続きを書いていきます。

前回の記事はこちらです。

 


「税金の父」シャルル5世ですが、税制改革を行い善政を敷くことに成功しフランスは持ち直します。

百年戦争は、1415年に再び再戦となりました。
仕掛けたのはイングランド側でヘンリー5世です。イングランドではエドワード3世の後、跡継ぎが若くして亡くなったのでランカスター家のヘンリー4世が王になりその後をヘンリー5世が継ぎました。

 



そしてフランスですが、シャルル5世の子シャルル6世は11歳で即位しました。

 


若年で王になったため、叔父たちが摂政をします。1385年にドイツバイエルン公の娘イザボーと結婚しますが、この女性はかなり強烈な女性です。

 

  

 

「私はお飾りの王妃では嫌」とばかりに

イザボーに尻を叩かれてシャルル6世は20歳の時に親政を始めますが、発作が起きて発狂してしまいました。精神疾患を起こしてしまいました。統合失調症又は躁鬱病ではないかとする説があります。これではまともに政務などできやしないです。

父のシャルル5世はあまり欠点がなかったと言われていますが、致命的な失敗があります。それは王妃の選択を間違ったこと。
王妃は、ジャンヌ・ド・ブルボンという人です。

 

 

この人は、シャルル5世の従兄妹なんですね。血族結婚をしているということです。血が濃くなることでやはり弊害が出てきます。王妃の家系つまりブルボン家の近親者には精神疾患を患う者が多く、遺伝性疾患であったと考えられています。
シャルル5世の政策は悪くはなかったけれど、このことがヴァロワ朝の毒親・家系の負の連鎖を生み出すきっかけになったと思っていて、このような構図が出来上がります。
父方、母方で作ってみました。

 

 

 

恐ろしく不気味ですがまさにこんな感じだと思います。近親婚の両親からシャルル6世→シャルル7世→ルイ11世、そして一番先頭にいる小さいのが…。

シャルル6世は、病気の悪化でイザボーに対する態度が酷くなり暴力を加えるほどになっていきました。愛されず傷つけられたイザボーは性格が歪み暴走していきます。

 


イザボーの強烈な暴走っぷりはこちらの動画でよくわかります。ヤバすぎです。

 

 

シャルル6世がこんな状態なのでブルゴーニュ公フィリップ豪胆公、王弟オルレアン公ルイは実権を握るために激しく対立しました。そして暴走したイザボーは王弟オルレアン公ルイと関係を持ち始めました。

不倫関係はオルレアン公ルイだけではなくアルマニャック伯ベルナール7世、ブルゴーニュ公ジャン無畏公とも関係を持ち、女が実権を握れないから色気を武器に男を操って争わせる手段に出たのでしょう。

左からオルレアン公ルイ、アルマニャック伯ベルナール7世、ブルゴーニュ公ジャン無畏公です。

 

   


そして、動画でもあった通りシャルル6世はイザボーを恐れるようになっていきました。イザボーは更に好き放題やりまくります。贅沢の限りを尽くし散財します。イザボーの浪費癖のせいで、子どもたちはろくな衣服も食事も与えられなくて修道院で食べさせて貰うという状態で、完全に育児放棄しています。
その子どもの中に後のシャルル7世もいました。母に愛されなかったシャルル7世の波乱万丈な幼少期でまともな人格になれるでしょうか?毒親の連鎖はもう始まっていました。

そして1407年にジャン無畏公がオルレアン公ルイを暗殺してしまいました。

 

 

身内同士の醜い争い。そしてイザボーはとても強烈な毒女ですね。尻軽も甚だしい。「淫乱王妃」とまで呼ばれました。親戚同士の諍いに一人の女が引っ掻き回し内部崩壊に…。

 

ただ、イザボーを暴走させた原因はシャルル6世!

自分はガラスでできていると異常な妄想癖があり、脆弱な体を守るため、鉄で補強された特殊な衣服を身に着けていました。自分が触れられると粉々になってしまうのではないかと恐れた王は、誰にも触れさせないようにしたそうです。

 


医師たちはこの病を「前代未聞の奇病」と診断し、頭蓋骨に穴を開けるなどあらゆる治療法を試みました。

脳への圧力を和らげることを目的として、王の頭蓋骨にいくつかの穴を開けました。

画像はイメージです。

 

 

 

シャルル6世は手術後に一時的な安堵感を感じましたが、効果はなく再発に見舞われました。

 

 

シャルル6世の病気の破壊力は凄まじい!!!!

 


オルレアン公ルイの息子シャルルは舅のアルマニャック伯ベルナール7世を頼り(アルマニャック派)、ブルゴーニュ公との対立はさらに激化しました。フランスの情勢をじっと見つめていたヘンリー5世は、内部分裂している今こそ好機と考え、フランスに宣戦しました。戦争の幕は1415年にフランス西北、 アザンクールの戦いで切って落されました。この戦いはイングランドの大勝です。ヘンリー5世はフランスを南進し、1419年にセーヌ河畔にあったノルマンディーの首都ルアンを落としました。 

 

アザンクールの戦いの様子はこちらの動画でわかります。海外版なので日本語字幕にしてみてください。設定の仕方は各自で調べてください。

 


この年に、今度は2代ブルゴーニュ公ジャンが、王太子シャルル(のちのシャルル7世)の手の者に暗殺されました。ところでブルゴーニュ公の領地の中心は、ワインで有名なブルゴーニュではなく、むしろフランドル地方にありました。そして代々のブルゴーニュ公は、ほとんどフランドルに住んでいました。

3代目ブルゴーニュ公になったフィリップ善良公は、ヘンリー5世の強さを見て考えました。 

 

 

フランドル地方は、イングランドから羊毛を買って毛織物をつくり、付加価値をつけて販売していました。もともとイングランドとの結びつきが強い地方なのです。 ブルゴーニュ地方の防衛を考慮に入れて、善良公はヘンリー5世と和解します。そして1420年、イングランドとブルゴーニュは連合してフランスと対峙し、トロワ条約という屈辱的な講和条約を強引に締結させます。


精神を病むフランス王シャルル6世は、自分の息子である王太子シャルルを廃嫡し、娘カトリーヌをヘンリー5世と結婚させて、次期フランスの王位をヘンリーに譲るという条件を飲まされたのです。ヘンリー5世は栄光に包まれ、イングランドランカスター朝はその全盛期を迎えました。

シェイクスピアの戯曲を元にしたヘンリー5世の映画「キング」がNetflixオリジナル映画として配信されています。

 


ヘンリー5世はずっとイングランドで育ったので、フランス語が達者ではありませんでした。ノルマン・コンクエストから350年以上が過ぎて、ようやくイングランド王もフランス離れをしていたとも言えます。 
ところがトロワ条約が結ばれてから二年後、ヘンリー5世はわずか34歳で急死しました。 その後すぐにシャルル6世も没し、生後一年に満たないヘンリー6世がフランス王およびイングランド王として即位しました。

 

百瀬さんの動画、シャルル6世後半の解説はこちらです。

 

 

幼いヘンリー6世にはもちろん統治能力がありません。 ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政になってフランスを治めました。

 

 

一気に窮地に追い込まれてしまったフランスです。これから一体どうなってしまうのでしょうか。

 

続きます。

 

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