ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も無駄な残業だったからしょぼん急ぎ帰還し体育館JYM鍛練に出陣車まづは広背筋・大円筋鍛練懸垂チンニング15㌔負荷9set計75回+肩三角筋鍛練ダンベルアーノルドプレス22㌔負荷5set計35回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス1set計20回鍛練仕り申したぜィビックリマークp(^^)q


※2009年10月11日初blog開始して以来13年間に渡って更新してまいったがニコニコameba側の都合により旧型での利用が7月5日で停止との事でしょぼん残念ながら(´△`)我が方もblog更新は停止という結果に相成り申し候パー

永らく御覧頂いた方には感謝仕り申すニコニコとりま5日まで更新仕り申す故ニコニコ引き続きよしなに頼み参らせ候ニコニコ

今日7月1日は1491年延徳3年に伊豆〈堀越御所ほりごえごしょ〉(現静岡県伊豆の国市)の〈足利茶々丸〉が、義母と義弟達を殺害しショック!〈堀越公方〉の座に就いた日。


この事件後、駿河富士山〈興国寺城〉(現静岡県沼津市)から様子を窺っていた〈伊勢新九郎長氏=後の伊勢早雲庵宗瑞いせそううんあんそうずい=通称北条早雲〉が伊豆攻略へと乗り出し、戦国時代の幕開けとなっていくのであった…


更に1536年天文5年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が娘婿、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部少輔義元〉との和睦後、嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉に、公卿〈左大臣=三条公頼〉の次女を正室として迎えるよう〈今川義元〉が斡旋したのだった。


〈今川義元〉は幼い頃から京都〈建仁寺〉や〈妙心寺〉で修行し、母親〈寿桂尼じゅけいに〉も公卿〈権大納言=中御門宣胤なかみかどのぶたね〉の息女で公家衆や寺院との交流は盛んで〈駿府〉には、京都から多くの公家衆が下向して繁栄していたのだった…


更に1542年天文11年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉による馬信濃諏訪侵攻に対してプンプン〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉(武田信玄義弟)が〈矢崎原〉の大射馬場まで武田軍迎撃に出陣したが馬多勢に無勢で〈上原城〉へ撤退した日馬


更に1548年天文17年に信濃諏訪郡〈霧宮川霧〉以西の〈諏訪西方衆=矢島氏・小坂氏・花岡氏〉らが、信濃〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉に内通してプンプン甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉に反旗を翻した日美容院


更に1559年永禄2年この頃〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が京都洛中に〈二条御所=斯波武衛陣〉(現京都府京都市上京区)の造営を開始したのだった

更に1567年永禄10年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉の庇護下に在る〈足利義秋=後の将軍足利義昭〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉を頼り京都上洛の決意を固めプンプン越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉との和睦を要請し、兵糧調達と参陣を命じた日。


更に1570年元亀元年この頃、天下統一を推し勧めるプンプン美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉嫡男が元服を迎え、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平竹千代〉に偏諱「信」の一字を与えて〈松平信康〉と名乗らせたのだった。


同じ日、天下統一を推し勧めるプンプン美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が裏切った妹婿、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉重臣〈磯野員昌いそのかずまさ〉が守備する〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を攻撃するも美容院〈磯野員昌〉が頑強に抵抗した為ガーン織田軍は力攻めを中止して兵糧責めに切り換え〈百々屋敷どど〉に〈丹羽五郎左衛門長秀〉を〈尾末山〉に〈市橋長利〉〈里根山〉に〈水野信元〉(徳川家康伯父)〈彦根山〉に〈河尻秀隆〉を配して〈佐和山城〉を包囲した日馬


更に1577年天正5年この頃、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉からプンプン播磨に出陣中の近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に対して、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉軍の能登・加賀への侵攻に対して馬北陸方面軍の総大将、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉に参陣を命じられプンプン加賀へ出陣の為、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)包囲陣の〈天王寺砦〉(現大阪府大阪市天王寺区)在番を代わって、大和〈信貴山城〉(現奈良県生駒郡平群町)主〈松永弾正少弼久秀〉〈松永久通〉父子に命じられた日。


更に1578年天正6年この頃、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉がキリスト教イエズス会宣教師〈フランシスコ・カブラル〉神父より洗礼を受けて〈ドン・フランシスコ〉と名乗らせた日。


更に1582年天正10年に〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて、上野に侵攻を開始したプンプン相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉軍と6月19日武蔵〈神流川の合戦美容院〉で大敗を期した美容院織田重臣〈関東菅領=滝川左近将監一益〉はガーン上野〈厩橋うまやばき〉(現群馬県前橋市)を維持出来ずガーン〈碓氷とうげ〉を越えて馬信濃〈小諸城〉(現長野県小諸市)へと逃亡後〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉に〈木曽谷〉通過に差し当たり、人質に連れてきた信濃国衆の人質を引き渡して通過し、ようやく伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)に到着した日

しかし〈滝川監一益〉は織田家重臣達による、亡君〈織田信長〉の後継者を決める〈清洲会議〉には間に合わなかったのだった…


更に1585年天正13年この頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、京都支配の本陣としていた洛中六条〈本圀寺〉(現京都府京都市下京区)に代わり、二条〈妙顕寺城〉(現京都府京都市中京区)を築いた日。


更に1587年天正15年この頃6月19日天下人〈関白秀吉〉によるプンプン「バテレン追放令」で、突如〈関白秀吉〉が、キリシタン大名の摂津〈高槻城〉(現大阪府高槻市)主〈高山右近〉に対してプンプンキリスト教の信仰を捨てるよう命じられたのだったショック!


更に1589年天正17年この頃〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河富士山の武田旧領地をめぐる〈天正壬午の乱美容院〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉軍と甲斐で対峙が長引いていた、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍に対して〈小田原城〉の隠居〈北条氏政〉が和議を持ちかけて甲斐・信濃・駿河富士山を徳川に、上野は北条氏が領有する事と〈北条氏直〉に〈徳川家康〉次女〈督姫〉が嫁ぐという事で和睦・同盟が成り、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を領有する北条方から寝返り、徳川方の、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉に〈徳川家康〉が〈沼田城〉を北条氏に引き渡すよう要請したが…


〈真田昌幸〉が拒絶してプンプン越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方に寝返った為ショック!〈徳川家康〉〈北条氏直〉双方に攻め寄せられるも〈第一次上田城攻防戦美容院〉で〈真田昌幸〉は徳川軍を〈沼田城〉でも叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟)は北条軍を撃退していたが…


天下人〈関白=豊臣秀吉〉の裁定によりニコニコ〈沼田〉領3万石3分の2を〈北条氏直〉に割譲し、3分の1を〈真田昌幸〉領に安堵して〈徳川家康〉に割譲分の3分2相当の領地、信濃伊那郡〈箕輪〉領を〈真田昌幸〉に宛行うとの裁定を下してニコニコ〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子のいづれかが至急京都に上洛し臣下の礼を執る事を命じた日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が築城成って、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を海陸から包囲しつつ、関東各地の北条方支城を豊臣方別動隊が攻略していたが…先に〈駿河大納言=徳川家康〉に6月24日降服した、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)が〈小田原城〉に入城して兄〈北条氏政〉甥〈北条氏直〉父子を説得し〈関白秀吉〉への降伏の意志を固めた日。


更に1591年天正19年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐〉後の〈奥羽仕置き〉で〈小田原〉攻めに参陣しなかった関東・奥羽の諸大名は改易となったがショック!「太閤検地」「刀狩令」に反発して蜂起した〈葛西・大崎一揆美容院〉〈仙北一揆美容院〉〈九戸政実の乱美容院〉等の討伐を〈関白秀吉〉から命じられたプンプン出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が陸奥〈大崎佐沼城〉(現宮城県登米市)を攻撃した日

更に1600年慶長5年に豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉による、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主、五大老〈会津中納言=上杉景勝〉征伐軍に従軍予定の、美濃〈岐阜城〉主〈織田秀信〉(織田信長嫡孫)が出陣に手間取り遅延していた間に〈石田治部少輔三成〉から美濃・尾張2ヶ国の恩賞の条件で西軍に勧誘され加担を決意した日。


更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉において〈石田三成〉ら西軍を討ち敗って豊臣政権の実権を掌中に納めた、豊臣家「五大老」筆頭〈内大臣=徳川家康〉に、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉重臣〈直江山城守兼続〉が送った返書「直江状手紙」が戦の発端となった為ガーン五大老〈会津中納言景勝〉が〈内府家康〉に謝罪弁明の為〈若松城〉を出発し馬山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)へ向かった日

更に1604年慶長9年に徳川幕府が、朝廷や摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉の動向を監視する為、かつて〈石田三成〉の居城〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を廃城にして、諸大名に近江〈彦根城〉(現滋賀県彦根市)築城の普請助役を命じた日プンプンパー


〈彦根城〉築城は美濃・近江〈小谷城〉〈安土城〉〈佐和山城〉〈長浜城〉〈近江八幡城〉〈大津城〉の城跡の櫓や、城門・石垣・天守閣が次々と移築されてくるのであった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言文月朔日
太閤
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今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日はムッチャ残業だった上に電車トラブルでメッサ晩くナッシブルだったから鍛練どころではナッシブルガーン


明日重大発表を致すしょぼん


今日6月30日は1541年天文10年に〈武田晴信=後の武田信玄〉によって娘婿の、駿河富士山〈駿府城〉主〈今川義元〉のもとへ追放された〈武田信虎〉が剃髪して〈武田信虎入道我卜斎〉と号した日。


更に1554年天文23年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉に服属した〈村上義清〉旧臣、信濃〈室賀城〉(現長野県上田市)主〈室賀光氏〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に内通したのだった。


更に1566年永禄9年この頃、阿波の〈足利義親=後の室町幕府第14代将軍=足利義栄〉が〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉方の〈篠原長房〉〈三好康長〉らに擁立されて、京都へ上洛のため〈淡路島〉へ渡海した日船


更に1568年永禄11年この頃、陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名盛氏〉家臣〈小田切孫七郎〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉の調略により、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に反旗を翻した日美容院


更に1569年永禄12年この頃〈尼子勝久〉を擁して尼子家再興を図る〈山中鹿ノ介幸盛〉〈立原久綱〉ら尼子残党軍が〈隠岐島〉から島根半島から出雲へ上陸して船出雲〈忠山〉(現島根県松江市)に本陣を構えて挙兵しプンプン尼子旧臣〈秋上久家=秋上宗信〉〈横道正光=横道秀綱〉〈森脇〉ら総勢6千が集結し馬〈真山城〉(現島根県松江市)を攻略して美容院〈末次城=後の松江城〉を築城し〈宇波城〉(現島根県安来市)をも攻略して美容院出雲を、筑前へ主力を派兵して手薄だった、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉から奪還せんとしたのであった。


更に1570年元亀元年この頃、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉と〈お市の方〉(織田信長妹)との間に次女〈初はつ=後の常高院〉(京極高次正室)が誕生したのだったケーキ


更に1572年元亀3年に摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、北近江〈小谷城〉主〈浅井長政〉隠居〈浅井久政〉父子に、対美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の侵攻に備えて弾薬を提供し、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉にも織田軍への守備を勧めた日。


更に1573年元亀4年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が、奥三河〈山家三方衆=菅沼右近助・菅沼刑部丞・奥平美作守貞能〉らに所領地安堵した日で〈奥平貞能〉は後に、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉に内応するのだった…


更に1574年天正2年この頃、公卿〈三条西実澄=後の三条西実枝〉より、山城〈勝龍寺城〉(現京都府長岡京市)主〈細川藤孝〉より「古今和歌集切紙」を伝授されたのだった。


更に1577年天正5年この頃2度にわたる〈国府台の合戦美容院〉で大敗を期した〈里見義弘〉が宿敵、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉と、上総〈久留里城〉(現千葉県君津市)主〈里見義弘〉が和睦し、下総から撤退して、以後領国経営に専念したのだった。


更に1580年天正8年に信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉(真田幸村父)が、甲斐〈新府城〉(現山梨県韮崎市)主〈武田勝頼〉の命により、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を奪取した日。


上野〈沼田城〉は、越後・武蔵・信濃・陸奥へと通じる戦略上の要衝で、以前から、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉や、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉や、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子らと三つ巴の争奪戦が繰り広げられてきたが…


〈北条氏康〉と〈武田信玄〉が相次いで死去するとショック!〈三国峠〉の出口にして、関東進出の入口に位置する〈沼田城〉は〈上杉謙信〉の支配するところとなったが1578年天正6年3月に〈上杉謙信〉が越後〈春日山城〉内で急死するとショック!〈上杉謙信〉の二人の養子〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)と〈上杉景虎〉(北条氏康七男)が家督をめぐり〈御館の乱美容院〉が勃発美容院〈上杉景虎〉は、実兄である相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉(北条氏康次男)に援軍を要請した為〈北条氏政〉は、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主の弟〈北条安房守氏邦〉らを、越後に向け侵攻させた折に馬北上野の要衝〈沼田城〉は、北条氏の手中に落ちて城将〈用土新左衛門=藤田信吉〉が守備していたが…


〈武田勝頼〉(武田信玄四男)が、信濃〈砥石城といし〉(現長野県上田市)上野〈岩櫃城いわびつ〉を守備する〈真田昌幸〉に〈沼田城〉の奪取を命じプンプンパー〈真田昌幸〉は〈沼田城〉の支城〈名胡桃城なぐるみ〉〈小川城〉(いずれも群馬県利根郡みなかみ町)を攻略して美容院城将〈藤田信吉〉を追い払い〈沼田城〉も奪取しニコニコこの〈沼田城〉をめぐって、後に〈真田昌幸〉と〈北条氏政〉が激しく対立しプンプン〈徳川家康〉をも巻き込み「沼田問題」として…ついには天下人〈関白=豊臣秀吉〉の「沼田裁定」により、裁定に不服だった北条氏の領土侵犯から~〈小田原征伐美容院〉へと発展していくのである…


更に1586年天正14年に九州全土征服を目指すプンプン薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)〈臼杵丹生島城〉(現大分県臼杵市)隠居〈大友義鎮入道宗麟〉父子攻めから、筑前攻めに方針変更したが、島津家家老〈島津忠長〉を総大将に〈高良山〉(現福岡県久留米市)を攻め落とした日で美容院〈新納忠元〉〈伊集院忠棟〉らの着陣を待って筑前侵攻を開始するのだった。


更に1582年天正10年この頃〈本能寺の変美容院〉の混乱に乗じて、信濃・甲斐・上野・駿河富士山の武田旧領地は、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子に、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉による三つ巴の草刈り場と化して、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)から美濃〈金山城〉(現岐阜県可児市)へ撤退した〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸)が〈本能寺の変美容院〉で亡き〈織田信長〉と共に討死した〈森蘭丸=森成利〉〈森坊丸〉〈森力丸〉三兄弟の葬儀と称して東美濃制圧に出陣した日馬


同じ頃、武田水軍船〈向井正綱〉が遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉家臣〈鬼作左=本多作左衛門重次〉を介して〈小浜氏〉〈間宮氏〉〈千賀氏〉らと共に徳川家臣となったのだった。


更に1584年天正12年この頃、伊勢〈松ヶ島城〉(現三重県松阪市)主〈麒麟児=蒲生賦秀がもうますひで=後の蒲生氏郷〉が、家臣〈山科勝成〉〈岩上伝左衛門〉ら12人をローマへ派遣したのだった船


更に15690年天正18年この頃、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈小田原〉に〈真田安房守昌幸〉が参陣したのだった馬

更に1594年文禄3年この頃、天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命により、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)隠居〈島津義久入道龍伯斎〉三女〈亀寿姫〉(島津久保未亡人)と、島津家当主〈島津維新入道義弘〉三男〈島津忠恒=後の島津家久〉との再婚したのだった。


更に1601年慶長6年この頃、前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉で大勝した〈内大臣=徳川家康〉が、伊予〈松山城〉(現愛媛県松山市)主〈加藤嘉明〉に、近江〈大津城〉(現滋賀県大津市)を破却して、新たに〈膳所城ぜぜ〉(現滋賀県大津市)築城を命じた日で〈内府家康〉は東海道の要衝を重要視して〈戸田一西とだかずあき〉を城主とし、諸大名への天下普請の最初となったのだった

同じ頃〈内府家康〉が、土佐〈高知城〉(現高知県高知市)主となった〈山内対馬守一豊〉弟〈山内康豊〉を、土佐〈中村〉を与えた日。


更に1616年元和2年この頃、徳川幕府が諸大名・旗本に対して、所領地・石高に応じた軍役・奉仕の義務づけを行った「元和軍役令」を公布したのだった。


更に1635年寛永9年に筑前〈福岡城〉(現福岡県福岡市)主〈黒田忠之〉(黒田官兵衛孝高嫡孫・黒田長政嫡男)重臣〈栗山大膳利章〉が主君〈黒田忠之〉に幕府転覆の野望有りと直訴に及んだ〈黒田騒動〉が勃発しショック!幕府は〈黒田忠之〉と〈栗山大膳〉を尋問したのだった。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月三十日
太閤
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今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日は残業だったからしょぼん帰還しても体育館JYM鍛練には間に合わず城内簡易鍛練の時間もナッシブルでしょぼんまた鍛練見送りガーン過日駅で初めて御座敷列車を見申した電車


今朝は駅前コンビニで高校生から顔見知りのバイトで夜勤明けの〈イケメンアイウラ〉に遭うたからニコニコまたmonster差し入れたったニコニコ〈イケメンアイウラ〉就活終えて仕官先決まったらC〈イケメンアイウラ〉クンに遭うとA事有るからナァニコニコ((o(^∇^)o))


今日6月29日は1534年天文3年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が〈細川六郎晴元〉と和解して約3年にわたり幕府政治が執り行われた、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)下〈桑実寺〉を引き払い〈坂本〉に移転した日。


更に1541年天文10年に摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉が摂津守護代に任じられた日。


同じ頃6月14日に嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉によって駿河富士山へ追放された父親〈武田信虎〉の隠居分処遇手当について、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉家臣〈岡部美濃守久綱〉と軍師〈太原崇浮雪斎たいげんそうふせっさい〉禅師が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)に赴き〈武田晴信〉と交渉にあたったのだった。


更に1559年永禄2年に「剣豪将軍」として恐れられる〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が頼みとしていたニコニコ越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、鉄砲の火薬調合方法の秘伝を贈った日ニコニコ


越後の〈上杉輝虎〉が4月に5千人の手勢を率いて馬京都に二度目の上洛を果たし馬「新当流」免許皆伝の剣豪〈将軍義輝〉に拝謁を許されたm(__)m〈上杉輝虎〉は「たとえ越後一国を失っても将軍家を御守り致しまする!」と言上して〈将軍義輝〉を感激させたのだったニコニコ


その後〈上杉輝虎〉は、近江〈比叡山=延暦寺〉の門前町〈坂本〉(現滋賀県大津市)を訪れていたが、腫れ物を患ってしまいガーン〈将軍義輝〉は奉公衆〈大館輝氏〉を遣わして〈上杉輝虎〉に見舞いの書状手紙と、医師を派遣すると共に、同時に「鉄砲薬之方並調合次第」というニコニコ鉄砲の火薬調合秘伝書を贈ったのだった…

この火薬調合秘伝書は、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主のキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟おおともよししげにゅうどうそうりん〉が南蛮貿易で入手した、最新の科学技術書本で〈大友宗麟〉から〈将軍義輝〉に献上されたものであった…


〈将軍義輝〉は当時、摂津〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉と、三好家家老の大和〈多聞城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上少弼久秀〉主従らと対立しプンプン亡き父〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉と共に近江に追われていた事も有りショック!実力者〈三好長慶〉に、室町幕府の実権を握られていたのだったショック!


ときの〈正親町天皇おうぎまち〉は「天文」から「永禄」への元号改元においても〈三好長慶〉に、改元の時期を相談する程、朝廷も現職将軍よりも、戦国大名〈三好長慶〉を頼りにする始末で…この改元にあたって、地方の戦国大名達の反応は、駿河富士山の〈今川義元〉相模の〈北条氏康〉甲斐の〈武田晴信=後の武田信玄〉や美濃の〈斎藤義竜〉豊後の〈大友宗麟〉等も「永禄」の改元を用いてニコニコ足利将軍家の権威は失墜していた為ガーン〈将軍義輝〉は、秘かに〈上杉輝虎〉や、安芸の〈毛利元就〉等を頼みとしていたのだった…


更に1561年永禄4年この頃、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉が、美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤義竜〉に内通している、尾張〈犬山城〉(現愛知県犬山市)主〈織田信清〉家老〈中島豊後守〉が守備していた〈於久地=小口〉を攻撃し美容院小姓〈岩室長門守〉がこめかみを突かれて討死するも〈犬山城〉を攻略出来なかった日。


更に1568年永禄11年に〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉方〈三好康長〉〈筒井藤勝入道順慶〉軍が大和〈松永弾正少弼久秀〉の
〈信貴山城〉(現奈良県奈良市)を攻略した日美容院


更に1570年元亀元年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が駿河富士山〈大宮城〉(現静岡県富士宮市)に在城し馬別動隊が武蔵秩父郡へ侵攻して〈大滝〉〈日尾〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉方の北条軍と交戦したのだった

更に1571年元亀2年この頃、出雲〈尼子氏〉再興を図る〈山中鹿ノ介幸盛〉が、伯耆〈末吉城〉(現鳥取県西伯郡大山町)に籠城しプンプン出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉軍が攻撃して美容院〈山中鹿ノ介〉は捕らえられて〈尾高城〉(現鳥取県米子市)に監禁されたが、腹痛と偽って厠トイレから脱走して美作へ逃亡し走る人再び〈尼子〉再興を期すのだったプンプン


更に1574年天正2年に天下統一を推し進めるプンプン美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉家臣〈山崎専柳斎〉に対面し〈上杉謙信〉からの信濃・甲斐侵攻要請を承諾し9月上旬頃出陣するとしニコニコ東美濃や遠江・三河と各方面に出兵し馬機動力を活かして神出鬼没のガーン慎重の上にも慎重を期す亡き父親〈武田信玄〉よりも〈上杉謙信〉のように電光石火行動力に溢れる馬DASH!甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉を評して〈織田信長〉は「若輩であるが、亡き父親〈武田信玄〉の遺言を遵守していて表裏もあるので、油断大敵だと伝えた日。


更に1578年天正6年に近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉が甥〈津田(織田)信澄〉(織田信行嫡男)と〈万見仙千代=万見重元〉を派遣して、播磨〈兵庫〉〈明石〉〈高砂〉間に織田水軍船警護の砦築城を命じた日。


同じ日〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱美容院〉で、越後〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)と和睦した、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が越後〈府中〉(現新潟県上越市)に着陣し馬先鋒〈武田典厩信豊〉(武田信繁嫡男・武田信玄甥)が〈上杉景勝〉方に連絡して〈御館〉(現新潟県上越市)の〈上杉景虎〉(北条氏康七男)との和議を仲裁するとした案を提示した日で〈武田勝頼〉は、義兄の相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉からの〈上杉景虎〉方への援軍として出兵要請をしながら〈北条氏政〉自らは〈小田原城〉に在って動かず、その動きに不満を表しプンプン〈上杉景勝〉と〈上杉景虎〉〈北条氏政〉の和睦交渉を指示したのだった…


同じ日〈上杉景勝〉方の、越後〈小木ノ城〉(現新潟県出雲崎町)将〈板屋修理亮〉〈黒滝城〉(現新潟県弥彦村)将〈山岸秀能〉と〈与板城〉(現新潟県長岡市)主〈直江信綱〉らが〈上杉景虎〉方の〈琵琶島城びわじま〉(現新潟県柏崎市)主〈前島修理亮〉を攻撃した日美容院


更に1580年天正8年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉軍と相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍が駿河富士山で対陣となった日馬


更に1582年天正10年6月2日〈本能寺の変美容院〉で〈織田信長〉を襲殺した〈明智日向守光秀〉の娘婿〈明智左馬助秀満〉は事変後〈明智光秀〉の命で、近江〈安土城〉を守備していたが〈山崎の合戦美容院〉で舅〈明智光秀〉が大敗した事を知ると〈安土城〉を出て〈坂本城〉(現滋賀県大津市)に戻り15日明智一族を殺害した後自刃して果てたが…その〈明智秀満〉の親に続いて女房衆が捕らえられたことを〈明智光秀〉とも親交の有った公卿〈武家伝奏=勧修寺晴豊〉が知りガーン丹波〈福知山城〉(現京都府福知山市)代〈明智光廉=三宅長閑斎〉(明智秀満岳父)も捕縛され磔(はりつけ)刑に処されたことを〈明智光秀〉とも親交の有った、京都〈吉田神社〉神官〈吉田兼見〉が知った日

更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉方の尾張〈蟹江城〉(現愛知県海部郡蟹江町)将〈滝川左近将監一益〉を、尾張〈清洲城〉主〈織田信雄〉(織田信長次男)遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉連合軍が攻撃し美容院〈織田長益=後の織田有楽斎〉(織田信長弟)らを介して降伏を申し出て和議が開始された日。


更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉に降服した、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久入道龍伯斎〉が、周防〈赤間関〉(現山口県下関市)において豊臣家家臣〈石田治部少輔三成〉から指南を受けて〈島津維新入道義弘〉嫡男〈島津久保〉〈島津彰久〉(島津以久嫡男)他諸城主より人質として子女を京都に上洛させるよう指示した日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で、完成した〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)で茶匠〈千利休〉が茶会を催しニコニコ相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉(徳川家康娘婿)が〈清洲大納言=織田信雄〉に〈関白秀吉〉との和議を依頼した日。


更に1593年文禄2年に前日天下人〈太閤=豊臣秀吉〉からの7ヶ条の和議条々を受けて〈明国皇帝=万暦帝〉の〈勅使=謝用梓〉〈徐一貫〉が、肥前〈名護屋城〉(現佐賀県唐津市)でも〈太閤秀吉〉謁見後7ヶ条の条々を受けて帰国の途につき〈小西行長〉家臣〈内藤如安〉が、密かに随行した日で、同じ頃〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で〈明国〉〈朝鮮〉連合軍と交戦中の〈備前中納言=宇喜多秀家〉〈加藤主計頭清正〉〈毛利秀元〉ら慶尚道〈晋州城〉を攻撃して和戦両様の構えであった日美容院


更に1595年文禄4年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉がプンプン薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久入道龍伯斎〉の降伏によりm(__)m〈島津龍伯〉に代えて弟〈島津維新入道義弘〉を島津家当主としてニコニコ薩摩・大隅・日向55万9千石を安堵した日。


しかし島津家は、隠居した嫡流〈島津龍伯〉派と〈島津維新〉派に分裂して、島津家中対立の構図は〈関ヶ原の合戦美容院〉~〈琉球征伐美容院〉まで緒を引いてしまうのであった…


更に1600年慶長5年に豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が、五大老の陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐美容院で、相模〈藤沢〉を出立して〈鎌倉〉の〈鶴岡八幡宮〉を参拝して戦勝祈願した日パー


更に1601年慶長6年に前年天下分け目〈関ヶ原の合戦美容院〉で敗退しショック!美濃〈関ヶ原〉を脱出した走る人豊臣家五大老〈備前中納言=宇喜多秀家〉が、変装して薩摩へ逃れ走る人〈島津維新入道義弘〉を頼って落ち延び走る人〈島津忠恒=後の島津家久〉が〈牛根郷〉(現鹿児島県垂水市)匿い〈備前中納言秀家〉が礼を述べた日。

更に1609年慶長14年この頃「徳川四天王」の一人〈本多平八郎忠勝〉が、伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)十万石を嫡男〈本多忠政〉に譲り隠居したのだった。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月二十九日 太閤
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