kyokoがオンラインサービスを開始しました。波動体感基礎講座、速読サブリミナル、承認欲求対策、強迫観念対策豪華な品ぞろえとなっていますキラキラ