俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は残業ナッシブルだったから
急ぎ帰還してセレブ出勤チケット1ヶ月分手配して
駅前のコンビニ寄ったら
前日別のコンビニに居たバイトの心地好い応対のイケメン〈スギモト〉くんが居たから
monster差し入れ
体育館JYM鍛練に出陣
此度はまづ乳筋上部鍛練インクラインダンベルプレス30㌔負荷5set計44回+乳筋鍛練ダンベルフライ30㌔負荷5set計25回+乳筋下部鍛練ケーブルクロスオーバー40㌔負荷2set計40回+50㌔負荷2set計20回+60㌔負荷4set計20回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス3set計50回鍛練仕り申したぜィ
昨日は我が方の職場の〈豆柴ヒロクン〉も体育館JYMのバイト〈イケメン隆紀クン〉も、いまひとつ愛想悪かったナァ
いつもはメッチャ愛想Aのに
今日6月28日は1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市〉主〈北条氏綱〉が〈第一次河東の一乱
〉で駿河
駿東郡・富士郡を占領して、武蔵で〈扇ヶ谷上杉朝興〉亡き後家督を相続した〈扇ヶ谷上杉朝定〉との戦いへ転戦のため出陣した日
更に1541年天文10年に6月14日父親〈武田信虎〉を追放した嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉が、先祖〈源新羅三郎義光〉の「楯無鎧たてなしよろい」「御旗みはた」に誓う、武田家家督相続の儀式を執り行い、「甲斐守護職」「大膳大夫」を称して甲斐国主となった日。
更に1549年天文18年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子〈菅領=細川晴元〉らが前日退避した、京都東山〈慈照寺=銀閣寺〉から〈志賀(山中)越え〉で近江〈坂本〉の〈常在寺〉へ動座して仮幕府とした日。
更に1551年天文20年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が、公卿〈近衛稙家〉に尾張〈那古屋城=現名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈織田上総介信長〉と駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉との和睦継続を働きかけるよう要請した日。
更に1556年弘治2年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉との果てしない戦いと、越後国内の国衆同士の領地争いに苦心し
突如として隠居・出家を宣言後〈春日山城〉を出て密かに、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉へ向かった日。
更に1565年永禄8年に河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈安見宗房〉が5月19日〈永禄の変
〉で〈将軍義輝〉が〈三好義継〉〈三好宗渭(政康)〉〈三好長逸〉〈松永久通〉(松永弾正少弼久秀嫡男)らに襲殺された事を報じ、使者として〈大覚寺=義俊〉を介して
越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉や尾張〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)主〈織田信長〉らと共に上洛を要請し〈安見宗房〉自らも〈畠山秋高〉〈遊佐信教〉と共に参陣すると意向を伝えた日。
更に1570年元亀元年に〈織田信長〉〈徳川家康〉連合軍と〈朝倉景健〉〈浅井長政〉連合軍が、北近江〈姉川の合戦
〉で激突し
織田・徳川連合軍が大勝した日
天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉と盟友〈徳川家康〉連合軍2万8千が
裏切った妹婿、北近江〈浅井長政〉の〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)を包囲し
対する〈浅井長政〉からの救援要請を受けた、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉は自らは出陣せず、一族の〈朝倉景健あさくらかげたけ〉を総大将として8千を派兵し
〈浅井長政〉も〈小谷城〉を討って出て
浅井・朝倉連合軍1万8千
が〈
姉川
〉を挟んで対峙し
〈織田信長〉は遺恨有る裏切り者の妹婿〈浅井長政〉との対決を
一方〈徳川家康〉は〈朝倉景健〉軍と戦う事を望み
28日夜明け両軍が激突し
両軍一進一退の攻防戦
が続き、当初浅井軍が織田軍を押しまくり
織田軍13段備えのうち11段まで崩され優勢であったが…午後2時頃、徳川軍が朝倉家で剛力で勇名を馳せる〈真柄直孝〉を討ち取り「徳川四天王」の勇将〈本多平八郎忠勝〉が迂回して
朝倉軍の後方からの奇襲攻撃により、朝倉勢は敗走
ついに浅井勢も総崩れとなり〈小谷城〉へと撤退
〈織田信長〉は深追いをせず
織田軍は〈小谷城〉城下町一帯を焼き払い
近隣の〈横山城〉に〈木下藤吉郎秀吉〉隊
を入れて、京都へと凱旋(がいせん)し
地元では別名〈野村・三田村合戦
〉とも云われている…
同じ日〈織田信長〉と敵対中の〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉軍が、摂津〈池田城〉(現大阪府池田市)から摂津〈吹田〉に進撃した日
更に1575年天正3年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立した事で
〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉からの強い要請を受けて〈室町幕府第14代将軍=足利義栄〉を擁立した為「関白職」を辞任して、丹波〈黒井城〉(現兵庫県丹波市)主〈赤井直正〉のもとに身を隠していた〈太閤=近衛前久〉が京都へ帰洛した日。
更に1581年天正9年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉の上使として薩摩へ下向した〈伊勢貞知〉が要請した、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉との和睦に対して、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が和議に応じる旨の書状
を差し出した日。
〈前右大臣信長〉としては
自らが追放した〈将軍義昭〉を奉じて敵対中の
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の背後を脅かすべく、豊後の〈大友宗麟〉に九州から牽制させようと画策したのだった…
更に1582年天正10年に〈本能寺の変〉後の混乱に乗じて、武蔵〈神流川の合戦
〉で相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉の大軍に大敗した〈滝川左近将監一益〉が上野・信濃支配を諦めて伊勢への撤退途上、信濃〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉に〈木曽谷〉通過の許認可を得る為に、人質として伴ってきた、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉〈現長野県上田市〉主〈真田安房守昌幸〉の母親や〈真田信繁=後の真田幸村〉らを引き渡した日。
同じ日6月2日〈本能寺の変
〉で〈織田信長〉を襲殺した〈明智日向守光秀〉の娘婿〈明智左馬助秀満〉は事変後〈明智光秀〉の命で、近江〈安土城〉を守備していたが〈山崎の合戦
〉で舅〈明智光秀〉が大敗した事を知ると〈安土城〉を出て〈坂本城〉(現滋賀県大津市)に戻り15日明智一族を殺害した後自刃して果てたが…その〈明智秀満〉の親が捕らえられたと〈明智光秀〉とも親交の有った公卿〈武家伝奏=勧修寺晴豊〉が知った日
同じ日、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉が〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて能登で蜂起して攻め滅ぼした〈畠山氏〉旧臣〈温井景隆〉〈三宅長盛〉に〈石動山=天平寺〉衆徒〈般若院=快存〉らの首級を〈大柴峠〉に晒した日
更に1583年天正11年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈賤ヶ岳の合戦
〉で戦勝した
山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に、家臣〈大石播磨守綱元〉を使者として派遣し太刀・馬
を進呈した日。
更に更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が「惣無事令そうぶじれい」(私戦停止令)に違反し信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方支城、上野〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を討伐すべく
京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市中京区)を出陣した〈関白秀吉〉は
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主の義弟〈駿河大納言=徳川家康〉を先鋒として、相模〈小田原城〉に向け、諸大名が続々と出陣して
〈箱根峠〉の要衝に築城された北条方最前線基地〈山中城〉(現静岡県三島市)を僅か一日の攻防戦で
攻略したのだった。
そして4月初めから〈関白秀吉〉は〈箱根湯本〉(現神奈川県箱根町)の、北条氏歴代の菩提寺〈早雲寺〉に本陣を構えて〈小田原城〉を水陸20万余の大軍で包囲し
〈小田原城〉は、かつて越後の〈上杉謙信〉や、甲斐の〈武田信玄〉の攻撃をも退けた
難攻不落の堅城で、その城郭は山より海辺にまで至る巨大な城塞で
北条氏は籠城戦には絶対的な自信と成功体験を持っており
包囲する豊臣軍は寄せ集めの混成部隊であって
かつて関東の諸大名を糾合して攻め寄せて来た〈上杉謙信〉も攻めあぐねて撤退を余儀なくされ、北条軍に追撃され、敗退していた為、北条氏は袋の鼠(ネズミ)ならぬ袋の中の虎であった…
その為〈関白秀吉〉は、関東各地の北条方支城である、伊豆〈韮山城〉箱根峠〈山中城〉相模〈玉縄城〉武蔵〈江戸城〉〈岩槻城〉〈河越城〉〈八王子城〉〈鉢形城〉上野〈沼田城〉〈厩橋城〉〈館林城〉他を、別動隊によって次々に攻め落とし、降伏させていったのだった…
そして〈関白秀吉〉本隊は〈早雲寺〉を焼き払って〈小田原城〉を眼下に見下ろす、天堅〈笠懸山かさがけやま〉の山上に、密かに城を築城して本陣を移した日
〈関白秀吉〉は〈笠懸山〉を約80日に及ぶ突貫工事で、城壁や櫓(やぐら)は、板に城の塀や櫓は板に杉原紙を貼って描かせた絵を描いて張りぼてで見せた、総石垣造りの要塞を築城させ
〈小田原城〉からは、樹木に隠れて見えないうちに…完成とともに
夜明け前に〈笠懸山〉前面の樹木を一斉に伐採させたのだった。
すると〈小田原城〉の北条方からは、昨日まではただの山であった〈笠懸山〉山上に突如!総石垣造りの城が浮かび上がっていた為
この〈石垣山一夜城〉に驚き
〈関白=豊臣秀吉〉の圧倒的軍事力の前に驚愕し
北条方の城兵は驚き入り
〈関白秀吉〉の絶大な軍事力を見せつけられ
北条方は戦意を喪失させていくのであった…
更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、家臣〈石田治部少輔三成〉〈大谷刑部少輔吉継〉〈増田長盛〉〈小西行長〉らを通じて〈明国〉〈皇帝=万暦帝〉との間で和議の7ヶ条の条々を提出した日。
更に1601年慶長6年に〈対馬〉領主〈宗義智そうよしとし〉が、亡き〈太閤秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉で国交断絶となった〈朝鮮〉に修好を要請した日で〈宗義智〉は前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉では西軍〈石田三成〉方に与したが、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉は戦後、悪化した〈朝鮮〉との国交回復を迅速化させる為〈宗義智〉を処分せず処領地を安堵し外交交渉を命じたのだった…
更に1605年慶長10年に亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の正室〈高台院=北政所ねね〉が〈大御所=徳川家康〉の多額の援助により、京都東山に〈高台寺〉を建立して移り住んだ日。
よって件の如し
恐々謹言水無月二十八日 太閤









参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



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昨日は残業ナッシブルだったから
急ぎ帰還してセレブ出勤チケット1ヶ月分手配して
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昨日は我が方の職場の〈豆柴ヒロクン〉も体育館JYMのバイト〈イケメン隆紀クン〉も、いまひとつ愛想悪かったナァ
いつもはメッチャ愛想Aのに
今日6月28日は1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市〉主〈北条氏綱〉が〈第一次河東の一乱
〉で駿河
駿東郡・富士郡を占領して、武蔵で〈扇ヶ谷上杉朝興〉亡き後家督を相続した〈扇ヶ谷上杉朝定〉との戦いへ転戦のため出陣した日
更に1541年天文10年に6月14日父親〈武田信虎〉を追放した嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉が、先祖〈源新羅三郎義光〉の「楯無鎧たてなしよろい」「御旗みはた」に誓う、武田家家督相続の儀式を執り行い、「甲斐守護職」「大膳大夫」を称して甲斐国主となった日。
更に1549年天文18年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子〈菅領=細川晴元〉らが前日退避した、京都東山〈慈照寺=銀閣寺〉から〈志賀(山中)越え〉で近江〈坂本〉の〈常在寺〉へ動座して仮幕府とした日。
更に1551年天文20年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が、公卿〈近衛稙家〉に尾張〈那古屋城=現名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈織田上総介信長〉と駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉との和睦継続を働きかけるよう要請した日。更に1556年弘治2年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉との果てしない戦いと、越後国内の国衆同士の領地争いに苦心し
突如として隠居・出家を宣言後〈春日山城〉を出て密かに、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉へ向かった日。更に1565年永禄8年に河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈安見宗房〉が5月19日〈永禄の変
〉で〈将軍義輝〉が〈三好義継〉〈三好宗渭(政康)〉〈三好長逸〉〈松永久通〉(松永弾正少弼久秀嫡男)らに襲殺された事を報じ、使者として〈大覚寺=義俊〉を介して
越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉や尾張〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)主〈織田信長〉らと共に上洛を要請し〈安見宗房〉自らも〈畠山秋高〉〈遊佐信教〉と共に参陣すると意向を伝えた日。更に1570年元亀元年に〈織田信長〉〈徳川家康〉連合軍と〈朝倉景健〉〈浅井長政〉連合軍が、北近江〈姉川の合戦
〉で激突し
織田・徳川連合軍が大勝した日
天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉と盟友〈徳川家康〉連合軍2万8千が
裏切った妹婿、北近江〈浅井長政〉の〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)を包囲し
対する〈浅井長政〉からの救援要請を受けた、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉は自らは出陣せず、一族の〈朝倉景健あさくらかげたけ〉を総大将として8千を派兵し
〈浅井長政〉も〈小谷城〉を討って出て
浅井・朝倉連合軍1万8千
が〈
姉川
〉を挟んで対峙し
〈織田信長〉は遺恨有る裏切り者の妹婿〈浅井長政〉との対決を
一方〈徳川家康〉は〈朝倉景健〉軍と戦う事を望み
28日夜明け両軍が激突し
両軍一進一退の攻防戦
が続き、当初浅井軍が織田軍を押しまくり
織田軍13段備えのうち11段まで崩され優勢であったが…午後2時頃、徳川軍が朝倉家で剛力で勇名を馳せる〈真柄直孝〉を討ち取り「徳川四天王」の勇将〈本多平八郎忠勝〉が迂回して
朝倉軍の後方からの奇襲攻撃により、朝倉勢は敗走
ついに浅井勢も総崩れとなり〈小谷城〉へと撤退
〈織田信長〉は深追いをせず
織田軍は〈小谷城〉城下町一帯を焼き払い
近隣の〈横山城〉に〈木下藤吉郎秀吉〉隊
を入れて、京都へと凱旋(がいせん)し
地元では別名〈野村・三田村合戦
〉とも云われている… 同じ日〈織田信長〉と敵対中の〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉軍が、摂津〈池田城〉(現大阪府池田市)から摂津〈吹田〉に進撃した日
更に1575年天正3年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立した事で
〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉からの強い要請を受けて〈室町幕府第14代将軍=足利義栄〉を擁立した為「関白職」を辞任して、丹波〈黒井城〉(現兵庫県丹波市)主〈赤井直正〉のもとに身を隠していた〈太閤=近衛前久〉が京都へ帰洛した日。更に1581年天正9年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉の上使として薩摩へ下向した〈伊勢貞知〉が要請した、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉との和睦に対して、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が和議に応じる旨の書状
を差し出した日。〈前右大臣信長〉としては
自らが追放した〈将軍義昭〉を奉じて敵対中の
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の背後を脅かすべく、豊後の〈大友宗麟〉に九州から牽制させようと画策したのだった…更に1582年天正10年に〈本能寺の変〉後の混乱に乗じて、武蔵〈神流川の合戦
〉で相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉の大軍に大敗した〈滝川左近将監一益〉が上野・信濃支配を諦めて伊勢への撤退途上、信濃〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉に〈木曽谷〉通過の許認可を得る為に、人質として伴ってきた、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉〈現長野県上田市〉主〈真田安房守昌幸〉の母親や〈真田信繁=後の真田幸村〉らを引き渡した日。同じ日6月2日〈本能寺の変
〉で〈織田信長〉を襲殺した〈明智日向守光秀〉の娘婿〈明智左馬助秀満〉は事変後〈明智光秀〉の命で、近江〈安土城〉を守備していたが〈山崎の合戦
〉で舅〈明智光秀〉が大敗した事を知ると〈安土城〉を出て〈坂本城〉(現滋賀県大津市)に戻り15日明智一族を殺害した後自刃して果てたが…その〈明智秀満〉の親が捕らえられたと〈明智光秀〉とも親交の有った公卿〈武家伝奏=勧修寺晴豊〉が知った日
同じ日、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉が〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて能登で蜂起して攻め滅ぼした〈畠山氏〉旧臣〈温井景隆〉〈三宅長盛〉に〈石動山=天平寺〉衆徒〈般若院=快存〉らの首級を〈大柴峠〉に晒した日
更に1583年天正11年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈賤ヶ岳の合戦
〉で戦勝した
山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に、家臣〈大石播磨守綱元〉を使者として派遣し太刀・馬
を進呈した日。更に更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が「惣無事令そうぶじれい」(私戦停止令)に違反し信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方支城、上野〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を討伐すべく
京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市中京区)を出陣した〈関白秀吉〉は
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主の義弟〈駿河大納言=徳川家康〉を先鋒として、相模〈小田原城〉に向け、諸大名が続々と出陣して
〈箱根峠〉の要衝に築城された北条方最前線基地〈山中城〉(現静岡県三島市)を僅か一日の攻防戦で
攻略したのだった。そして4月初めから〈関白秀吉〉は〈箱根湯本〉(現神奈川県箱根町)の、北条氏歴代の菩提寺〈早雲寺〉に本陣を構えて〈小田原城〉を水陸20万余の大軍で包囲し
〈小田原城〉は、かつて越後の〈上杉謙信〉や、甲斐の〈武田信玄〉の攻撃をも退けた
難攻不落の堅城で、その城郭は山より海辺にまで至る巨大な城塞で
北条氏は籠城戦には絶対的な自信と成功体験を持っており
包囲する豊臣軍は寄せ集めの混成部隊であって
かつて関東の諸大名を糾合して攻め寄せて来た〈上杉謙信〉も攻めあぐねて撤退を余儀なくされ、北条軍に追撃され、敗退していた為、北条氏は袋の鼠(ネズミ)ならぬ袋の中の虎であった…その為〈関白秀吉〉は、関東各地の北条方支城である、伊豆〈韮山城〉箱根峠〈山中城〉相模〈玉縄城〉武蔵〈江戸城〉〈岩槻城〉〈河越城〉〈八王子城〉〈鉢形城〉上野〈沼田城〉〈厩橋城〉〈館林城〉他を、別動隊によって次々に攻め落とし、降伏させていったのだった…
そして〈関白秀吉〉本隊は〈早雲寺〉を焼き払って〈小田原城〉を眼下に見下ろす、天堅〈笠懸山かさがけやま〉の山上に、密かに城を築城して本陣を移した日
〈関白秀吉〉は〈笠懸山〉を約80日に及ぶ突貫工事で、城壁や櫓(やぐら)は、板に城の塀や櫓は板に杉原紙を貼って描かせた絵を描いて張りぼてで見せた、総石垣造りの要塞を築城させ
〈小田原城〉からは、樹木に隠れて見えないうちに…完成とともに
夜明け前に〈笠懸山〉前面の樹木を一斉に伐採させたのだった。すると〈小田原城〉の北条方からは、昨日まではただの山であった〈笠懸山〉山上に突如!総石垣造りの城が浮かび上がっていた為

この〈石垣山一夜城〉に驚き
〈関白=豊臣秀吉〉の圧倒的軍事力の前に驚愕し
北条方の城兵は驚き入り
〈関白秀吉〉の絶大な軍事力を見せつけられ
北条方は戦意を喪失させていくのであった…更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、家臣〈石田治部少輔三成〉〈大谷刑部少輔吉継〉〈増田長盛〉〈小西行長〉らを通じて〈明国〉〈皇帝=万暦帝〉との間で和議の7ヶ条の条々を提出した日。更に1601年慶長6年に〈対馬〉領主〈宗義智そうよしとし〉が、亡き〈太閤秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉で国交断絶となった〈朝鮮〉に修好を要請した日で〈宗義智〉は前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉では西軍〈石田三成〉方に与したが、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉は戦後、悪化した〈朝鮮〉との国交回復を迅速化させる為〈宗義智〉を処分せず処領地を安堵し外交交渉を命じたのだった…更に1605年慶長10年に亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の正室〈高台院=北政所ねね〉が〈大御所=徳川家康〉の多額の援助により、京都東山に〈高台寺〉を建立して移り住んだ日。
よって件の如し

恐々謹言水無月二十八日 太閤









「ドラゴンボール」を観覧後体育館JYM鍛練に出陣
各5setづつ各計160回づつ鍛練仕り申したぜィ
嫡男〈水野信元〉が家督を相続した日。
」により反転東上し
織田家次席家老〈丹羽五郎左衛門長秀〉と、亡き〈織田信長〉の乳兄弟〈池田恒興〉ら重臣と、亡き〈織田信長〉の次男〈北畠(織田)信雄〉三男〈神戸(織田)信孝〉が集まり、亡き〈織田信長〉の後継ぎを決める為〈清洲城〉に一同に介した評定は、順当ならば、亡き〈織田信長〉が生前定めていた、嫡男〈秋田城介=織田信忠〉が家督を継ぐはずであったが…




今朝も「仮面ライダーリバイス」→「ワンピース」観て「暴太郎戦隊ドンブラザース」は録画しといて
結局体育館JYM鍛練には間に合わず

