ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


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どぉもどぉもアップアップアップ


今日は休日出勤で早朝5時半起床で下総へ出陣車ゴルフ接待ゴルフビル


今日6月25日は1537年天文6年に駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉のもとで、元服前の〈松平広忠〉(徳川家康父親)が〈松平内膳正信定〉と和睦して、人質生活から解放され、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)に帰還した日。


更に1539年天文8年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉と丹波の〈柳本元俊〉に、京都洛中の盗賊捕縛を命じた日プンプン


更に1547年天文16年に〈芥川孫十郎〉が〈細川氏綱〉方の、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈薬師寺元房〉が無血開城し〈池田城〉(現大阪府池田市)主〈池田信政〉も〈三好政長〉に謝罪状手紙を差し出し開城した日。


更に1549年天文18年に前日摂津〈江口の合戦美容院〉で〈室町幕府菅領=細川晴元〉方の〈三好政長〉軍を撃破した美容院〈越水城〉主〈三好長慶〉に対して、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の遅過ぎる援軍が山城〈鳥羽〉に参着するも馬既に〈三好政長〉は討死しショック!敗戦を受けて近江へ撤退した日馬


更に1565年永禄8年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉による西上野侵攻で〈倉賀野城〉(現群馬県)を攻略後、若き〈長野業盛〉(長野業正嫡男)の〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)を窺いはじめたことから〈小泉城〉(現群馬県甘楽郡大泉町)主〈富岡重朝=富岡秀高〉に〈長野業盛〉赴援を要請し〈上杉輝虎〉も〈武田信玄〉牽制のためプンプン北信濃への出兵を決めた日。


更に1567年永禄10年に駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)がプンプン甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉による駿河富士山侵攻の予兆に対してプンプン海の無い武田領甲斐・信濃への「塩荷禁輸令」を公布しプンプン「駿相甲三国同盟」を結ぶ、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉にも「塩止め」を要請しパー駿甲富士山国境で甲斐へ塩荷輸送しようとした者を北条家臣〈大藤式部少輔〉が討ち取った功を評し感状を下した日。


更に1568年永禄11
年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉との戦いに窮したショック!甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉からの、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉との和睦仲裁要請に対してガーン〈上杉輝虎〉とも〈武田信玄〉とも同盟する〈織田信長〉としては〈上杉輝虎〉に配慮して意向を確認すべく、上杉家重臣〈直江大和守景綱〉に家臣〈佐々長穐さつさながあき〉から伝達させた日。


更に1575年天正3年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、三河〈田峯城〉(現愛知県北設楽郡設楽町)〈武節城〉(現愛知県豊田市)を攻略し美容院〈武田勝頼〉は三河での拠点を喪失した日。


1578年天正6年に播磨〈上月城こうづき〉(現兵庫県佐用郡佐用町)が織田方からの救援を得られないままショック!安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)らの大軍に包囲され美容院籠城中の〈尼子勝久〉〈山中鹿ノ介幸盛〉主従救援に駆けつけた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍は多勢に無勢で撤退準備に入るも、毛利方に察知され追撃され〈羽柴秀吉〉軍は総崩れとなって敗走した日走る人


更に1581年天正9年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から、京の都を追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り備後〈鞆〉(現広島県福山市)を擁する毛利一族は、織田政権との対決姿勢を明確にしてきた為〈織田信長〉は、家臣〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉を、中国方面軍となし、毛利方〈吉川経家〉が入城守備する、因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)攻めに2万を率いて播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)を出陣馬因幡〈摩尼山向城まにさん〉(現鳥取県鳥取市)に入城した日馬


〈羽柴秀吉〉は用意周到に、若狭で飢饉(ききん)が起こった事で米不足になっている為、大量の米を高値で買い付け、若狭へ供給すると称して若狭商人を、米処として知られる因幡へ差し向け〈鳥取城〉周辺一帯の米を時価の倍以上の値段で買い取らせた為お金因幡中の備蓄米が、続々若狭へと流出し〈鳥取城〉の〈山名〉氏家臣達は、ここぞとばかりにニコニコ城内に蓄えていた兵糧米を、軍資金お金に換金させていったのだった…


そこへ〈羽柴秀吉〉率いる織田軍の因幡侵攻を目前にして〈山名〉衆はガーン〈毛利輝元〉に援軍を要請した為、山陰出雲の毛利一族きっての猛将〈吉川元春〉が、名将と名高い〈吉川経家〉を4月〈鳥取城〉将として入城させたが…織田軍が迫る〈鳥取城〉内の米蔵には兵糧米が三ヶ月分しか残っておらずガーン〈吉川経家〉は急ぎ兵糧米確保を命じたがプンプンパー大半の米は既に、若狭商人達が大量に若狭へ運び去って行った後で船補給したくてもガーン米の入手は困難となってしまっていたのだったガーン


そこへ〈羽柴秀吉〉率いる2万の織田軍が因幡へ侵攻し馬〈鳥取城〉周辺一帯の出城を次々攻略して〈鳥取城〉へと迫って来たのであった…ガーン


更に1582年天正10年6月2日の〈本能寺の変美容院〉の急報に接した、北陸方面軍総大将で、織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、越中で対峙しながら〈魚津城〉(現富山県魚津市)を6月3日に攻略し美容院6月7日に越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)に向けて越中から撤退を開始したが馬


〈柴田勝家〉は、与力〈佐々内蔵助成政〉を越中〈富山城〉(現富山県富山市)に残し〈槍の又左=前田利家〉を、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)に〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉を、加賀〈尾山城〉(現石川県金沢市)に各々残して馬上杉方の反撃攻勢に備えていたが…


上杉方に呼応して24日能登で〈畠山氏〉旧臣〈温井備前守景隆〉〈三宅備後守〉らが〈荒山城〉を築城して〈石動山=天平寺いずるぎやまてんぴょうじ〉衆徒と挙兵に及び〈前田利家〉は、加賀の〈佐久間盛政〉に援軍を要請して翌25日〈前田利家〉〈佐久間盛政〉軍が反乱討伐のためプンプン〈石動山=天平寺〉(現石川県鹿島郡中能登町~七尾市~富山県氷見市)と〈桝形山〉の中間〈芝峠〉に着陣した日馬


更に1584年天正12年に信濃木曽郡〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉がガーン遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉の支援を受けて旧領回復に動き出した〈深志城〉(現長野県松本市)主〈小笠原貞慶〉(小笠原長時三男)軍が〈鳥居峠〉に侵攻して来た為ガーン摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉〉に援軍派兵を要請しパー羽柴方の、美濃〈金山城〉(現岐阜県可児市)主〈森長重=森忠政〉(森吉可六男・森蘭丸兄)に出陣を要請した日。


更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で美容院出家剃髪した当主〈島津義久入道龍伯斎〉を許し、筑前へ凱旋した〈関白秀吉〉は、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉隠居〈大友義鎮入道宗麟〉父子の家臣〈立花統虎=後の立花宗茂〉に、筑後山門郡を与え〈柳川城〉(現福岡県柳川市)を築城することとし、大友家臣から〈関白秀吉〉の家臣となった日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で豊臣方先鋒〈駿河大納言=徳川家康〉家臣〈本多平八郎忠勝〉〈平岩親吉〈松平康貞=依田康勝〉軍が、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の〈津久井城〉(現神奈川県相模原市緑区)主〈内藤景豊〉が〈小田原城〉に参陣して不在の〈津久井城〉を攻撃し開城させた日。


同じ日〈小田原城〉を見下ろす〈笠懸山〉山上に秘かに築城中だった〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が竣工した日で〈関白秀吉〉は〈笠懸山〉に約80日に及ぶ突貫工事で、城壁や櫓(やぐら)は、板に城の塀や櫓は板に杉原紙を貼って描かせた絵を描いて張りぼてで見せた、総石垣造りの要塞を築城させニコニコ〈小田原城〉からは、樹木に隠れて見えないうちに…完成とともにニコニコ夜明け前に〈笠懸山〉前面の樹木を一斉に伐採させたのだった。


すると〈小田原城〉の北条方からは、昨日まではただの山であった〈笠懸山〉山上に突如!総石垣造りの城が浮かび上がっていた為ショック!この〈石垣山一夜城〉に驚きショック!〈関白秀吉〉の圧倒的軍事力の前に驚愕しショック!北条方の城兵は驚き入りショック!〈関白秀吉〉の絶大な軍事力を見せつけられガーン北条方は戦意を喪失させていくのであった…


更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉の〈鳳山の合戦美容院〉で〈木付統直〉は嫡男〈木付直清〉が討死ししょぼん主家である〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)も朝鮮半島での〈明国〉軍の援軍を前に敵前逃亡の罪を問われ改易され〈木付直清〉は帰国の途中船豊前〈門司〉浦で入水自害した日でしょぼん悲報は直ちに豊後〈杵築城きつき〉(現大分県杵築市)隠居〈木付鎮直〉へ届くと〈木付鎮直〉夫妻も城内で自刃して果てた日しょぼん


更に1599年慶長4年に薩摩の〈島津維新入道義弘〉〈島津家久〉父子が、紀伊〈高野山〉に〈朝鮮征伐美容院=文禄・慶長の役美容院〉での戦没者供養碑を建立した日ショック!


天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命令による〈朝鮮征伐美容院=文禄・慶長の役美容院〉において、朝鮮半島へ出陣した薩摩の〈島津維新入道義弘〉は〈慶長の役美容院〉で、朝鮮半島南端〈四川城〉で、島津軍が守備しているところに〈明みん〉の〈董一元とういちげん〉率いる、明朝=朝鮮連合軍馬馬馬38000が押し寄せたが〈島津義弘〉は、明軍を討ち敗ったのだったショック!


そして〈島津義弘〉は、討ち取った明=朝鮮軍の首級の代わりに、耳耳鼻を塩漬けにして大樽に詰めて〈太閤秀吉〉の元へ送ったが〈太閤秀吉〉は8月山城〈伏見城〉(現京都市伏見区)で既に死去しておりショック!〈島津義弘〉には知らされていなかったのだった…


後に〈太閤秀吉〉の死去を知りショック!日本への撤退命令により、島津軍は殿軍(しんがり)を務め、朝鮮水軍の名将〈李舜臣イースンシン〉の追撃を受け、多くの家臣を失ったが、戦闘中の流れ弾によってドンッ敵将〈李舜臣〉も戦死させたのであった…


こうした朝鮮半島における痛恨の思いは〈島津義弘〉にとって、敵味方を問わず悲惨な戦美容院であった為ショック!〈島津義弘〉は1599年慶長4年紀伊〈高野山=奥の院〉に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立して、戦没者達の菩提を弔ったのであった。


更に1600年慶長5年に豊臣家五大老の一人、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐美容院に東征中の、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が駿河富士山〈丸子〉へ到着し馬駿河富士山〈駿府城〉主〈中村一氏〉が病気と称して参陣しなかったのを仮病と疑う〈内府家康〉は家臣を〈駿府城〉に派遣したが…


〈中村一氏〉は重病で家臣に背負われながら〈内府家康〉本陣に参陣して対面した豊臣家三中老〈中村一氏〉はガーン幼い嫡男〈中村一忠〉を参陣させ、陣代として、弟〈中村一栄〉従軍させ〈内府家康〉は駿河富士山〈興津〉の〈清見寺〉に宿泊した日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月二十五日 太閤
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今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も無駄な残業だったからしょぼん急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣車まづは脚大腿四頭筋・尻大臀筋鍛練レッグプレス208㌔負荷3set計30回+乳筋上部鍛練インクラインダンベルプレス30㌔負荷3set計28回+乳筋鍛練ダンベルフライ30㌔負荷4set計20回+乳筋下部鍛練ケーブルクロスオーバー50㌔負荷2set計30回+60㌔負荷2set計12回+再び脚大腿四頭筋鍛練レッグエクステンション57㌔負荷1set計20回+67㌔負荷2set計24回+ラスト肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右各2setづつ各計40回づつ鍛練仕り申したぜィビックリマークバテてた(笑)


今日6月24日は1549年天文18年に摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好長慶〉軍3千に〈十河一存そごうかずまさ〉〈安宅冬康あたぎふゆやす〉ら四国勢と共に〈別府〉から〈霧神崎川霧〉を渡河して馬〈室町幕府菅領=細川晴元〉方の、摂津〈江口〉の同族〈三好政長〉軍〈江口の合戦美容院〉で撃破し美容院〈三好政長〉方は、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の援軍遅延により敗退し〈三好政長〉は討死した日でショック!〈菅領晴元〉政権は崩壊し〈三好長慶〉が畿内支配していくのだった。


同じ日〈フランシスコ・ザビエル〉43歳が、日本人キリシタン〈アンジロウ〉の案内でマラッカを出航して日本へ向かった日船


更に1564年永禄7年この頃、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉嫡男〈三好義興〉が早世した為しょぼん〈十河重存そごうしげまさ〉を養嗣子として迎えた〈三好義継〉を〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉へ、三好家家督相続の挨拶に〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に伺候して挨拶した日m(__)mで〈三好長慶〉は〈三好義継〉に家督を譲り隠居したのだった。


同じ日、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉が、武田方の、美濃〈岩村城〉(現岐阜県恵那市)主〈遠山景任とおやまかげとう〉〈遠山直廉とえやまなおかど〉兄弟に、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が信濃へ出陣してきたとの知らせを受けて、鉄砲隊50人派遣を要請したのだった。


更に1565年永禄8年に5月19日京都洛中で勃発した〈永禄の変美容院〉で〈将軍義輝〉が〈三好義継〉〈三好宗渭(政康)〉〈三好長逸〉〈松永久通〉(松永弾正少弼久秀嫡男)らの襲撃を受けて殺害された変事を、南近江〈箕作城みつくり〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角宗房〉が、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に知らせて、弔い合戦の意思を表明しプンプン〈上杉輝虎〉が上洛すれば天下再興は可能であり、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎〉も協力するとして、詳細は〈大覚寺門跡=義俊〉から依頼すると伝えた日。

更に1566年永禄9年に亡き〈三好長慶〉の葬儀を遺言により、その死を3年間秘されていたが公表におよび〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉が、河内〈真観寺〉(現大阪府八尾市)において、養嗣子〈三好義継〉を喪主として盛大に執り行われた日。


更に1570年元亀元年に天下統一を推し進めるプンプン美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉が近江へ侵攻して〈龍ヶ鼻〉(現滋賀県長浜市)に布陣し馬裏切った妹婿の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉を誘き出す為〈横山城〉(現滋賀県長浜市)を攻撃した日美容院


更に1575年天正3年に天下統一を推し進めるプンプン美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が次男〈茶筅丸ちゃせんまる=後の織田信雄〉を伊勢〈伊勢国司=北畠具教〉の養嗣子として伊勢〈大河内城〉(現三重県松阪市)に入国させた日。


同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉軍が馬甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、駿河富士山〈諏訪原城〉(現静岡県島田市)を攻撃し美容院遠江〈光明城〉(現静岡県浜松市天竜区)将〈朝比奈又太郎泰方〉を武田方〈犬居城〉(現静岡県浜松市天竜区)主〈天野景貫〉が攻撃した日美容院


更に1579年天正7年この頃、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉嫡男、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平三郎信康〉正室〈五徳姫〉(織田信長息女)が、父親〈織田信長〉に対して、姑〈築山御前=瀬名〉(徳川家康正室・今川義元姪)が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方に内通していると、夫〈松平信康〉の罪状を12ヶ条の訴状を書き送った日手紙


更に1580年天正8年に天下統一を推し進めるプンプン近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉が、若狭〈小浜〉在陣中の〈丹羽五郎左衛門長秀〉に、織田軍が展開中の摂津大坂〈石山本願寺〉加賀〈一向一揆=本願寺門徒衆〉や〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が包囲中の因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)将〈吉川経家〉の兵糧責め等の敵地へ、若狭回船商人に「八木=米」の搬送船禁止禁止を通達した日。


更に1582年天正10年に〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて能登で勃発した〈畠山氏〉旧臣〈温井備前守景隆〉〈三宅備後守長盛〉兄弟に〈石動山=天平寺〉衆徒らの一揆に対して〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉が、加賀〈尾山城=後の金沢城〉(現石川県金沢市)将〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉に早急なる援軍派遣を要請した日。


同じ日、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)から〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉による襲撃計画を事前に察知し〈木曽福島城〉に夜襲を仕掛けて〈木曽義昌〉嫡男〈木曽岩松丸=後の木曽義利〉を拉致して人質と成し〈木曽谷〉越えて東美濃まで帰ってきた〈森長可〉(森吉可・森蘭丸兄)が〈木曽義昌〉に内通する、東美濃〈苗木城〉(現岐阜県中津川市)主〈遠山久兵衛友忠〉もが〈森長可〉襲撃を企てていたが…〈木曽岩松丸〉を人質とした事で〈木曽義昌〉から手出し無用と懇願された事で〈森長可〉は無事〈金山城〉(現岐阜県可児市)へ辿り着けた日。


更に1585年天正13年に越中〈富山城〉(現富山県富山市)主〈佐々内蔵助成政〉が、家臣〈神保氏張〉に命じたプンプン能登〈小丸山城〉主〈槍の又左=前田利家〉方の越中〈阿尾城〉(現富山県氷見市)将〈前田慶次郎〉や〈菊池武勝〉〈菊池安信〉父子攻撃で〈神保氏張〉率いる5千を〈前田慶次郎〉ら2千が迎撃して美容院〈前田利家〉から派遣された家臣〈村井長頼〉の加勢により〈神保氏張〉軍を撃退した日美容院


更に1586年天正14年に美濃~尾張〈霧木曽川霧〉が大洪水となり美濃~尾張国境が変化した日ショック!


更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈清州大納言=織田信雄〉(織田信長次男)〈麒麟児=蒲生氏郷〉(織田信長娘婿)〈福島正則〉らに包囲攻撃され美容院孤立無援の中3ヶ月にわたる籠城戦を展開中の、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉方支城、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康三男)が、かつて駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉のもと〈駿府〉での人質時代の幼馴染みだった〈徳川家康=竹千代〉からの説得を受け入れて〈韮山城〉を降伏開城し〈北条氏規〉が〈徳川家康〉本陣に出向いた日。


同じ日〈加賀中納言=前田利家〉を総大将とする〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉ら1万5千が〈関白秀吉〉からの厳命によりプンプン北条方の武蔵〈八王子城〉(現東京都八王子市)主〈北条陸奥守氏照〉が〈小田原城〉に入城して不在の〈八王子城〉将〈中山勘解由家範〉〈狩野主善一庵〉〈近藤出羽守綱秀〉らの降伏を許さずプンプン総攻撃を仕掛けて〈八王子城〉を攻略し美容院城兵の首級は〈小田原城〉へ送られ、将兵の妻子を晒した日。


同じ日〈関白秀吉〉の軍師〈黒田官兵衛孝高〉が、相模〈小田原城=井細田口〉の守城〈太田氏房〉(北条氏政三男)を説得して〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子に和睦を説いた日。


更に1593年永禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で〈太閤秀吉〉が諸大名に仮装を命じて仮装園遊会を催した日で〈太閤秀吉〉は瓜売り〈徳川家康〉は、ざる売り〈蒲生氏郷〉は御茶売り〈織田長益入道有楽斎〉は旅の老僧〈有馬則頼〉は宿主人に扮したのだった。


更に1598年慶長3年にキリスト教イエズス会〈ヴァリニャーノ〉神父が新司教〈ドン・ルイス・セルケイラ〉と共に肥前〈長崎〉に3度目来日した日船


更に1600年慶長5年に豊臣家五大老、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐美容院に東征軍を率いる五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉に従軍していた〈山内対馬守一豊〉が先に、遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)に帰還して〈内府家康〉を〈佐夜=小夜〉の〈中山〉(現静岡県掛川市)で出迎え、茶亭を設け昼食を接待し〈内府家康〉は駿河富士山霧大井川霧〉を渡河して〈島田宿〉に宿泊した日。


更に1606年慶長11年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉が〈大御所=徳川家康〉の勧めにより、山城〈醍醐寺〉(現京都府京都市伏見区)の諸堂を再建した日〈大御所家康〉は、亡き〈太閤秀吉〉が遺した莫大な豊臣家の財力を消耗させるべくにひひこの他にも京都東山〈三十三間堂〉〈方広寺〉〈南禅寺〉〈東福寺〉他、多数の寺院の修築等を豊臣家に勧めたのだった。

更に1611年慶長16年にショック!肥後〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤主計頭清正〉が死去した命日しょぼん享年50歳パー〈加藤虎ノ介清正〉は〈豊臣秀吉〉と同じ、尾張中村(愛知県名古屋市中村区)の生まれで、幼少の頃から〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉に仕えて1583年天正11年4月〈織田信長〉亡き後の、織田家筆頭家老〈柴田勝家〉との、天下分け目の北近江〈賤ヶ岳の合戦美容院〉で「賤ヶ岳七本槍」に数えられる功名を挙げる活躍をみせた〈羽柴秀吉〉子飼いの馬廻衆だった。


〈加藤清正〉は、その後も〈豊臣秀吉〉の天下統一の幾多の戦場に従軍して、九州肥後の国一揆鎮圧の功績により、責任をとり自刃した〈佐々成政〉に代わって、肥後半国を拝領し〈熊本城〉を築城し1600年慶長5年再び天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉時は〈内府家康〉の求めにより、九州に在って、西軍〈石田三成〉方の城を攻め立て美容院〈内府家康〉に味方した論功により〈小西行長〉の肥後半国を領有するに至り〈加藤清正〉は1611年慶長16年亡き〈太閤秀吉〉の遺児〈豊臣秀頼〉を護って3月28日京都〈二条城〉(現京都府京都市上京区)での〈大御所=徳川家康〉と〈豊臣秀頼〉の正式対面では、亡き〈太閤秀吉〉の正室〈北政所=高台院=ねね〉や〈浅野幸長〉(浅野長政嫡男)と共に〈豊臣秀頼〉に随行して、無事対面を守護したが〈熊本城〉へ帰国する船内で船病が悪化して重体となりガーン死去したのだったしょぼん


〈加藤清正〉は表向きは徳川幕府の外様大名として従いながらも、亡き〈太閤秀吉〉と、正室〈北政所=ねね〉から受けた恩義を決して忘れずショック!〈太閤秀吉〉の遺児〈豊臣秀頼〉を徳川方から守護する姿勢は崩さずプンプン〈大御所家康〉が警戒していたとされシラー〈加藤清正〉の急死は、暗殺との噂も流れた程で、最期まで豊臣家の忠臣であった…


後に明治新政府と、薩摩の〈西郷隆盛〉が戦った〈西南の役美容院〉においては、新政府方〈熊本鎮代〉が置かれていた〈熊本城〉を〈西郷隆盛〉率いる士族(元薩摩藩や身分を失った元武士達)が攻めたが〈熊本城〉は、歴戦の勇将〈加藤清正〉が幾多の戦歴美容院をくぐり抜けた知識・経験と叡智の結集された〈熊本城〉を攻略する事が出来ずショック!〈加藤清正〉が、密かに〈太閤秀吉〉の遺児〈豊臣秀頼〉を迎え入れて、籠城戦美容院をも視野に築城された難攻不落の城〈熊本城〉を、明治維新の立役者〈西郷隆盛〉をしてショック!「加藤清正公に敗れた!」と語ったというショック!


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月二十四日太閤
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ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も残業で鍛練が全く出来ず夏を前に盟友スーパーサイヤ人〈竜悟空〉〈若殿yell〉〈わらびーヤン〉〈ベジータ裕太〉追撃鍛練が出来んイヤーンしょぼん

昨日駅前のコンビニで、時々遭う〈イケメンアイウラくん〉の後輩で、彼とは違う〈坂口健太郎〉似の〈イケメンナカハラくん〉が声かけてきたからニコニコ軽く話してニコニコmonster差し入れたったニコニコ


今日6月23日は1526年大永6年に駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏親〉(今川義元父親)が死去した命日享年56歳しょぼん


〈今川氏親〉は、父親〈今川義忠〉の遠江で横死した事に伴い嫡男〈龍王丸=後の今川氏親〉が、まだ幼少であったことから、今川氏一門の〈小鹿(今川)範満おしかのりみつ〉に一時、今川家の家督を譲って〈龍王丸〉が元服後に、家督を正式に引き継ぐ事になっていたが…〈小鹿範満〉は一向に家督を譲るつもりがなかった為、亡き〈今川義忠〉の正室〈北川殿〉の求めに応じた〈伊勢新九郎長氏=後の伊勢宗瑞=通称北条早雲〉の支援を得て〈小鹿範満〉を攻め滅ぼして〈今川氏親〉が今川家家督を継いで、遠江にも勢力を広げたが…


〈今川氏親〉は伯父〈伊勢新九郎長氏入道早雲庵宗瑞=北条早雲〉の力添えを得て、三河をも勢力下に治めていったが、中風が重くなり病床に臥してガーン今川家の行く末を案じた〈今川氏親〉は4月14日に分国法「今川仮名目録」33ヵ条を制定したのだった。


〈今川氏親〉亡き後は、嫡男〈今川氏輝〉(今川義元兄)を、氏親の正室で公家〈中御門宣胤なかみかどのぶたね〉の娘で〈今川氏親〉に嫁して、長男〈今川氏輝〉次男〈今川彦五郎〉や五男〈栴岳承芳せんがくしょうほう=後の今川義元〉を生み、後に嫡男〈今川氏輝〉を輔佐して「女戦国大名」と云われた〈寿桂尼じゅけいに〉が、当主を補佐していくのだった…


更に1557年弘治3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃筑摩郡の拠点〈深志城〉(現長野県松本市)へ入城して馬越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉への備えている高井郡〈計見城〉(現長野県木島平村)主〈市河藤若〉に救援の出陣を告げる使者に軍師〈山本勘介晴幸〉を派遣した日。


同じ頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈織田上総介信長〉の異母兄〈織田三郎五郎信広〉(織田信秀長男)が〈岩倉城〉(現愛知県岩倉市)主〈織田信安〉と内通して〈織田信長〉領の〈篠木三郷〉を奪取せんとの謀反を企て、謀反に与した弟〈織田信行=織田信勝〉の家臣中で〈津々木蔵人〉の専横甚だしくニコニコ同じく〈織田信行〉家臣〈柴田権六勝家〉はプンプン疎んじられたのを不満として〈織田信行〉謀反を〈織田信長〉に密告した日。


更に1562年永禄5年この頃、尾張〈清洲城〉主〈織田信長〉が、織田一族の〈犬山城〉(現愛知県犬山市)主〈織田信清〉が美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉主〈斎藤龍興〉(斎藤義竜嫡男)と内通して反旗を翻した為プンプン〈犬山城〉の支城〈小口城〉(現愛知県丹羽郡大口町)を攻撃するも苦戦を強いられ撤退した日。

同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が四男〈武田四郎〉に、亡き〈諏訪頼重〉の跡目を継がせて〈諏訪四郎勝頼=後の武田勝頼〉として、信濃伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主に任命した日

更に1569年永禄12年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉による〈第二次駿河富士山侵攻〉で3度目の駿河富士山〈大宮城〉(現静岡県富士宮市)攻めで、ようやく攻略し美容院富士郡を手中に治めた日。


同じ頃、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉と〈お市の方〉(織田信長妹)との間に長女〈茶々=後の淀殿〉が誕生したのだったケーキ


更に1571年元亀2年に薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津貴久〉が死去した命日ショック!享年58歳しょぼん〈島津貴久〉は同族間の内紛を平定し、キリスト教イエズス会宣教師〈フランシスコ・ザビエル〉に、キリスト教布教を許認可した武将であった。


更に1575年天正3年に天下統一を推し進めるプンプン美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が次男〈茶筅丸ちゃせんまる=後の織田信雄〉を伊勢〈伊勢国司=北畠具教〉の養嗣子として伊勢〈田丸城〉(現三重県度会郡玉城町)へ入国させた日。


更に1578年天正6年に〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱美容院〉で、越後〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉が〈上杉景虎〉からの救援要請を受けた、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉からの出兵要請を受けて出陣して来た、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉と和睦し、北信濃・上野の上杉領割譲と多額の黄金譲渡に〈武田勝頼〉妹〈菊姫〉(武田信玄五女)を〈上杉景勝〉の正室とすることで「甲越同盟」が締結され〈上杉景勝〉と〈上杉景虎〉との和議を仲裁するべく、越後〈木田〉(現新潟県上越市)に着陣した〈武田勝頼〉が〈上杉景勝〉方の〈小木ノ城〉(現新潟県三島郡出雲崎町)将〈板屋修理亮〉に報じた日

更に1582年天正10年に〈本能寺の変美容院〉後の〈山崎の合戦美容院〉で大敗し、近江〈堅田〉で捕らえられ6月17日京都〈霧鴨川霧六条河原〉で斬首に処せられたショック!亡き〈明智光秀〉重臣〈斎藤内蔵助利三〉(春日局父親)と山城〈小栗栖〉で殺害された〈明智光秀〉の首級と胴体が繋ぎ合わされ、京都〈粟田口〉の東に晒した日ショック!


同じ日〈正親町天皇おうぎまち〉が〈石山合戦美容院〉後、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)を退去していた〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人に〈石山合戦美容院〉で、あくまで天下統一を推し進めるプンプン近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉軍に対してプンプン〈石山本願寺〉に籠城し続けた長男〈教如光寿きょうにょこうじゅ〉上人を勘当していたが、公卿〈勧修寺晴豊〉〈庭田重保〉を勅使(ちょくし)として派遣して和解するよう通知した日。


同じ日〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて、能登で〈畠山氏〉旧臣〈貫井備前守景隆〉〈三宅備後守長盛〉兄弟と〈石動山=天平寺〉(現石川県鹿島郡中能登町)衆徒らと共に蜂起し〈荒山〉に〈桝形山城〉(現石川県鹿島郡中能登町)を築城した日。


同じ日〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて、滅亡寸前危機一髪ガーン戦況を挽回させた越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉家老〈直江兼続〉が、越中〈松倉城〉(現富山県魚津市)将〈須田満親〉から救援を要請された日。

更に1584年天正12年に尾張〈清洲城〉主〈織田信雄〉遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉連合軍が〈下之一色城〉(現)将〈前田長種〉が降伏した日で〈前田長種〉は、加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈前田又左衛門利家〉に仕えたのだった。


更に1586年天正14年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見の為、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に出仕して臣下の礼をとった、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈佐渡島〉平定を命じられ、帰国の挨拶に再び〈大坂城〉に登城して挨拶した日m(__)m


更に1588年天正16年に天下人〈関白秀吉〉の義弟、駿河富士山〈駿府城〉主〈駿河大納言=徳川家康〉が〈関白秀吉〉母堂〈大政所=なか〉の病気見舞いの為、正室〈旭姫〉を伴い、急遽京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)に上洛した日。


更に1589年天正17年に駿河富士山〈駿府城〉主〈駿河大納言家康〉家臣〈大須賀康高〉が病没した命日享年63歳しょぼん〈大須賀康高〉には嫡子が無かった為〈榊原小平太康政〉にめとわせた娘が産んだ子を養嗣子とした〈大須賀忠政〉を後継ぎにしたのだった。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈加賀中納言=前田利家〉を総大将とする〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉北国連合軍1万5千が馬相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉の叔父〈北条陸奥守氏照〉(北条氏康三男・北条氏政弟)が〈小田原城〉に参陣して留守の、武蔵〈八王子城〉(現東京都八王子市)代〈中山勘解由家範なかやまかげゆいえのり〉らが守備していたが〈八王子城〉からの降伏を申し入れが〈関白秀吉〉からの厳命によりプンプン降伏は許可されずプンプン総攻撃により籠城衆の老若男女皆殺しとなり落城した日ショック!


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で、兵糧・弾薬輸送船に従事していた「賤ヶ岳七本槍」の〈加藤嘉明〉〈脇坂安治〉らと〈九鬼嘉隆くきよしたか〉ら日本艦隊に船朝鮮水軍総帥〈李舜臣イースンシン〉討伐を命じた日。


更に1600年慶長5年に豊臣家五大老の一人、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐美容院に東征中の、五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が旧領馬遠江〈浜松城〉主〈堀尾忠氏〉(堀尾吉晴次男)の饗応接待を受けた日。


更に1616年元和2年に越後〈高田城〉(現新潟県上越市)主〈松平忠輝〉(徳川家康六男)家老、北信濃〈松代城=海津城〉(現長野県長野市)代〈花井義雄〉が、松平家中重臣一同が〈松平忠輝〉の藩政悪しと、江戸幕府に訴え出た為〈花井義雄〉は、主君〈松平忠輝〉を弁護して奔走したが、江戸幕府は常陸〈笠間城〉(現茨城県笠間市)主〈戸田(松平)康長〉に身柄を預けられたのだった。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月二十三日 太閤
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