続きを書いていきます。


前回の記事はこちらです。

 

 

百年戦争の頃となると有名なのがジャンヌ・ダルクだと思いますが、まだ登場は先の話です。高校の世界史で習うことのなかった百年戦争も最初から最後まで知らないとやはりわかりません。



クレシーの戦いで惨敗したフランスは、1347年にフィリップ6世とエドワード3世のもとで休戦協定が結ばれました。このころ、マルセイユの港からフランスにペストが上陸しました。

 

 

ペスト医師が治療に当たります。

 

 

この格好は、現代でいう防護服ですね。くちばしの中に香辛料が詰められていたそうです。

 

治療の様子です。

 

 

顔がほとんど見えない匿名性の高いこのマスクは素性を隠すのにも一躍買っていたようで、ペスト医師はしばしば実績の無い若い医者や、本業では生計を立てられない者が兼業として行っていたこともあったそうです。

 

ペストの治療としては、讃美歌(効くわけがない)や瀉血、薬草や丸薬など、従来のありとあらゆる治療が施されたそうですが全く効かなかったそうです。

医学の進歩を妨げたのはキリスト教のせいです。


ペストが大流行したのは、世界史ではモンゴル帝国がもたらしたものだと習ってきたのですが濡れ衣だと思います。発祥の地を見ると、その地域はハザール王国があった場所でした。ペストはハザールユダヤが仕掛けた生物兵器ではないかと思っています。

 


このことを調べようとすると、悪神の邪気を感じました。ペストは、14世紀に大流行したのが一般的ですが、それ以前にも他の地域で起きていました。6~8世紀の東ローマ帝国や7世紀の中国の隋でもペストが発生していたようで、きな臭さを感じます。
歴代の数々の大帝国の崩壊の際にはハザールユダヤが暗躍していたそうですが、もうこの頃から動き出していたのかなと。

 


ペストの大流行で1348年にはフランス人の実に3人に1人が死んだそうです。フィリップ6世が崩御すると、長子ノルマンディー公ジャンがフランス王ジャン2世として即位しました。「良王」の異名を持っています。

 

 

ジャン2世はクレシ―の戦いの大反省から軍隊の抜本的な改革を行いました。フランスの敗因としては、国内諸侯の忠誠心の低さでしょう。歴代の中途半端な封建制の弱点が露呈したとも言えます。現代においてもそうですが、フランス人というのは我が強く何かしらトラブルを起こすのもフランス、大改革が起きるのもフランス、そんなイメージがあります。フランス人の行動力だけは本当にすごいんですけどね。
 

軍というのは、ただ兵力が多い武力が強いだけではダメで、しっかり統率が取れていないと士気が上がりませんし、戦略も大事であって、それは戦局に大いに影響します。イングランド軍の強さは、領土が縮小された段階から自国の足元固めに入り、国内の結束力を高めたことにあると思います。
だからあんなに強かった。フランスは領土を回復させても、忠誠心が薄くて言うことを聞かない諸侯が増える一方で領土の広さが逆に仇となってしまったと見えます。
ジャン2世は、忠誠心の強い軍隊の編成のために今までの人事を変えてしまいました。家柄とか関係なく能力主義で優秀な人材を抜擢しようとしたのです。しかし、抵抗勢力が立ちはだかります。今までのやり方でおいしい思いをしてきた諸侯や貴族たちが反発します。
ジャン2世はナバラ王シャルルと対立してしまい、ナバラ王シャルルは血筋も良いのでエドワード3世の件もあってかフランス王位を狙いはじめます。敵の敵は味方ということで、こっそりエドワード3世とも密約を結んでいました。

ナバラ王シャルルの話は説明し出すと長いので百瀬さんの動画の方がわかりやすいかと思います。

 


そして、百年戦争も再開されます。1356年に、ポワティエの戦いではジャン2世による統率のとれたフランス軍が優位かに見えました。

 

 

英語版ポワティエの戦いです。ペストの広がり方もわかりやすいです。
字幕設定で日本語にすると日本語の字幕が出ます。設定の仕方は各自で調べてください。

 


残念ながら、またもや敵国の少数精鋭部隊に負けてしまったのです。フランスは前回の戦いから学んだことは騎馬のことだと思い込んでいて肝心なことを見落としていたのです。圧倒的なロングボウの強さにやられてしまいます。

 

 

また、エドワード黒太子による奇襲攻撃で総崩れとなりました。ジャン2世は捕虜となりイングランドへ連れていかれました。



 

フランス国内は大荒れとなりました。侵入してきたイングランド軍に農地は荒らされるは食物や女性が略奪されたりと最悪でした。また、フランス兵士の中身は大半が傭兵なので、戦争が休戦となればそれはクビを意味します。傭兵たちは盗賊と化し国内を荒らしまくりました。
1358年には農民反乱ジャクリーの乱が起きました。
ジャン2世が捕虜となったことで王太子シャルルが国政を担うことになりました。
深刻な財政難の中、エドワード3世は要求してきます。ジャン2世の身代金四百万エキュ、アキテーヌの宗主権付き割譲、ブルターニュ領の宗主権、2回目の交渉にはフランス王位の放棄は明言されたけれど更にノルマンディー、トゥーレ―ヌ、アンジュ―、メーヌの割譲を要求してきました。
財政難のフランスはこれを拒否し、怒りのエドワード3世は挑発行為に乗り出すも、1360年にローマ教皇が仲裁に入ったことで再び条約が結ばれたのです。イングランドに押されまくっていた百年戦争ですが、国力自体はフランスの方が上でした。人口も3倍以上。1364年に王太子シャルルはシャルル5世(賢王)として即位しました。


 

そして巻き返しが起こります。まず、シャルル5世は税制改革を行いました。しっかり税金を確保して軍資金を調達すれば、イングランドなんぞに負けるはずはないと考えました。
そして人頭税、消費税、塩税を三本の柱として財政基盤を築き直します。これが良策で、後に彼は「税金の父」と呼ばれました。
そしてタイミングよく、デュ・ゲクランという名将も登場したこともあり、ロングボウの弱点を知り尽くしたデュ・ゲクランの戦術により、コシュレルの戦いでは勝利しました。もともと地力の合ったフランスは財政を立て直します。そして、シャルル5世は失われた国土のほとんどを奪還することに成功しました。
その後、両国は小競り合いを続けますが、1396年には一時休戦となりました。その理由は両国とも後継者問題が生じたからです。

 

 

 

ここでもブルターニュは出てきますが、ブルターニュの件は歴代の王たちも頭が痛いようです。ゲランド条約でイングランド派のモンフォール伯ジャンを領主にすることは認めるがブルターニュがフランスの領土の一部であることを認めさせ、フランス王家に臣下の礼をとることを約束させることで中立化させることに成功しました。中立化なので独立は守られています。ブルターニュは強い…。

 

シャルル5世もまた歴史上では名君であるとされていますが…。

このシャルル5世も誤った選択をし、それが後々国内で災いをもたらすことになっていきます。

シャルル5世の崩御が一つのターニングポイントで、フランスは激動の時代へと移っていきます。

 

続きます。

 

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