俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日は休日出勤で早朝5時半起床で下総へ出陣
ゴルフ接待

今日6月25日は1537年天文6年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉のもとで、元服前の〈松平広忠〉(徳川家康父親)が〈松平内膳正信定〉と和睦して、人質生活から解放され、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)に帰還した日。
更に1539年天文8年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉と丹波の〈柳本元俊〉に、京都洛中の盗賊捕縛を命じた日
更に1547年天文16年に〈芥川孫十郎〉が〈細川氏綱〉方の、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈薬師寺元房〉が無血開城し〈池田城〉(現大阪府池田市)主〈池田信政〉も〈三好政長〉に謝罪状
を差し出し開城した日。
更に1549年天文18年に前日摂津〈江口の合戦
〉で〈室町幕府菅領=細川晴元〉方の〈三好政長〉軍を撃破した
〈越水城〉主〈三好長慶〉に対して、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の遅過ぎる援軍が山城〈鳥羽〉に参着するも
既に〈三好政長〉は討死し
敗戦を受けて近江へ撤退した日
更に1565年永禄8年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉による西上野侵攻で〈倉賀野城〉(現群馬県)を攻略後、若き〈長野業盛〉(長野業正嫡男)の〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)を窺いはじめたことから〈小泉城〉(現群馬県甘楽郡大泉町)主〈富岡重朝=富岡秀高〉に〈長野業盛〉赴援を要請し〈上杉輝虎〉も〈武田信玄〉牽制のため
北信濃への出兵を決めた日。
更に1567年永禄10年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)が
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉による駿河
侵攻の予兆に対して
海の無い武田領甲斐・信濃への「塩荷禁輸令」を公布し
「駿相甲三国同盟」を結ぶ、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉にも「塩止め」を要請し
駿甲
国境で甲斐へ塩荷輸送しようとした者を北条家臣〈大藤式部少輔〉が討ち取った功を評し感状を下した日。
更に1568年永禄11
年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉との戦いに窮した
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉からの、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との和睦仲裁要請に対して
〈上杉輝虎〉とも〈武田信玄〉とも同盟する〈織田信長〉としては〈上杉輝虎〉に配慮して意向を確認すべく、上杉家重臣〈直江大和守景綱〉に家臣〈佐々長穐さつさながあき〉から伝達させた日。
更に1575年天正3年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、三河〈田峯城〉(現愛知県北設楽郡設楽町)〈武節城〉(現愛知県豊田市)を攻略し
〈武田勝頼〉は三河での拠点を喪失した日。
1578年天正6年に播磨〈上月城こうづき〉(現兵庫県佐用郡佐用町)が織田方からの救援を得られないまま
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)らの大軍に包囲され
籠城中の〈尼子勝久〉〈山中鹿ノ介幸盛〉主従救援に駆けつけた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍は多勢に無勢で撤退準備に入るも、毛利方に察知され追撃され〈羽柴秀吉〉軍は総崩れとなって敗走した日
更に1581年天正9年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から、京の都を追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り備後〈鞆〉(現広島県福山市)を擁する毛利一族は、織田政権との対決姿勢を明確にしてきた為〈織田信長〉は、家臣〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉を、中国方面軍となし、毛利方〈吉川経家〉が入城守備する、因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)攻めに2万を率いて播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)を出陣
因幡〈摩尼山向城まにさん〉(現鳥取県鳥取市)に入城した日
〈羽柴秀吉〉は用意周到に、若狭で飢饉(ききん)が起こった事で米不足になっている為、大量の米を高値で買い付け、若狭へ供給すると称して若狭商人を、米処として知られる因幡へ差し向け〈鳥取城〉周辺一帯の米を時価の倍以上の値段で買い取らせた為
因幡中の備蓄米が、続々若狭へと流出し〈鳥取城〉の〈山名〉氏家臣達は、ここぞとばかりに
城内に蓄えていた兵糧米を、軍資金
に換金させていったのだった…
そこへ〈羽柴秀吉〉率いる織田軍の因幡侵攻を目前にして〈山名〉衆は
〈毛利輝元〉に援軍を要請した為、山陰出雲の毛利一族きっての猛将〈吉川元春〉が、名将と名高い〈吉川経家〉を4月〈鳥取城〉将として入城させたが…織田軍が迫る〈鳥取城〉内の米蔵には兵糧米が三ヶ月分しか残っておらず
〈吉川経家〉は急ぎ兵糧米確保を命じたが
大半の米は既に、若狭商人達が大量に若狭へ運び去って行った後で
補給したくても
米の入手は困難となってしまっていたのだった
そこへ〈羽柴秀吉〉率いる2万の織田軍が因幡へ侵攻し
〈鳥取城〉周辺一帯の出城を次々攻略して〈鳥取城〉へと迫って来たのであった…
更に1582年天正10年6月2日の〈本能寺の変
〉の急報に接した、北陸方面軍総大将で、織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、越中で対峙しながら〈魚津城〉(現富山県魚津市)を6月3日に攻略し
6月7日に越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)に向けて越中から撤退を開始したが
〈柴田勝家〉は、与力〈佐々内蔵助成政〉を越中〈富山城〉(現富山県富山市)に残し〈槍の又左=前田利家〉を、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)に〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉を、加賀〈尾山城〉(現石川県金沢市)に各々残して
上杉方の反撃攻勢に備えていたが…
上杉方に呼応して24日能登で〈畠山氏〉旧臣〈温井備前守景隆〉〈三宅備後守〉らが〈荒山城〉を築城して〈石動山=天平寺いずるぎやまてんぴょうじ〉衆徒と挙兵に及び〈前田利家〉は、加賀の〈佐久間盛政〉に援軍を要請して翌25日〈前田利家〉〈佐久間盛政〉軍が反乱討伐のため
〈石動山=天平寺〉(現石川県鹿島郡中能登町~七尾市~富山県氷見市)と〈桝形山〉の中間〈芝峠〉に着陣した日
更に1584年天正12年に信濃木曽郡〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉が
遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉の支援を受けて旧領回復に動き出した〈深志城〉(現長野県松本市)主〈小笠原貞慶〉(小笠原長時三男)軍が〈鳥居峠〉に侵攻して来た為
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉〉に援軍派兵を要請し
羽柴方の、美濃〈金山城〉(現岐阜県可児市)主〈森長重=森忠政〉(森吉可六男・森蘭丸兄)に出陣を要請した日。
更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
出家剃髪した当主〈島津義久入道龍伯斎〉を許し、筑前へ凱旋した〈関白秀吉〉は、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉隠居〈大友義鎮入道宗麟〉父子の家臣〈立花統虎=後の立花宗茂〉に、筑後山門郡を与え〈柳川城〉(現福岡県柳川市)を築城することとし、大友家臣から〈関白秀吉〉の家臣となった日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で豊臣方先鋒〈駿河大納言=徳川家康〉家臣〈本多平八郎忠勝〉〈平岩親吉〈松平康貞=依田康勝〉軍が、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の〈津久井城〉(現神奈川県相模原市緑区)主〈内藤景豊〉が〈小田原城〉に参陣して不在の〈津久井城〉を攻撃し開城させた日。
同じ日〈小田原城〉を見下ろす〈笠懸山〉山上に秘かに築城中だった〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が竣工した日で〈関白秀吉〉は〈笠懸山〉に約80日に及ぶ突貫工事で、城壁や櫓(やぐら)は、板に城の塀や櫓は板に杉原紙を貼って描かせた絵を描いて張りぼてで見せた、総石垣造りの要塞を築城させ
〈小田原城〉からは、樹木に隠れて見えないうちに…完成とともに
夜明け前に〈笠懸山〉前面の樹木を一斉に伐採させたのだった。
すると〈小田原城〉の北条方からは、昨日まではただの山であった〈笠懸山〉山上に突如!総石垣造りの城が浮かび上がっていた為
この〈石垣山一夜城〉に驚き
〈関白秀吉〉の圧倒的軍事力の前に驚愕し
北条方の城兵は驚き入り
〈関白秀吉〉の絶大な軍事力を見せつけられ
北条方は戦意を喪失させていくのであった…
更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉の〈鳳山の合戦
〉で〈木付統直〉は嫡男〈木付直清〉が討死し
主家である〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)も朝鮮半島での〈明国〉軍の援軍を前に敵前逃亡の罪を問われ改易され〈木付直清〉は帰国の途中
豊前〈門司〉浦で入水自害した日で
悲報は直ちに豊後〈杵築城きつき〉(現大分県杵築市)隠居〈木付鎮直〉へ届くと〈木付鎮直〉夫妻も城内で自刃して果てた日
更に1599年慶長4年に薩摩の〈島津維新入道義弘〉〈島津家久〉父子が、紀伊〈高野山〉に〈朝鮮征伐
=文禄・慶長の役
〉での戦没者供養碑を建立した日
天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命令による〈朝鮮征伐
=文禄・慶長の役
〉において、朝鮮半島へ出陣した薩摩の〈島津維新入道義弘〉は〈慶長の役
〉で、朝鮮半島南端〈四川城〉で、島津軍が守備しているところに〈明みん〉の〈董一元とういちげん〉率いる、明朝=朝鮮連合軍

38000が押し寄せたが〈島津義弘〉は、明軍を討ち敗ったのだった
そして〈島津義弘〉は、討ち取った明=朝鮮軍の首級の代わりに、耳
鼻を塩漬けにして大樽に詰めて〈太閤秀吉〉の元へ送ったが〈太閤秀吉〉は8月山城〈伏見城〉(現京都市伏見区)で既に死去しており
〈島津義弘〉には知らされていなかったのだった…
後に〈太閤秀吉〉の死去を知り
日本への撤退命令により、島津軍は殿軍(しんがり)を務め、朝鮮水軍の名将〈李舜臣イースンシン〉の追撃を受け、多くの家臣を失ったが、戦闘中の流れ弾によって
敵将〈李舜臣〉も戦死させたのであった…
こうした朝鮮半島における痛恨の思いは〈島津義弘〉にとって、敵味方を問わず悲惨な戦
であった為
〈島津義弘〉は1599年慶長4年紀伊〈高野山=奥の院〉に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立して、戦没者達の菩提を弔ったのであった。
更に1600年慶長5年に豊臣家五大老の一人、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐
に東征中の、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が駿河
〈丸子〉へ到着し
駿河
〈駿府城〉主〈中村一氏〉が病気と称して参陣しなかったのを仮病と疑う〈内府家康〉は家臣を〈駿府城〉に派遣したが…
〈中村一氏〉は重病で家臣に背負われながら〈内府家康〉本陣に参陣して対面した豊臣家三中老〈中村一氏〉は
幼い嫡男〈中村一忠〉を参陣させ、陣代として、弟〈中村一栄〉従軍させ〈内府家康〉は駿河
〈興津〉の〈清見寺〉に宿泊した日。
よって件の如し
恐々謹言水無月二十五日 太閤






参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日は休日出勤で早朝5時半起床で下総へ出陣
ゴルフ接待

今日6月25日は1537年天文6年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉のもとで、元服前の〈松平広忠〉(徳川家康父親)が〈松平内膳正信定〉と和睦して、人質生活から解放され、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)に帰還した日。更に1539年天文8年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉と丹波の〈柳本元俊〉に、京都洛中の盗賊捕縛を命じた日

更に1547年天文16年に〈芥川孫十郎〉が〈細川氏綱〉方の、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈薬師寺元房〉が無血開城し〈池田城〉(現大阪府池田市)主〈池田信政〉も〈三好政長〉に謝罪状
を差し出し開城した日。更に1549年天文18年に前日摂津〈江口の合戦
〉で〈室町幕府菅領=細川晴元〉方の〈三好政長〉軍を撃破した
〈越水城〉主〈三好長慶〉に対して、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の遅過ぎる援軍が山城〈鳥羽〉に参着するも
既に〈三好政長〉は討死し
敗戦を受けて近江へ撤退した日
更に1565年永禄8年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉による西上野侵攻で〈倉賀野城〉(現群馬県)を攻略後、若き〈長野業盛〉(長野業正嫡男)の〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)を窺いはじめたことから〈小泉城〉(現群馬県甘楽郡大泉町)主〈富岡重朝=富岡秀高〉に〈長野業盛〉赴援を要請し〈上杉輝虎〉も〈武田信玄〉牽制のため
北信濃への出兵を決めた日。更に1567年永禄10年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)が
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉による駿河
侵攻の予兆に対して
海の無い武田領甲斐・信濃への「塩荷禁輸令」を公布し
「駿相甲三国同盟」を結ぶ、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉にも「塩止め」を要請し
駿甲
国境で甲斐へ塩荷輸送しようとした者を北条家臣〈大藤式部少輔〉が討ち取った功を評し感状を下した日。更に1568年永禄11
年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉との戦いに窮した
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉からの、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との和睦仲裁要請に対して
〈上杉輝虎〉とも〈武田信玄〉とも同盟する〈織田信長〉としては〈上杉輝虎〉に配慮して意向を確認すべく、上杉家重臣〈直江大和守景綱〉に家臣〈佐々長穐さつさながあき〉から伝達させた日。更に1575年天正3年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、三河〈田峯城〉(現愛知県北設楽郡設楽町)〈武節城〉(現愛知県豊田市)を攻略し
〈武田勝頼〉は三河での拠点を喪失した日。1578年天正6年に播磨〈上月城こうづき〉(現兵庫県佐用郡佐用町)が織田方からの救援を得られないまま
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)らの大軍に包囲され
籠城中の〈尼子勝久〉〈山中鹿ノ介幸盛〉主従救援に駆けつけた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍は多勢に無勢で撤退準備に入るも、毛利方に察知され追撃され〈羽柴秀吉〉軍は総崩れとなって敗走した日
更に1581年天正9年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から、京の都を追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り備後〈鞆〉(現広島県福山市)を擁する毛利一族は、織田政権との対決姿勢を明確にしてきた為〈織田信長〉は、家臣〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉を、中国方面軍となし、毛利方〈吉川経家〉が入城守備する、因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)攻めに2万を率いて播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)を出陣
因幡〈摩尼山向城まにさん〉(現鳥取県鳥取市)に入城した日
〈羽柴秀吉〉は用意周到に、若狭で飢饉(ききん)が起こった事で米不足になっている為、大量の米を高値で買い付け、若狭へ供給すると称して若狭商人を、米処として知られる因幡へ差し向け〈鳥取城〉周辺一帯の米を時価の倍以上の値段で買い取らせた為
因幡中の備蓄米が、続々若狭へと流出し〈鳥取城〉の〈山名〉氏家臣達は、ここぞとばかりに
城内に蓄えていた兵糧米を、軍資金
に換金させていったのだった…そこへ〈羽柴秀吉〉率いる織田軍の因幡侵攻を目前にして〈山名〉衆は
〈毛利輝元〉に援軍を要請した為、山陰出雲の毛利一族きっての猛将〈吉川元春〉が、名将と名高い〈吉川経家〉を4月〈鳥取城〉将として入城させたが…織田軍が迫る〈鳥取城〉内の米蔵には兵糧米が三ヶ月分しか残っておらず
〈吉川経家〉は急ぎ兵糧米確保を命じたが
大半の米は既に、若狭商人達が大量に若狭へ運び去って行った後で
補給したくても
米の入手は困難となってしまっていたのだった
そこへ〈羽柴秀吉〉率いる2万の織田軍が因幡へ侵攻し
〈鳥取城〉周辺一帯の出城を次々攻略して〈鳥取城〉へと迫って来たのであった…
更に1582年天正10年6月2日の〈本能寺の変
〉の急報に接した、北陸方面軍総大将で、織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、越中で対峙しながら〈魚津城〉(現富山県魚津市)を6月3日に攻略し
6月7日に越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)に向けて越中から撤退を開始したが
〈柴田勝家〉は、与力〈佐々内蔵助成政〉を越中〈富山城〉(現富山県富山市)に残し〈槍の又左=前田利家〉を、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)に〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉を、加賀〈尾山城〉(現石川県金沢市)に各々残して
上杉方の反撃攻勢に備えていたが…上杉方に呼応して24日能登で〈畠山氏〉旧臣〈温井備前守景隆〉〈三宅備後守〉らが〈荒山城〉を築城して〈石動山=天平寺いずるぎやまてんぴょうじ〉衆徒と挙兵に及び〈前田利家〉は、加賀の〈佐久間盛政〉に援軍を要請して翌25日〈前田利家〉〈佐久間盛政〉軍が反乱討伐のため
〈石動山=天平寺〉(現石川県鹿島郡中能登町~七尾市~富山県氷見市)と〈桝形山〉の中間〈芝峠〉に着陣した日
更に1584年天正12年に信濃木曽郡〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉が
遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉の支援を受けて旧領回復に動き出した〈深志城〉(現長野県松本市)主〈小笠原貞慶〉(小笠原長時三男)軍が〈鳥居峠〉に侵攻して来た為
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉〉に援軍派兵を要請し
羽柴方の、美濃〈金山城〉(現岐阜県可児市)主〈森長重=森忠政〉(森吉可六男・森蘭丸兄)に出陣を要請した日。更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
出家剃髪した当主〈島津義久入道龍伯斎〉を許し、筑前へ凱旋した〈関白秀吉〉は、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉隠居〈大友義鎮入道宗麟〉父子の家臣〈立花統虎=後の立花宗茂〉に、筑後山門郡を与え〈柳川城〉(現福岡県柳川市)を築城することとし、大友家臣から〈関白秀吉〉の家臣となった日。更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で豊臣方先鋒〈駿河大納言=徳川家康〉家臣〈本多平八郎忠勝〉〈平岩親吉〈松平康貞=依田康勝〉軍が、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の〈津久井城〉(現神奈川県相模原市緑区)主〈内藤景豊〉が〈小田原城〉に参陣して不在の〈津久井城〉を攻撃し開城させた日。同じ日〈小田原城〉を見下ろす〈笠懸山〉山上に秘かに築城中だった〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が竣工した日で〈関白秀吉〉は〈笠懸山〉に約80日に及ぶ突貫工事で、城壁や櫓(やぐら)は、板に城の塀や櫓は板に杉原紙を貼って描かせた絵を描いて張りぼてで見せた、総石垣造りの要塞を築城させ
〈小田原城〉からは、樹木に隠れて見えないうちに…完成とともに
夜明け前に〈笠懸山〉前面の樹木を一斉に伐採させたのだった。すると〈小田原城〉の北条方からは、昨日まではただの山であった〈笠懸山〉山上に突如!総石垣造りの城が浮かび上がっていた為
この〈石垣山一夜城〉に驚き
〈関白秀吉〉の圧倒的軍事力の前に驚愕し
北条方の城兵は驚き入り
〈関白秀吉〉の絶大な軍事力を見せつけられ
北条方は戦意を喪失させていくのであった… 更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉の〈鳳山の合戦
〉で〈木付統直〉は嫡男〈木付直清〉が討死し
主家である〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)も朝鮮半島での〈明国〉軍の援軍を前に敵前逃亡の罪を問われ改易され〈木付直清〉は帰国の途中
豊前〈門司〉浦で入水自害した日で
悲報は直ちに豊後〈杵築城きつき〉(現大分県杵築市)隠居〈木付鎮直〉へ届くと〈木付鎮直〉夫妻も城内で自刃して果てた日
更に1599年慶長4年に薩摩の〈島津維新入道義弘〉〈島津家久〉父子が、紀伊〈高野山〉に〈朝鮮征伐
=文禄・慶長の役
〉での戦没者供養碑を建立した日
天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命令による〈朝鮮征伐
=文禄・慶長の役
〉において、朝鮮半島へ出陣した薩摩の〈島津維新入道義弘〉は〈慶長の役
〉で、朝鮮半島南端〈四川城〉で、島津軍が守備しているところに〈明みん〉の〈董一元とういちげん〉率いる、明朝=朝鮮連合軍

38000が押し寄せたが〈島津義弘〉は、明軍を討ち敗ったのだった
そして〈島津義弘〉は、討ち取った明=朝鮮軍の首級の代わりに、耳
鼻を塩漬けにして大樽に詰めて〈太閤秀吉〉の元へ送ったが〈太閤秀吉〉は8月山城〈伏見城〉(現京都市伏見区)で既に死去しており
〈島津義弘〉には知らされていなかったのだった…後に〈太閤秀吉〉の死去を知り
日本への撤退命令により、島津軍は殿軍(しんがり)を務め、朝鮮水軍の名将〈李舜臣イースンシン〉の追撃を受け、多くの家臣を失ったが、戦闘中の流れ弾によって
敵将〈李舜臣〉も戦死させたのであった…こうした朝鮮半島における痛恨の思いは〈島津義弘〉にとって、敵味方を問わず悲惨な戦
であった為
〈島津義弘〉は1599年慶長4年紀伊〈高野山=奥の院〉に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立して、戦没者達の菩提を弔ったのであった。更に1600年慶長5年に豊臣家五大老の一人、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐
に東征中の、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が駿河
〈丸子〉へ到着し
駿河
〈駿府城〉主〈中村一氏〉が病気と称して参陣しなかったのを仮病と疑う〈内府家康〉は家臣を〈駿府城〉に派遣したが…〈中村一氏〉は重病で家臣に背負われながら〈内府家康〉本陣に参陣して対面した豊臣家三中老〈中村一氏〉は
幼い嫡男〈中村一忠〉を参陣させ、陣代として、弟〈中村一栄〉従軍させ〈内府家康〉は駿河
〈興津〉の〈清見寺〉に宿泊した日。よって件の如し

恐々謹言水無月二十五日 太閤






急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣
各2setづつ各計40回づつ鍛練仕り申したぜィ
神崎川
を通達した日。
この他にも京都東山〈三十三間堂〉〈方広寺〉〈南禅寺〉〈東福寺〉他、多数の寺院の修築等を豊臣家に勧めたのだった。
〈加藤清正〉の急死は、暗殺との噂も流れた程で、最期まで豊臣家の忠臣であった…










軽く話して



