武則天は、儒教の男尊女卑と男性社会を仏教の力で克服させました。

 

インドから、中国に伝わった仏教は「五障三従」の誤った解釈が加えられています。

 

 

 

また、武則天の大義名分にした大雲経も偽作説があります。

 

 

そもそも『大雲経』とは5世紀初の五胡十六国時代、北涼の時に曇無讖(どんむせん)が訳した『大方等無相経』を指し、国王の仏教保護のことが書かれています。

 

『大雲経』は五巻、六巻、四巻あるいは九十余紙と伝えられています。また、巻数や残されている目録から判断しても武則天の武周王朝では曇無讖訳の『大雲経』が流行していただろうと考えられます。

 

 

『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』『仏祖統紀』など史書にも武則天と『大雲経』の関係についての記述が見られます。そこでは、690年に武則天の寵愛を受けていた薛懐義をはじめとする僧十人で、当時流行していた『大雲経』をもとにして、新たに『大雲経』がつくられたととることができるのです。『大雲経疏』といいます。

つまり、大雲経を 「偽撰」(『旧唐書』)、「重訳」(『仏祖統紀』)したとしていることです。

Wikipediaにも偽作と書かれていました。

史書は後の王朝の人間が編纂し思い通りに改竄する例も少なくないので鵜吞みにしない方がいいと思われます。『資治通鑑』は北宋、『仏祖統紀』は南宋の時代のため儒教視点で書かれている可能性があります。

 

これまで多くの研究では史書の記述をもとに、武則天が『大雲経』を新たに偽作したと考えられてきました。『資治通鑑』によると、690年に表出された『大雲経』は四巻ですが、この経典は現存していないので、内容も不明だそうです。また、薛懐義らの書いた『大雲経疏』は表出5年後に選定された「大周刊定衆経目録」に掲載されていないということです。それ故、今までは偽作・重訳であるから目録にも掲載されることなく、経典も伝わっていないのだとされてきました。

 

しかし、その『大雲経疏』の存在において重要な文書が敦煌から発掘されており、研究や考察が進みました。『大雲経疏』は 『大雲経』に対する注釈書です。ただ、この『大雲経疏』は特殊な注釈書のようです。

何故なら、そこにはある経典の全文あるいは、そのうちの一連の文章を注釈するものではなく、そのなかの数行を断片的に引用して解釈しているものだからです。

 

その箇所は『大雲経』中の大部分が第四巻に見られ一部、第六巻にも見られるという特徴があるのだといいます。

また第四巻から引用されている部分は浄光天女に対する授記(仏が弟子に将来仏になることを予言すること)で占められていて、この敦煌で見つかった文書は全体からも浄光天女に対する授記を趣旨や意味を押し広げて詳しく説明しながら注釈していたという事実が明らかになりました。

『大雲経』を偽作とする観点から見る『大雲経疏』の引用文と曇無讖訳の『大雲経』の間で一致を欠いている箇所は原典よりも五分の二ほど長い程度にすぎず、取るに足りないものであり、これらの異同は実際まったく些細なものであったようです。

したがって、『大雲経琉』の著者たちが原型を変形して引用文の形や内容を改竄したことはないということを断言する説が出ています。

 

女帝即位の大義名分にするつもりで説得力を上げ強調させるために引用したということです。仏教も原始仏教は男女平等です。

本当に偶然なのか『大雲経』を経て仏教に後付けで加えられた男尊女卑の教えさえも武則天は克服してしまいました。

691年には「仏先道後」の詔が出され、完全に道教と仏教の立場を逆転させました。

 

 

高宗時代に与えた老子の尊号を剥奪し、科挙の明経の課題から『老子』を削除したのです。皇后時代の道教優先主義はあくまで唐室の皇后としての態度だったのです。唐室内の反感を抑えるためにとった方策でした。

そして、儒教については儒教的名称や故事の形式的な継承と権威の象徴的なパフォーマンスとしてのみ利用しただけで、存在感はほぼないような扱いでした。前漢以降に設置された儒学の教育施設「太学」では武則天以来20年間、学校はほとんど廃校状態で、儒教を軽視する風潮が盛んになったくらいでした。

 

仏教の力で国を治める鎮護国家の形成を理想とした武則天の政策は日本に大きな影響を与えます。前述しましたが、聖武天皇が鎮護国家を目指したのは武則天の影響です。続いて光明皇后や孝謙(称徳)天皇にまで影響を与えます。

彼女の政策は日本の飛鳥・奈良時代のお手本となったのです。