お釈迦様の入滅後、尼僧教団に対する考え方も変化していきました。

女性の出家を許した後、お釈迦様は次のような苦言を漏らしていたと伝えられています。

 

「アーナンダ、女性が出家しなかったならば、梵行は永遠に守られて行くだろう。正法は千年の間、世間に流布するだろう。だが、じつのところ、アーナンダ、いま女性の出家を認めてしまったからには、正法は半分の五百年くらいしか世間に流布しないだろう。たとえば、女性が多い家というのは、盗人や強盗に荒らされやすいだろう。そのように、女性の出家者がいる教団では、梵行はながく続かないだろう。

 

「たとえば、稲田やさつま芋の田に病気が起きると、その田は長く耕作できないように、女性がいる教団は長くは続かないだろう。」

 

しかし、実際このような対話があったかどうかは疑わしく、捏造説が濃厚のようです。

この文献が記されたのはお釈迦様入滅後2、300年の年月が経っており、弟子たちが自らの意見を加筆して伝えたものだと言われています。

尼僧の存在をよく思わない男僧たちが、自らの本心をお釈迦様が言ったことにしてしまい、記録したものではないかと推察できます。また、お釈迦様滅後、弟子のマハーカッサパらが、アーナンダを女性の出家に口添えしたとして非難したとも言われています。

 

お釈迦様は「私が説いた教えと戒律だけを師としなさい」と言い遺しています。つまり、教えを実践することが信仰であり、お釈迦様への個人崇拝を良しとしませんでした。

また、お釈迦様は孔子とほとんど同世代の人です。インドは中国と違い文字こそありましたが竹簡や木簡、メソポタミアの粘土板のような記録できる優れた筆写材料がありませんでした。古代インドでは、伝統に従って仏教文献の伝承も口承・暗唱が基本でした。つまり開祖から弟子の伝言ゲームが行われているようなものです。

記憶だけを頼りに伝承していくのは相当難しいと思います。仏教と同時代に発祥したマハーヴィラのジャイナ教も口承・暗唱が伝統だったため、開祖自ら記録に残すことはありませんでした。1世紀以降は写本による伝承も徐々に始まっていき、主に貝葉という椰子の葉を加工したものに文字が記されたようです。

 

 

後世の仏教教団は尼僧のみの教団を足手まといと感じていて、尼僧を出家させたのはお釈迦様の真意ではなかったとしています。お釈迦様にとっても女性の出家は想定外だったかもしれませんが、条件付きで出家を認めています。理論的には男女平等が説かれ、出家という限定付きですが、教え通りに悟りに到達した女性も存在していました。

 

 

しかし、尼僧には厳しい戒律が追加されているので、どうしても教団の中心は男僧になります。入滅後の経典の整備や加筆も男僧たちによって行われました。時代を経るにしたがって、お釈迦様の精神は薄れ、男僧たちの思いがお釈迦様の言葉として反映され経典に記されるようになってしまいました。

 

しまいには、お釈迦様の思想とはかけ離れた女性差別的な思想が形成されるようになってしまいました。