俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も残業だったから
鍛練断念
尻鍛練で筋肉痛クライマックスだぜィ
今日4月8日は1542年天文11年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が京都洛中北小路室町の旧跡地に〈室町第=花の御所〉再建竣工し「撰銭令」が公布した日で「永楽銭」等の撰銭が禁止された日。
更に1552年天文21年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉息女〈嶺松院れいしょういん〉が「駿甲同盟」重要視にもとづいて、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉長男〈武田太郎義信〉に嫁ぐため、今川=武田両家の間に入輿の誓詞が取り交わされた日。
更に1561年永禄4年に三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、前年〈桶狭間の合戦
〉で駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉を討ち取った尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と2月に和睦したことで
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉は
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)等今川氏の支城に収容されていた、松平家家臣の人質を処刑した日
その為〈松平元康〉は矛先を〈今川氏真〉に転じて
今川方三河諸城に攻撃を開始したのだった
更に1564年永禄7年に三河〈岡崎城〉主〈松平元康=後の徳川家康〉が〈日亮〉(鵜殿弾正長成次男)を介して、遠江〈曳馬城ひくま〉(現静岡県浜松市)主〈飯尾豊前守連竜〉と〈常霊山=本興寺〉(現静岡県湖西市)で会見した日。
更に1568年永禄11年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花鑑載たちばなあきとし〉が〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉〈豊満山城〉(現福岡県太宰府市)主〈高橋鑑種〉らと結んで毛利方に内応して、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉に反旗を翻したことで
〈大友宗麟〉は筑後出兵中の〈戸次鑑連べっきあきつら=後の立花道雪〉〈臼杵鑑速うすきあきはや〉〈吉弘鑑理よしひろあきまさ〉〈志賀道輝=志賀親守〉らに〈立花山城〉攻略を命じ
一方〈毛利元就〉も〈清水左近将監〉に8千余の軍勢と兵船百艚
を筑前〈立花山城〉救援に派兵し
毛利軍が〈立花山城〉に入城した日
更に1569年永禄12年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉方の、大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉〈松永久通〉父子、河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)主〈三好義継〉(三好長慶養継子)〈畠山高政〉らが、摂津・河内・和泉衆の軍勢を率いて
〈片岡城〉(現)攻めに出陣した日
同じ日、キリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉が、天下統一を推し進める〈織田信長〉から、京都洛中の居住と、キリスト教布教活動を許認可された日
宣教師〈ルイス・フロイス〉は、3月半ばに〈織田信長〉に拝謁を求めて、鏡・時計・孔雀(くじゃく)の尾羽・ビロードの
帽子等を手土産
に持参献上したが、その折りは生憎〈織田信長〉には逢えなかったのだった…
しかし〈織田信長〉への献上品
の品々の内で
〈織田信長〉は、ビロードの
帽子に興味を示して
帽子のみを受け取ってもらえたのだった
〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らの襲撃を受けた〈本圀寺の変
〉で、京都洛中に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の御座所の必要性に迫られ、洛中〈二条城=二条御所〉(現京都府京都市上京区)を築城を開始し、工事現場で指揮していた美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉に、キリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉が2度目の訪問で対面を許され、京都洛中の居住と朝廷が下した「伴天連追放令」を事実上無効と成し
キリスト教布教を許認可した日その後4月3日〈織田信長〉は、自ら擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の居城となる、京都洛中〈二条城〉(現京都市上京区)の新城築城中の建築現場での初対面を許認可し
そこで〈ルイス・フロイス〉に〈西南蛮=ヨーロッパ〉や〈天竺てんじく=インド〉と、日本との距離・来日の意図や、キリスト教布教の覚悟等を尋ねて
2時間にも及んで立ち話しをしたが
その建築現場で、ある人足の男が、通行人の女人をからかっていたところ…
それに気づいた〈織田信長〉が
いきなり走り寄って
その場で、人夫を斬殺
したのだった…
そして〈ルイス・フロイス〉は、仏教の僧侶と、京都での「宗論」(宗門対決)と、キリスト教の布教活動の許可を願い出て8日許認可され20日〈織田信長〉を前にして「日蓮宗」の〈朝山日乗あさやまにちじょう〉との「宗論」の激論を闘わせたが
キリスト教宣教師〈ルイス・フロイス〉に論破されてしまったのだった

そして敗れた日蓮宗僧侶〈朝山日乗〉は
〈織田信長〉からの庇護を失う事となったのだった…
更に1573年天正元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉は〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の画策により、織田包囲網に苦しめられ
〈織田信長〉は、朝廷に奏上して〈正親町天皇おうぎまち〉の「勅命ちょくめい」により〈将軍義昭〉や反織田包囲網の反対勢力と前日、京都洛中〈二条城〉で会見し和睦したが、近江〈百済寺くだらでら〉(現滋賀県)と呼応する、江南甲賀郡に潜んでいた〈六角義弼=六角義治〉の籠城する〈鯰江城なまづえ〉(現滋賀県)を攻撃すべく
重臣〈佐久間信盛〉〈柴田権六勝家〉〈丹羽五郎左衛門長秀〉〈蒲生賢秀〉らを派兵した日
更に1575年天正3年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が河内〈駒ヶ谷山〉に布陣して
〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈三好康長〉を攻撃
〈道明寺〉付近一帯に布陣する
〈佐久間信盛〉〈柴田勝家〉〈丹羽長秀〉〈塙(原田)直政〉らに放火させた上で近隣の田畑を薙ぎ取らせた日
更に1579年天正7年に近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉が播磨へ〈越前府中三人衆=槍の又左=前田利家・佐々内蔵助成政・不破光治〉〈金森長近〉〈原彦次郎政茂〉〈織田信澄〉〈堀久太郎秀政〉らを播磨に派兵した日
更に1580年天正8年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈御館の乱
〉で越後奥郡の亡き〈上杉景虎〉(北条氏康七男)残党討伐にしたとの報告を受けた「甲越同盟」を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が義弟〈上杉景勝〉に慎重に事を運ぶように求めた日。
更に1581年天正9年に越後〈春日山城〉主〈上杉謙信〉〈上杉景勝〉二代に仕えた重臣、越中〈松倉城〉(現富山県魚津市)将〈河田長親〉が急死した日
〈河田長親〉の急死で、天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉から北陸平定を命じられた
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる織田軍の越中侵攻に拍車が掛かるのだった…
更に1582年天正10年3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉が常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉庇護下の〈太田資正入道三楽斎〉〈梶原政景〉父子に織田方への直参臣従することを賞して、上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)に派遣された〈滝川左近将監一益〉に従い天下のために忠節を尽くすべきことを命じ
〈天徳寺=大円坊〉より伝達し
過日黒葦毛馬
を贈呈してきた信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)上野〈岩櫃城いわびつ〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)主〈真田安房守昌幸〉にも〈滝川一益〉に従い奔走するよう命じた日。
同じ日、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍が、武田方の駿河
〈庵原館〉(現静岡県静岡市清水区)に〈朝比奈駿河守信置入道賢雪道与〉が攻められ自害した日
享年55歳
更に1583年天正11年に山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が北近江〈柳ヶ瀬〉一帯に布陣する
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる〈槍の又左=前田利家〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉ら北国軍の背後を脅かすよう
〈本願寺坊官=下間頼廉〉に〈加賀一向一揆衆〉の蜂起を要請し、作戦成功の場合には加賀を安堵する旨を伝えた日。
更に1584年天正12年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じて信濃・甲斐・駿河
上野の武田旧領をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉が、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)から脱出し
更級郡〈荒砥城〉(現長野県千曲市)へ逃れた〈屋代秀正〉を攻撃し
〈屋代秀政〉は更に〈佐野山城〉(現長野県更埴市)に逃げ込み
〈猿ヶ馬場峠〉経由で〈麻績〉方面に逃走した日
同じ日〈小牧・長久手戦役
〉で〈三好信吉=後の関白豊臣秀次〉を総大将とする〈池田恒興入道勝入斎〉〈森長可〉〈堀久太郎秀政〉らの三河への中入れ奇襲別動隊を追撃して、尾張〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)を〈徳川家康〉が出陣した後
〈酒井忠次〉〈松平家忠〉〈本多平八郎忠勝〉〈石川数正〉らが〈小牧山城〉本陣を守備した日。
更に1588年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈島津義久〉の無条件降伏後、論功行賞で豊前を拝領した軍師〈黒田官兵衛孝高〉が下毛郡〈長岩城〉(現大分県中津市)主〈野中鎮兼〉を攻略した日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉からの参陣要請を受けと〈小田原城〉に入城した、下野〈長沼城〉(現栃木県)主〈皆川広照〉が〈
酒匂川
〉を背に布陣する〈徳川家康〉の〈今井〉本陣に投降した日。
更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で〈明国〉軍の参戦と〈朝鮮〉の義勇軍の武力蜂起や民衆の一揆
に苦戦を強いられた
日本側は〈こにしゆきなが〉〈加藤主計頭清正〉と〈漢城ソウル〉において和議交渉がもたれ〈加藤清正〉が捕らえた〈朝鮮のニ王子〉と陪臣
は〈朝鮮〉に引渡し〈釜山=プサン〉浦
まで撤退し〈開城〉を守備する〈明〉軍は日本軍の撤退後〈漢城ソウル〉から撤退する事〈明皇帝〉から和議使節団の日本に派遣する事、で合意した日。
更に1607年慶長12年に〈徳川家康〉の次男、越前〈福井城〉(現福井県福井市)主〈結城秀康〉が死去した命日
享年34歳
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主時代に、正室〈築山御前=瀬名〉の侍女であった〈万〉との間になした次男で
〈結城秀康〉は文武両道に秀でたが…〈小牧長久手の合戦
〉後の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉との和睦の証として〈徳川家康〉が〈関白=豊臣秀吉〉の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に、人質として差し出されたのだった
その為〈義伊ぎい=後の結城秀康〉は〈徳川家康〉の次男にも関わらず、徳川家嫡男にはなれず
嫡男は、三男〈徳川秀忠〉に定められて
後に再び、下野の名門〈結城晴朝〉の養子として出されるという
不遇の人生を辿るのだった…
しかし〈結城秀康〉は、徳川一門として、父〈大御所=徳川家康〉の意向を踏まえて
〈二代将軍=徳川秀忠〉を良く支えて
かつて〈柴田勝家〉が築き上げた、越前〈北の庄〉の地を〈北の庄城〉が落城した経緯を不吉として
「福井」と改名して、商工業を奨励して名君となったのであった…
よって件の如し
恐々謹言卯月八日
太閤

参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日も残業だったから
鍛練断念
尻鍛練で筋肉痛クライマックスだぜィ
今日4月8日は1542年天文11年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が京都洛中北小路室町の旧跡地に〈室町第=花の御所〉再建竣工し「撰銭令」が公布した日で「永楽銭」等の撰銭が禁止された日。
更に1552年天文21年に駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉息女〈嶺松院れいしょういん〉が「駿甲同盟」重要視にもとづいて、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉長男〈武田太郎義信〉に嫁ぐため、今川=武田両家の間に入輿の誓詞が取り交わされた日。更に1561年永禄4年に三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、前年〈桶狭間の合戦
〉で駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉を討ち取った尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と2月に和睦したことで
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉は
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)等今川氏の支城に収容されていた、松平家家臣の人質を処刑した日
その為〈松平元康〉は矛先を〈今川氏真〉に転じて
今川方三河諸城に攻撃を開始したのだった
更に1564年永禄7年に三河〈岡崎城〉主〈松平元康=後の徳川家康〉が〈日亮〉(鵜殿弾正長成次男)を介して、遠江〈曳馬城ひくま〉(現静岡県浜松市)主〈飯尾豊前守連竜〉と〈常霊山=本興寺〉(現静岡県湖西市)で会見した日。
更に1568年永禄11年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花鑑載たちばなあきとし〉が〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉〈豊満山城〉(現福岡県太宰府市)主〈高橋鑑種〉らと結んで毛利方に内応して、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉に反旗を翻したことで
〈大友宗麟〉は筑後出兵中の〈戸次鑑連べっきあきつら=後の立花道雪〉〈臼杵鑑速うすきあきはや〉〈吉弘鑑理よしひろあきまさ〉〈志賀道輝=志賀親守〉らに〈立花山城〉攻略を命じ
一方〈毛利元就〉も〈清水左近将監〉に8千余の軍勢と兵船百艚
を筑前〈立花山城〉救援に派兵し
毛利軍が〈立花山城〉に入城した日
更に1569年永禄12年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉方の、大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉〈松永久通〉父子、河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)主〈三好義継〉(三好長慶養継子)〈畠山高政〉らが、摂津・河内・和泉衆の軍勢を率いて
〈片岡城〉(現)攻めに出陣した日
同じ日、キリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉が、天下統一を推し進める〈織田信長〉から、京都洛中の居住と、キリスト教布教活動を許認可された日

宣教師〈ルイス・フロイス〉は、3月半ばに〈織田信長〉に拝謁を求めて、鏡・時計・孔雀(くじゃく)の尾羽・ビロードの
帽子等を手土産
に持参献上したが、その折りは生憎〈織田信長〉には逢えなかったのだった…しかし〈織田信長〉への献上品
の品々の内で
〈織田信長〉は、ビロードの
帽子に興味を示して
帽子のみを受け取ってもらえたのだった
〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らの襲撃を受けた〈本圀寺の変
〉で、京都洛中に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の御座所の必要性に迫られ、洛中〈二条城=二条御所〉(現京都府京都市上京区)を築城を開始し、工事現場で指揮していた美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉に、キリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉が2度目の訪問で対面を許され、京都洛中の居住と朝廷が下した「伴天連追放令」を事実上無効と成し
キリスト教布教を許認可した日その後4月3日〈織田信長〉は、自ら擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の居城となる、京都洛中〈二条城〉(現京都市上京区)の新城築城中の建築現場での初対面を許認可し
そこで〈ルイス・フロイス〉に〈西南蛮=ヨーロッパ〉や〈天竺てんじく=インド〉と、日本との距離・来日の意図や、キリスト教布教の覚悟等を尋ねて
2時間にも及んで立ち話しをしたが
その建築現場で、ある人足の男が、通行人の女人をからかっていたところ…
それに気づいた〈織田信長〉が
いきなり走り寄って
その場で、人夫を斬殺
したのだった…
そして〈ルイス・フロイス〉は、仏教の僧侶と、京都での「宗論」(宗門対決)と、キリスト教の布教活動の許可を願い出て8日許認可され20日〈織田信長〉を前にして「日蓮宗」の〈朝山日乗あさやまにちじょう〉との「宗論」の激論を闘わせたが
キリスト教宣教師〈ルイス・フロイス〉に論破されてしまったのだった

そして敗れた日蓮宗僧侶〈朝山日乗〉は
〈織田信長〉からの庇護を失う事となったのだった…更に1573年天正元年に天下統一を推し進める〈織田信長〉は〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の画策により、織田包囲網に苦しめられ
〈織田信長〉は、朝廷に奏上して〈正親町天皇おうぎまち〉の「勅命ちょくめい」により〈将軍義昭〉や反織田包囲網の反対勢力と前日、京都洛中〈二条城〉で会見し和睦したが、近江〈百済寺くだらでら〉(現滋賀県)と呼応する、江南甲賀郡に潜んでいた〈六角義弼=六角義治〉の籠城する〈鯰江城なまづえ〉(現滋賀県)を攻撃すべく
重臣〈佐久間信盛〉〈柴田権六勝家〉〈丹羽五郎左衛門長秀〉〈蒲生賢秀〉らを派兵した日
更に1575年天正3年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が河内〈駒ヶ谷山〉に布陣して
〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈三好康長〉を攻撃
〈道明寺〉付近一帯に布陣する
〈佐久間信盛〉〈柴田勝家〉〈丹羽長秀〉〈塙(原田)直政〉らに放火させた上で近隣の田畑を薙ぎ取らせた日更に1579年天正7年に近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉が播磨へ〈越前府中三人衆=槍の又左=前田利家・佐々内蔵助成政・不破光治〉〈金森長近〉〈原彦次郎政茂〉〈織田信澄〉〈堀久太郎秀政〉らを播磨に派兵した日

更に1580年天正8年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈御館の乱
〉で越後奥郡の亡き〈上杉景虎〉(北条氏康七男)残党討伐にしたとの報告を受けた「甲越同盟」を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が義弟〈上杉景勝〉に慎重に事を運ぶように求めた日。更に1581年天正9年に越後〈春日山城〉主〈上杉謙信〉〈上杉景勝〉二代に仕えた重臣、越中〈松倉城〉(現富山県魚津市)将〈河田長親〉が急死した日
〈河田長親〉の急死で、天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉から北陸平定を命じられた
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる織田軍の越中侵攻に拍車が掛かるのだった…更に1582年天正10年3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉が常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉庇護下の〈太田資正入道三楽斎〉〈梶原政景〉父子に織田方への直参臣従することを賞して、上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)に派遣された〈滝川左近将監一益〉に従い天下のために忠節を尽くすべきことを命じ
〈天徳寺=大円坊〉より伝達し
過日黒葦毛馬
を贈呈してきた信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)上野〈岩櫃城いわびつ〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)主〈真田安房守昌幸〉にも〈滝川一益〉に従い奔走するよう命じた日。同じ日、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍が、武田方の駿河
〈庵原館〉(現静岡県静岡市清水区)に〈朝比奈駿河守信置入道賢雪道与〉が攻められ自害した日
享年55歳
更に1583年天正11年に山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が北近江〈柳ヶ瀬〉一帯に布陣する
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる〈槍の又左=前田利家〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉ら北国軍の背後を脅かすよう
〈本願寺坊官=下間頼廉〉に〈加賀一向一揆衆〉の蜂起を要請し、作戦成功の場合には加賀を安堵する旨を伝えた日。更に1584年天正12年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じて信濃・甲斐・駿河
上野の武田旧領をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉が、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)から脱出し
更級郡〈荒砥城〉(現長野県千曲市)へ逃れた〈屋代秀正〉を攻撃し
〈屋代秀政〉は更に〈佐野山城〉(現長野県更埴市)に逃げ込み
〈猿ヶ馬場峠〉経由で〈麻績〉方面に逃走した日同じ日〈小牧・長久手戦役
〉で〈三好信吉=後の関白豊臣秀次〉を総大将とする〈池田恒興入道勝入斎〉〈森長可〉〈堀久太郎秀政〉らの三河への中入れ奇襲別動隊を追撃して、尾張〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)を〈徳川家康〉が出陣した後
〈酒井忠次〉〈松平家忠〉〈本多平八郎忠勝〉〈石川数正〉らが〈小牧山城〉本陣を守備した日。更に1588年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈島津義久〉の無条件降伏後、論功行賞で豊前を拝領した軍師〈黒田官兵衛孝高〉が下毛郡〈長岩城〉(現大分県中津市)主〈野中鎮兼〉を攻略した日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉からの参陣要請を受けと〈小田原城〉に入城した、下野〈長沼城〉(現栃木県)主〈皆川広照〉が〈
酒匂川
〉を背に布陣する〈徳川家康〉の〈今井〉本陣に投降した日。更に1593年文禄2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉で〈明国〉軍の参戦と〈朝鮮〉の義勇軍の武力蜂起や民衆の一揆
に苦戦を強いられた
日本側は〈こにしゆきなが〉〈加藤主計頭清正〉と〈漢城ソウル〉において和議交渉がもたれ〈加藤清正〉が捕らえた〈朝鮮のニ王子〉と陪臣は〈朝鮮〉に引渡し〈釜山=プサン〉浦
まで撤退し〈開城〉を守備する〈明〉軍は日本軍の撤退後〈漢城ソウル〉から撤退する事〈明皇帝〉から和議使節団の日本に派遣する事、で合意した日。更に1607年慶長12年に〈徳川家康〉の次男、越前〈福井城〉(現福井県福井市)主〈結城秀康〉が死去した命日
享年34歳
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主時代に、正室〈築山御前=瀬名〉の侍女であった〈万〉との間になした次男で
〈結城秀康〉は文武両道に秀でたが…〈小牧長久手の合戦
〉後の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉との和睦の証として〈徳川家康〉が〈関白=豊臣秀吉〉の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に、人質として差し出されたのだったその為〈義伊ぎい=後の結城秀康〉は〈徳川家康〉の次男にも関わらず、徳川家嫡男にはなれず
嫡男は、三男〈徳川秀忠〉に定められて
後に再び、下野の名門〈結城晴朝〉の養子として出されるという
不遇の人生を辿るのだった…しかし〈結城秀康〉は、徳川一門として、父〈大御所=徳川家康〉の意向を踏まえて
〈二代将軍=徳川秀忠〉を良く支えて
かつて〈柴田勝家〉が築き上げた、越前〈北の庄〉の地を〈北の庄城〉が落城した経緯を不吉として
「福井」と改名して、商工業を奨励して名君となったのであった…よって件の如し

恐々謹言卯月八日
太閤


絵画・織物等13点の品々を贈ったことで〈大内義隆〉に大変喜ばれ
手紙に「日本へ来る神父は、寒さに耐え得る体力だけでなく、無数の質問に答えられる学識も必要である。特に日本人は、天体の運行や日食・月の満ち欠けの理由を熱心に聞く。雨水や雪・彗星・雷鳴・稲妻等の自然現象を説明すると、人々の心を引き付ける」と書き送り〈ザビエル〉神父は日本でのキリスト教布教に
遠江侵攻にあわせて〈蟹渕〉刑場で獄門に処され
の為という口実を設けて
