俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も無駄な残業だったから
急ぎ帰還し体育館JYM鍛練に出陣
まづは広背筋・大円筋鍛練懸垂チンニング15㌔負荷9set計75回+肩三角筋鍛練ダンベルアーノルドプレス22㌔負荷5set計35回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス1set計20回鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
※2009年10月11日初blog開始して以来13年間に渡って更新してまいったが
ameba側の都合により旧型での利用が7月5日で停止との事で
残念ながら(´△`)我が方もblog更新は停止という結果に相成り申し候
永らく御覧頂いた方には感謝仕り申す
とりま5日まで更新仕り申す故
引き続きよしなに頼み参らせ候
今日7月1日は1491年延徳3年に伊豆〈堀越御所ほりごえごしょ〉(現静岡県伊豆の国市)の〈足利茶々丸〉が、義母と義弟達を殺害し
〈堀越公方〉の座に就いた日。
この事件後、駿河
〈興国寺城〉(現静岡県沼津市)から様子を窺っていた〈伊勢新九郎長氏=後の伊勢早雲庵宗瑞いせそううんあんそうずい=通称北条早雲〉が伊豆攻略へと乗り出し、戦国時代の幕開けとなっていくのであった…
更に1536年天文5年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が娘婿、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部少輔義元〉との和睦後、嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉に、公卿〈左大臣=三条公頼〉の次女を正室として迎えるよう〈今川義元〉が斡旋したのだった。
〈今川義元〉は幼い頃から京都〈建仁寺〉や〈妙心寺〉で修行し、母親〈寿桂尼じゅけいに〉も公卿〈権大納言=中御門宣胤なかみかどのぶたね〉の息女で公家衆や寺院との交流は盛んで〈駿府〉には、京都から多くの公家衆が下向して繁栄していたのだった…
更に1542年天文11年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉による
信濃諏訪侵攻に対して
〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉(武田信玄義弟)が〈矢崎原〉の大射馬場まで武田軍迎撃に出陣したが
多勢に無勢で〈上原城〉へ撤退した日
更に1548年天文17年に信濃諏訪郡〈
宮川
〉以西の〈諏訪西方衆=矢島氏・小坂氏・花岡氏〉らが、信濃〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉に内通して
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉に反旗を翻した日
更に1559年永禄2年この頃〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が京都洛中に〈二条御所=斯波武衛陣〉(現京都府京都市上京区)の造営を開始したのだった
更に1567年永禄10年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉の庇護下に在る〈足利義秋=後の将軍足利義昭〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉を頼り京都上洛の決意を固め
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉との和睦を要請し、兵糧調達と参陣を命じた日。
更に1570年元亀元年この頃、天下統一を推し勧める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉嫡男が元服を迎え、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平竹千代〉に偏諱「信」の一字を与えて〈松平信康〉と名乗らせたのだった。
同じ日、天下統一を推し勧める
美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が裏切った妹婿、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉重臣〈磯野員昌いそのかずまさ〉が守備する〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を攻撃するも
〈磯野員昌〉が頑強に抵抗した為
織田軍は力攻めを中止して兵糧責めに切り換え〈百々屋敷どど〉に〈丹羽五郎左衛門長秀〉を〈尾末山〉に〈市橋長利〉〈里根山〉に〈水野信元〉(徳川家康伯父)〈彦根山〉に〈河尻秀隆〉を配して〈佐和山城〉を包囲した日
更に1577年天正5年この頃、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から
播磨に出陣中の近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に対して、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉軍の能登・加賀への侵攻に対して
北陸方面軍の総大将、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉に参陣を命じられ
加賀へ出陣の為、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)包囲陣の〈天王寺砦〉(現大阪府大阪市天王寺区)在番を代わって、大和〈信貴山城〉(現奈良県生駒郡平群町)主〈松永弾正少弼久秀〉〈松永久通〉父子に命じられた日。
更に1578年天正6年この頃、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉がキリスト教イエズス会宣教師〈フランシスコ・カブラル〉神父より洗礼を受けて〈ドン・フランシスコ〉と名乗らせた日。
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて、上野に侵攻を開始した
相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉軍と6月19日武蔵〈神流川の合戦
〉で大敗を期した
織田重臣〈関東菅領=滝川左近将監一益〉は
上野〈厩橋うまやばき〉(現群馬県前橋市)を維持出来ず
〈碓氷とうげ〉を越えて
信濃〈小諸城〉(現長野県小諸市)へと逃亡後〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉に〈木曽谷〉通過に差し当たり、人質に連れてきた信濃国衆の人質を引き渡して通過し、ようやく伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)に到着した日
しかし〈滝川監一益〉は織田家重臣達による、亡君〈織田信長〉の後継者を決める〈清洲会議〉には間に合わなかったのだった…
更に1585年天正13年この頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、京都支配の本陣としていた洛中六条〈本圀寺〉(現京都府京都市下京区)に代わり、二条〈妙顕寺城〉(現京都府京都市中京区)を築いた日。
更に1587年天正15年この頃6月19日天下人〈関白秀吉〉による
「バテレン追放令」で、突如〈関白秀吉〉が、キリシタン大名の摂津〈高槻城〉(現大阪府高槻市)主〈高山右近〉に対して
キリスト教の信仰を捨てるよう命じられたのだった
更に1589年天正17年この頃〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河
の武田旧領地をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉軍と甲斐で対峙が長引いていた、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍に対して〈小田原城〉の隠居〈北条氏政〉が和議を持ちかけて甲斐・信濃・駿河
を徳川に、上野は北条氏が領有する事と〈北条氏直〉に〈徳川家康〉次女〈督姫〉が嫁ぐという事で和睦・同盟が成り、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を領有する北条方から寝返り、徳川方の、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉に〈徳川家康〉が〈沼田城〉を北条氏に引き渡すよう要請したが…
〈真田昌幸〉が拒絶して
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方に寝返った為
〈徳川家康〉〈北条氏直〉双方に攻め寄せられるも〈第一次上田城攻防戦
〉で〈真田昌幸〉は徳川軍を〈沼田城〉でも叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟)は北条軍を撃退していたが…
天下人〈関白=豊臣秀吉〉の裁定により
〈沼田〉領3万石3分の2を〈北条氏直〉に割譲し、3分の1を〈真田昌幸〉領に安堵して〈徳川家康〉に割譲分の3分2相当の領地、信濃伊那郡〈箕輪〉領を〈真田昌幸〉に宛行うとの裁定を下して
〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子のいづれかが至急京都に上洛し臣下の礼を執る事を命じた日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が築城成って、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を海陸から包囲しつつ、関東各地の北条方支城を豊臣方別動隊が攻略していたが…先に〈駿河大納言=徳川家康〉に6月24日降服した、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)が〈小田原城〉に入城して兄〈北条氏政〉甥〈北条氏直〉父子を説得し〈関白秀吉〉への降伏の意志を固めた日。
更に1591年天正19年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐〉後の〈奥羽仕置き〉で〈小田原〉攻めに参陣しなかった関東・奥羽の諸大名は改易となったが
「太閤検地」「刀狩令」に反発して蜂起した〈葛西・大崎一揆
〉〈仙北一揆
〉〈九戸政実の乱
〉等の討伐を〈関白秀吉〉から命じられた
出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が陸奥〈大崎佐沼城〉(現宮城県登米市)を攻撃した日
更に1600年慶長5年に豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉による、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主、五大老〈会津中納言=上杉景勝〉征伐軍に従軍予定の、美濃〈岐阜城〉主〈織田秀信〉(織田信長嫡孫)が出陣に手間取り遅延していた間に〈石田治部少輔三成〉から美濃・尾張2ヶ国の恩賞の条件で西軍に勧誘され加担を決意した日。
更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉において〈石田三成〉ら西軍を討ち敗って豊臣政権の実権を掌中に納めた、豊臣家「五大老」筆頭〈内大臣=徳川家康〉に、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉重臣〈直江山城守兼続〉が送った返書「直江状
」が戦の発端となった為
五大老〈会津中納言景勝〉が〈内府家康〉に謝罪弁明の為〈若松城〉を出発し
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)へ向かった日
更に1604年慶長9年に徳川幕府が、朝廷や摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉の動向を監視する為、かつて〈石田三成〉の居城〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を廃城にして、諸大名に近江〈彦根城〉(現滋賀県彦根市)築城の普請助役を命じた日

〈彦根城〉築城は美濃・近江〈小谷城〉〈安土城〉〈佐和山城〉〈長浜城〉〈近江八幡城〉〈大津城〉の城跡の櫓や、城門・石垣・天守閣が次々と移築されてくるのであった…
よって件の如し
恐々謹言文月朔日
太閤






参上
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太閤で~す(*^∀^*)
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〈堀越公方〉の座に就いた日。この事件後、駿河
〈興国寺城〉(現静岡県沼津市)から様子を窺っていた〈伊勢新九郎長氏=後の伊勢早雲庵宗瑞いせそううんあんそうずい=通称北条早雲〉が伊豆攻略へと乗り出し、戦国時代の幕開けとなっていくのであった…更に1536年天文5年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が娘婿、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部少輔義元〉との和睦後、嫡男〈武田晴信=後の武田信玄〉に、公卿〈左大臣=三条公頼〉の次女を正室として迎えるよう〈今川義元〉が斡旋したのだった。〈今川義元〉は幼い頃から京都〈建仁寺〉や〈妙心寺〉で修行し、母親〈寿桂尼じゅけいに〉も公卿〈権大納言=中御門宣胤なかみかどのぶたね〉の息女で公家衆や寺院との交流は盛んで〈駿府〉には、京都から多くの公家衆が下向して繁栄していたのだった…
更に1542年天文11年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉による
信濃諏訪侵攻に対して
〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉(武田信玄義弟)が〈矢崎原〉の大射馬場まで武田軍迎撃に出陣したが
多勢に無勢で〈上原城〉へ撤退した日
更に1548年天文17年に信濃諏訪郡〈
宮川
〉以西の〈諏訪西方衆=矢島氏・小坂氏・花岡氏〉らが、信濃〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉に内通して
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉に反旗を翻した日
更に1559年永禄2年この頃〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が京都洛中に〈二条御所=斯波武衛陣〉(現京都府京都市上京区)の造営を開始したのだった
更に1567年永禄10年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉の庇護下に在る〈足利義秋=後の将軍足利義昭〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉を頼り京都上洛の決意を固め
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉との和睦を要請し、兵糧調達と参陣を命じた日。更に1570年元亀元年この頃、天下統一を推し勧める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉嫡男が元服を迎え、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平竹千代〉に偏諱「信」の一字を与えて〈松平信康〉と名乗らせたのだった。同じ日、天下統一を推し勧める
美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が裏切った妹婿、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井備前守長政〉重臣〈磯野員昌いそのかずまさ〉が守備する〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を攻撃するも
〈磯野員昌〉が頑強に抵抗した為
織田軍は力攻めを中止して兵糧責めに切り換え〈百々屋敷どど〉に〈丹羽五郎左衛門長秀〉を〈尾末山〉に〈市橋長利〉〈里根山〉に〈水野信元〉(徳川家康伯父)〈彦根山〉に〈河尻秀隆〉を配して〈佐和山城〉を包囲した日
更に1577年天正5年この頃、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から
播磨に出陣中の近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に対して、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉軍の能登・加賀への侵攻に対して
北陸方面軍の総大将、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田修理亮勝家〉に参陣を命じられ
加賀へ出陣の為、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)包囲陣の〈天王寺砦〉(現大阪府大阪市天王寺区)在番を代わって、大和〈信貴山城〉(現奈良県生駒郡平群町)主〈松永弾正少弼久秀〉〈松永久通〉父子に命じられた日。更に1578年天正6年この頃、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉がキリスト教イエズス会宣教師〈フランシスコ・カブラル〉神父より洗礼を受けて〈ドン・フランシスコ〉と名乗らせた日。
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
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相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉軍と6月19日武蔵〈神流川の合戦
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織田重臣〈関東菅領=滝川左近将監一益〉は
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信濃〈小諸城〉(現長野県小諸市)へと逃亡後〈木曽福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉に〈木曽谷〉通過に差し当たり、人質に連れてきた信濃国衆の人質を引き渡して通過し、ようやく伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)に到着した日しかし〈滝川監一益〉は織田家重臣達による、亡君〈織田信長〉の後継者を決める〈清洲会議〉には間に合わなかったのだった…
更に1585年天正13年この頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、京都支配の本陣としていた洛中六条〈本圀寺〉(現京都府京都市下京区)に代わり、二条〈妙顕寺城〉(現京都府京都市中京区)を築いた日。
更に1587年天正15年この頃6月19日天下人〈関白秀吉〉による
「バテレン追放令」で、突如〈関白秀吉〉が、キリシタン大名の摂津〈高槻城〉(現大阪府高槻市)主〈高山右近〉に対して
キリスト教の信仰を捨てるよう命じられたのだった
更に1589年天正17年この頃〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河
の武田旧領地をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉軍と甲斐で対峙が長引いていた、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍に対して〈小田原城〉の隠居〈北条氏政〉が和議を持ちかけて甲斐・信濃・駿河
を徳川に、上野は北条氏が領有する事と〈北条氏直〉に〈徳川家康〉次女〈督姫〉が嫁ぐという事で和睦・同盟が成り、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を領有する北条方から寝返り、徳川方の、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉に〈徳川家康〉が〈沼田城〉を北条氏に引き渡すよう要請したが…〈真田昌幸〉が拒絶して
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方に寝返った為
〈徳川家康〉〈北条氏直〉双方に攻め寄せられるも〈第一次上田城攻防戦
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〈沼田〉領3万石3分の2を〈北条氏直〉に割譲し、3分の1を〈真田昌幸〉領に安堵して〈徳川家康〉に割譲分の3分2相当の領地、信濃伊那郡〈箕輪〉領を〈真田昌幸〉に宛行うとの裁定を下して
〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子のいづれかが至急京都に上洛し臣下の礼を執る事を命じた日。更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈石垣山一夜城〉(現神奈川県小田原市)が築城成って、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を海陸から包囲しつつ、関東各地の北条方支城を豊臣方別動隊が攻略していたが…先に〈駿河大納言=徳川家康〉に6月24日降服した、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)が〈小田原城〉に入城して兄〈北条氏政〉甥〈北条氏直〉父子を説得し〈関白秀吉〉への降伏の意志を固めた日。更に1591年天正19年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐〉後の〈奥羽仕置き〉で〈小田原〉攻めに参陣しなかった関東・奥羽の諸大名は改易となったが
「太閤検地」「刀狩令」に反発して蜂起した〈葛西・大崎一揆
〉〈仙北一揆
〉〈九戸政実の乱
〉等の討伐を〈関白秀吉〉から命じられた
出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が陸奥〈大崎佐沼城〉(現宮城県登米市)を攻撃した日更に1600年慶長5年に豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉による、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主、五大老〈会津中納言=上杉景勝〉征伐軍に従軍予定の、美濃〈岐阜城〉主〈織田秀信〉(織田信長嫡孫)が出陣に手間取り遅延していた間に〈石田治部少輔三成〉から美濃・尾張2ヶ国の恩賞の条件で西軍に勧誘され加担を決意した日。
更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉において〈石田三成〉ら西軍を討ち敗って豊臣政権の実権を掌中に納めた、豊臣家「五大老」筆頭〈内大臣=徳川家康〉に、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉重臣〈直江山城守兼続〉が送った返書「直江状
」が戦の発端となった為
五大老〈会津中納言景勝〉が〈内府家康〉に謝罪弁明の為〈若松城〉を出発し
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)へ向かった日更に1604年慶長9年に徳川幕府が、朝廷や摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉の動向を監視する為、かつて〈石田三成〉の居城〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)を廃城にして、諸大名に近江〈彦根城〉(現滋賀県彦根市)築城の普請助役を命じた日


〈彦根城〉築城は美濃・近江〈小谷城〉〈安土城〉〈佐和山城〉〈長浜城〉〈近江八幡城〉〈大津城〉の城跡の櫓や、城門・石垣・天守閣が次々と移築されてくるのであった…
よって件の如し

恐々謹言文月朔日
太閤











で〈大友宗麟〉から〈将軍義輝〉に献上されたものであった…
から脱走して美作へ逃亡し
再び〈尼子〉再興を期すのだった
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉を評して〈織田信長〉は「若輩であるが、亡き父親〈武田信玄〉の遺言を遵守していて表裏もあるので、油断大敵だと伝えた日。







