俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
夕方まで自粛生活して体育館JYM鍛練に出陣
まづは内股内転筋鍛練アダクション62㌔負荷3set計60回+尻外転筋鍛練アブダクション62㌔負荷3set計60回+脚大腿四頭筋鍛練レッグエクステンション67㌔負荷2set計24回+71㌔負荷3set計36回+腹斜筋鍛練インクラインサイドベント15㌔負荷左右
各5setづつ各計150回づつ+腹筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ5set計150回+ラスト再び脚大腿四頭筋・尻大臀筋鍛練レッグプレス208㌔負荷3set計30回鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
昨日で大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も天下人〈源頼朝=大泉洋〉が死去し
「金田一少年の事件簿」最終回だったa
今日7月4日は1541年天文10年に上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)主〈関東菅領=山内上杉憲政〉が、信濃埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城)主〈村上義清〉討伐のため〈碓氷峠〉を越えて信濃小県郡へ侵攻し
諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉が小県郡〈長窪〉へ出陣するも
同盟国たる、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)の義兄〈武田晴信=後の武田信玄〉が6月14日父親〈甲斐守護職=武田信虎〉を駿河
へ追放し家督を奪取した混乱が続き、武田軍が来援しないため
〈村上義清〉〈諏訪頼重〉が〈関東菅領=山内上杉憲政〉と和睦した日。
同じ日、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈小田原城〉内で死去した命日享年55歳
〈北条新九郎氏綱〉は父親〈伊勢新九郎盛時入道早雲庵宗瑞=後の通称北条早雲〉嫡男として誕生し
〈伊勢宗瑞〉亡き後、鎌倉幕府執権北条氏に肖るべく「伊勢」から「北条」に改姓して、武蔵から〈扇ヶ谷上杉朝興〉方を駆逐しながら〈江戸城〉(現皇居)〈河越城〉(現埼玉県川越市)を奪取し
他にも駿河
をめぐる〈花倉の乱
〉では〈栴岳承芳せんがくしょうほう=後の今川義元〉方を支援したが〈今川義元〉が甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信虎〉と同盟したことから
駿河
駿東郡・富士郡を占領した〈河東の一乱
〉は嫡男〈北条氏康〉の代まで続く事となり、房総半島からへ進出を図る〈小弓公方=足利義明〉〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子連合軍を
下総〈第一次国府台の合戦
〉で撃破し〈小弓公方義明〉を討取り
〈古河公方=足利晴氏〉に息女〈芳春院殿〉を嫁がせ
「関東菅領職」に補任され坂東武士の守護神〈鎌倉=鶴岡八幡宮〉修築や〈北条早雲〉以来の善政を施し
三代〈北条氏康〉に「勝って兜の緒を締めよ!」をはじめ、五ヶ条の教訓を遺したのだった。
更に1542年天文11年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が裏切った妹婿、信濃諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)から武田軍迎撃に出陣した〈諏訪頼重〉は〈諏訪下社=金刺党〉と、同じ諏訪一門の伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼継〉と交戦におよび
〈諏訪頼重〉は〈上原城〉より堅固な〈桑原城〉(現長野県諏訪市)に籠城したが〈諏訪大社神長官=守矢頼真〉は援軍を率いて〈桑原城〉へ出陣するも
〈武田晴信〉〈高遠頼継〉〈金刺党〉連合軍らの放火により断念し
〈武田晴信〉は〈桑原城〉を攻撃して
夕刻〈諏訪頼重〉和議を申し入れ降伏させた日で〈高遠頼継〉には〈諏訪頼重〉と〈武田晴信〉の和睦は反対であった…
更に1564年永禄7年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子を近江に追い
朝廷の〈正親町天皇おうぎまち〉からの信任も受け
室町幕府「菅領」職以上の権力を有し
畿内一円を支配していた摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉が、河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)で死去した命日享年43歳
〈三好長慶〉は〈織田信長〉よりも先んじて
家柄・身分を問わず家臣を抜擢・重用すると共に
形骸化していた古き室町幕府を否定し
将軍不在が長引き
時の〈後奈良天皇〉は「天文」から「永禄」への元号改元に伴い〈将軍義輝〉を差し置いて〈三好長慶〉に相談する程の権勢を誇り
摂津・和泉・山城・丹波・河内・大和・阿波・讃岐へと勢力を拡大支配させていたが…
嫡男〈三好義興〉が急死後
三好家一門の結束が次第に乱れ
〈三好長慶〉を失った三好総家は、養継子〈三好重存=後の三好義継〉が家督を継承したが…〈三好長慶〉という巨星を失い
重臣〈松永弾上少弼久秀〉と〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らが対立
主導権争いが続いて
三好家は衰退凋落
の一途を辿り…
やがて〈足利義昭〉を奉じて尾張・美濃・北伊勢・近江の大軍を率いて上洛して来た〈織田信長〉により、三好一族は畿内から放逐されていくのだった…
更に1565年永禄8年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉の命により
〈戸次鑑連べっきあきつら=後の立花道雪〉〈吉弘鑑理よしひろあきまさ〉軍が、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花鑑載〉を攻撃して〈立花鑑載〉は逃亡した日
更に1569年永禄12年に〈尼子勝久〉家臣〈秋上久家=秋上宗信〉率いる尼子再興軍2千が
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉に攻略された、旧領地出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)を奪還すべく攻撃を開始したが
〈富田月山城〉主〈毛利元秋〉(毛利元就五男)家臣〈天野隆重〉の謀略に乗せられ撃退され
尼子方は〈山中鹿ノ介幸盛〉〈立原久綱〉ら2千が再び〈富田月山城〉を攻めたが、またもや敗退し
安芸〈吉田郡山城〉から〈毛利元就〉〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)本軍が出陣したとの注進に
尼子再興軍が撤退した日
更に1571年元亀2年に大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉方の、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)の〈吐山氏はやま〉が〈筒井藤勝入道順慶〉方に寝返り
松永方〈簀川氏すがわ〉を討伐した日
更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
織田包囲網を画策させた〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が山城〈槙島城〉(現京都府宇治市)に籠城した為〈織田信長〉から
京都洛中〈室町幕府=二条城〉(現京都府京都市上京区)攻め中の〈明智十兵衛光秀〉に〈静原山城〉(現京都府京都市左京区)主〈山本対馬守資幹〉攻撃を命じた日。
更に1583年天正11年に3年前天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉と和睦し、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)から、紀伊〈鷺森〉へ退去した〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、和泉〈貝塚〉へ寺基地を移した日。
更に1589年天正17年に天下統一を推し進める天下人〈関白=豊臣秀吉〉は、今だ臣下の礼を取りに京都に上洛して来ない
関東・奥羽の諸大名に対して「関東奥羽惣無事令」を公布して諸大名間の私戦
禁止
を命じたが…
出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉は、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子と同盟を結んで
長年の宿敵
南陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名義広〉(佐竹義重次男)を支援する、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉〈佐竹義宣〉父子と戦い
「惣無事令」に無視して会津へ侵攻し〈摺上原の合戦
〉で〈芦名義広〉を攻め滅ぼした為、激怒した〈関白秀吉〉は
伊達氏の隣国越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、常陸〈太田城〉主〈佐竹義宣〉に〈伊達政宗〉討伐を命じた日

しかし奥羽の覇者〈独眼竜=伊達政宗〉は
相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子や〈関白秀吉〉の義弟、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈駿河大納言=徳川家康〉らと三国同盟関係にあり、一筋縄でいかず、容易ならざる戦国大名であった…
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を包囲する関白豊臣軍の別動隊を指揮して関東各地の北条方支城攻撃中だった〈加賀中納言=前田利家〉〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉へ〈小田原城〉包囲陣への参陣を命じた日
更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、朝鮮半島で苦戦中の総大将〈宇喜多秀家〉の軍監として朝鮮半島へ渡海
した軍師〈黒田官兵衛孝高〉が〈加藤主計頭清正〉と〈小西行長〉らの対立や
諸将らの暴走で采配を執れなかったことから〈太閤秀吉〉に帰国を請うた日。
更に1598年慶長3年に天下人〈太閤秀吉〉が死期を悟り
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)に〈内大臣=徳川家康〉や〈加賀大納言=前田利家〉ら諸大名を呼び寄せて〈内府家康〉に、幼い嫡男〈豊臣秀頼〉の元服まで後見人になるよう依頼した日
更に1609年慶長14年に天下人〈大御所=徳川家康〉が〈後陽成天皇ごようぜい〉の女官と公卿衆の乱行が目に余るとして
裁断した日
数年前から京の朝廷では、女官や公家衆らの不義密通(不倫
)や乱行が目立ち出して…
朝廷きっての美男=イケメンと評判だった〈左近衛少将=猪熊教利いのくまのりとし〉と宮中に仕える女官との不義密通
(不倫
)が起きて二年後、今度は〈参議=烏丸光広からすまみつひろ〉〈大炊御門頼国おおいみかどよりくに〉〈飛鳥井雅賢あすかいまさかた〉〈花山院忠長かざんいんただなが〉〈徳大寺実久〉〈中御門宗信なかみかどむねのぶ〉〈難波宗勝〉ら、七人の若い公家衆が〈後陽成天皇〉の側室である〈典侍=広橋局てんじひろはしのつぼね〉〈権典侍=中院局〉〈掌侍=水無瀬しょうじみなせ〉〈唐橋局からはしのつぼね〉〈命婦讃岐みょうぶさぬき〉ら、五人の女官らと不義密通
していた事が発覚
したのだった
この事で心痛続きの〈後陽成天皇〉が、徳川幕府〈京都所司代=板倉勝重〉を通じて、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に隠居している〈大御所=徳川家康〉に処分を委任した為
〈大御所家康〉は
公家〈烏丸光広〉と〈徳大寺実久〉を赦免とし
五人の女官達を伊豆新島へと流罪に処したのだった
不義密通
を犯した女官らを死罪としたかった〈後陽成天皇〉には
この〈大御所家康〉の裁定に強い不満を抱いたが…
この朝廷の不義密通事件を機に、朝廷は様々な問題に、徳川幕府の介入を余儀なくされる事となり…
やがて徳川幕府は「禁中並公家諸法度」として
朝廷を監視統制していく事になるのだった…
よって件の如し
恐々謹言文月四日
太閤








参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



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p(^^)q昨日で大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も天下人〈源頼朝=大泉洋〉が死去し
「金田一少年の事件簿」最終回だったa
今日7月4日は1541年天文10年に上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)主〈関東菅領=山内上杉憲政〉が、信濃埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城)主〈村上義清〉討伐のため〈碓氷峠〉を越えて信濃小県郡へ侵攻し
諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)主〈諏訪頼重〉が小県郡〈長窪〉へ出陣するも
同盟国たる、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)の義兄〈武田晴信=後の武田信玄〉が6月14日父親〈甲斐守護職=武田信虎〉を駿河
へ追放し家督を奪取した混乱が続き、武田軍が来援しないため
〈村上義清〉〈諏訪頼重〉が〈関東菅領=山内上杉憲政〉と和睦した日。同じ日、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈小田原城〉内で死去した命日享年55歳

〈北条新九郎氏綱〉は父親〈伊勢新九郎盛時入道早雲庵宗瑞=後の通称北条早雲〉嫡男として誕生し
〈伊勢宗瑞〉亡き後、鎌倉幕府執権北条氏に肖るべく「伊勢」から「北条」に改姓して、武蔵から〈扇ヶ谷上杉朝興〉方を駆逐しながら〈江戸城〉(現皇居)〈河越城〉(現埼玉県川越市)を奪取し
他にも駿河
をめぐる〈花倉の乱
〉では〈栴岳承芳せんがくしょうほう=後の今川義元〉方を支援したが〈今川義元〉が甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信虎〉と同盟したことから
駿河
駿東郡・富士郡を占領した〈河東の一乱
〉は嫡男〈北条氏康〉の代まで続く事となり、房総半島からへ進出を図る〈小弓公方=足利義明〉〈里見義尭〉〈里見義弘〉父子連合軍を
下総〈第一次国府台の合戦
〉で撃破し〈小弓公方義明〉を討取り
〈古河公方=足利晴氏〉に息女〈芳春院殿〉を嫁がせ
「関東菅領職」に補任され坂東武士の守護神〈鎌倉=鶴岡八幡宮〉修築や〈北条早雲〉以来の善政を施し
三代〈北条氏康〉に「勝って兜の緒を締めよ!」をはじめ、五ヶ条の教訓を遺したのだった。更に1542年天文11年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が裏切った妹婿、信濃諏訪郡〈上原城〉(現長野県茅野市)から武田軍迎撃に出陣した〈諏訪頼重〉は〈諏訪下社=金刺党〉と、同じ諏訪一門の伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼継〉と交戦におよび
〈諏訪頼重〉は〈上原城〉より堅固な〈桑原城〉(現長野県諏訪市)に籠城したが〈諏訪大社神長官=守矢頼真〉は援軍を率いて〈桑原城〉へ出陣するも
〈武田晴信〉〈高遠頼継〉〈金刺党〉連合軍らの放火により断念し
〈武田晴信〉は〈桑原城〉を攻撃して
夕刻〈諏訪頼重〉和議を申し入れ降伏させた日で〈高遠頼継〉には〈諏訪頼重〉と〈武田晴信〉の和睦は反対であった…更に1564年永禄7年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子を近江に追い
朝廷の〈正親町天皇おうぎまち〉からの信任も受け
室町幕府「菅領」職以上の権力を有し
畿内一円を支配していた摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉が、河内〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)で死去した命日享年43歳
〈三好長慶〉は〈織田信長〉よりも先んじて
家柄・身分を問わず家臣を抜擢・重用すると共に
形骸化していた古き室町幕府を否定し
将軍不在が長引き
時の〈後奈良天皇〉は「天文」から「永禄」への元号改元に伴い〈将軍義輝〉を差し置いて〈三好長慶〉に相談する程の権勢を誇り
摂津・和泉・山城・丹波・河内・大和・阿波・讃岐へと勢力を拡大支配させていたが…嫡男〈三好義興〉が急死後
三好家一門の結束が次第に乱れ
〈三好長慶〉を失った三好総家は、養継子〈三好重存=後の三好義継〉が家督を継承したが…〈三好長慶〉という巨星を失い
重臣〈松永弾上少弼久秀〉と〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らが対立
主導権争いが続いて
三好家は衰退凋落
の一途を辿り…やがて〈足利義昭〉を奉じて尾張・美濃・北伊勢・近江の大軍を率いて上洛して来た〈織田信長〉により、三好一族は畿内から放逐されていくのだった…
更に1565年永禄8年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉の命により
〈戸次鑑連べっきあきつら=後の立花道雪〉〈吉弘鑑理よしひろあきまさ〉軍が、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花鑑載〉を攻撃して〈立花鑑載〉は逃亡した日
更に1569年永禄12年に〈尼子勝久〉家臣〈秋上久家=秋上宗信〉率いる尼子再興軍2千が
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉に攻略された、旧領地出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)を奪還すべく攻撃を開始したが
〈富田月山城〉主〈毛利元秋〉(毛利元就五男)家臣〈天野隆重〉の謀略に乗せられ撃退され
尼子方は〈山中鹿ノ介幸盛〉〈立原久綱〉ら2千が再び〈富田月山城〉を攻めたが、またもや敗退し
安芸〈吉田郡山城〉から〈毛利元就〉〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)本軍が出陣したとの注進に
尼子再興軍が撤退した日
更に1571年元亀2年に大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉方の、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)の〈吐山氏はやま〉が〈筒井藤勝入道順慶〉方に寝返り
松永方〈簀川氏すがわ〉を討伐した日
更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
織田包囲網を画策させた〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が山城〈槙島城〉(現京都府宇治市)に籠城した為〈織田信長〉から
京都洛中〈室町幕府=二条城〉(現京都府京都市上京区)攻め中の〈明智十兵衛光秀〉に〈静原山城〉(現京都府京都市左京区)主〈山本対馬守資幹〉攻撃を命じた日。更に1583年天正11年に3年前天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉と和睦し、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)から、紀伊〈鷺森〉へ退去した〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、和泉〈貝塚〉へ寺基地を移した日。更に1589年天正17年に天下統一を推し進める天下人〈関白=豊臣秀吉〉は、今だ臣下の礼を取りに京都に上洛して来ない
関東・奥羽の諸大名に対して「関東奥羽惣無事令」を公布して諸大名間の私戦
禁止
を命じたが…出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉は、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉〈北条氏直〉父子と同盟を結んで
長年の宿敵
南陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名義広〉(佐竹義重次男)を支援する、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉〈佐竹義宣〉父子と戦い
「惣無事令」に無視して会津へ侵攻し〈摺上原の合戦
〉で〈芦名義広〉を攻め滅ぼした為、激怒した〈関白秀吉〉は
伊達氏の隣国越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉と、常陸〈太田城〉主〈佐竹義宣〉に〈伊達政宗〉討伐を命じた日

しかし奥羽の覇者〈独眼竜=伊達政宗〉は
相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子や〈関白秀吉〉の義弟、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈駿河大納言=徳川家康〉らと三国同盟関係にあり、一筋縄でいかず、容易ならざる戦国大名であった…更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を包囲する関白豊臣軍の別動隊を指揮して関東各地の北条方支城攻撃中だった〈加賀中納言=前田利家〉〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉へ〈小田原城〉包囲陣への参陣を命じた日更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で、朝鮮半島で苦戦中の総大将〈宇喜多秀家〉の軍監として朝鮮半島へ渡海
した軍師〈黒田官兵衛孝高〉が〈加藤主計頭清正〉と〈小西行長〉らの対立や
諸将らの暴走で采配を執れなかったことから〈太閤秀吉〉に帰国を請うた日。更に1598年慶長3年に天下人〈太閤秀吉〉が死期を悟り
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)に〈内大臣=徳川家康〉や〈加賀大納言=前田利家〉ら諸大名を呼び寄せて〈内府家康〉に、幼い嫡男〈豊臣秀頼〉の元服まで後見人になるよう依頼した日更に1609年慶長14年に天下人〈大御所=徳川家康〉が〈後陽成天皇ごようぜい〉の女官と公卿衆の乱行が目に余るとして
裁断した日
数年前から京の朝廷では、女官や公家衆らの不義密通(不倫
)や乱行が目立ち出して…
朝廷きっての美男=イケメンと評判だった〈左近衛少将=猪熊教利いのくまのりとし〉と宮中に仕える女官との不義密通
(不倫
)が起きて二年後、今度は〈参議=烏丸光広からすまみつひろ〉〈大炊御門頼国おおいみかどよりくに〉〈飛鳥井雅賢あすかいまさかた〉〈花山院忠長かざんいんただなが〉〈徳大寺実久〉〈中御門宗信なかみかどむねのぶ〉〈難波宗勝〉ら、七人の若い公家衆が〈後陽成天皇〉の側室である〈典侍=広橋局てんじひろはしのつぼね〉〈権典侍=中院局〉〈掌侍=水無瀬しょうじみなせ〉〈唐橋局からはしのつぼね〉〈命婦讃岐みょうぶさぬき〉ら、五人の女官らと不義密通
していた事が発覚
したのだった
この事で心痛続きの〈後陽成天皇〉が、徳川幕府〈京都所司代=板倉勝重〉を通じて、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に隠居している〈大御所=徳川家康〉に処分を委任した為
〈大御所家康〉は
公家〈烏丸光広〉と〈徳大寺実久〉を赦免とし
五人の女官達を伊豆新島へと流罪に処したのだった
不義密通
を犯した女官らを死罪としたかった〈後陽成天皇〉には
この〈大御所家康〉の裁定に強い不満を抱いたが…この朝廷の不義密通事件を機に、朝廷は様々な問題に、徳川幕府の介入を余儀なくされる事となり…
やがて徳川幕府は「禁中並公家諸法度」として
朝廷を監視統制していく事になるのだった…よって件の如し

恐々謹言文月四日
太閤








朝から「仮面ライダーリバイス」→「ワンピース」観て「暴太郎戦隊ドンブラザース」は録画しといて夜には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」→「オールドルーキー」→最終回「金田一少年の事件簿」と最初から最後までクライマックスだぜィ
」を乱発して
近江〈今堅田〉(現滋賀県大津市)を攻め









仕り申したぜィ
難破した南蛮船が
や、遠い〈西南蛮=ヨーロッパ〉や世界観を教えて


