俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は新型コロナデルタミクロン株変換を警戒して自粛
夕方から体育館JYM鍛練に出陣
まづは肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右
各3setづつ各計60回づつ+35㌔負荷左右
各2setづつ各計24回づつ+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷5set計60回+上腕二頭筋鍛練ケーブルアームカール50㌔負荷1set計40回+60㌔負荷1set計20回+70㌔負荷1set計10回+80㌔負荷2set計11回+40㌔負荷1set計50回+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷3set計60回+16㌔負荷2set計20回+脚大腿四頭筋鍛練レッグエクステンション67㌔負荷5set計60回+大腿二頭筋ハムストリング鍛練レッグカール33㌔負荷5set計50回+ラスト腹直筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ5set計150回鍛練仕り申したぜィ
今日4月11日は1543年天文12年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉孝景〉弟〈朝倉景高〉が若狭から、次いで摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)を退去して西国へ落ちて没落した日。
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼重〉攻めのため
出陣した日
更に1561年永禄4年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が「甲相駿三国同盟」にもとづいて、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉の要請を受けて、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉政虎=後の上杉謙信〉牽制のために〈碓氷峠〉を越えて、上野〈松井田〉(現群馬県安中市)に進行して近隣を放火した日。
同じ日、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)方の三河〈牛久保城〉(現愛知県豊川市)の〈稲垣林四郎氏連〉〈牧野弥次右兵衛尉〉〈牧野平左衛門尉〉らを調略し今川氏支配からの独立が始まった日。
更に1562年永禄5年に河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈畠山高政〉が、摂津〈飯盛山城〉(現大阪府高槻市)周辺を攻略し終えた日
更に1567年永禄10年に、大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上少弼久秀まつながだんじょうしょうひつひさひで〉と、一度は袂を分かっていた、三好本宗家当主〈三好義継〉(三好長慶養継子)が、大和〈信貴山城〉(奈良市生駒郡平群町)から〈多聞山城〉へと移った日。
〈三好義継〉〈松永久通〉(松永久秀嫡男)主従は〈三好宗渭・三好長逸〉らと共に「剣豪将軍」と恐れられた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉を京都洛中〈室町第〉に襲撃して、弑虐に及び
室町幕府の存続を否定していたが…〈三好三人衆=三好宗渭・三好長逸・岩成友通〉が、四国阿波から〈足利義栄〉を擁立して〈室町幕府第14代将軍〉職に据えたことで対立を深め
亡き〈三好長慶〉の腹臣であった、敵対していた〈松永久秀〉と再び同盟し
〈三好三人衆〉と対立していくのであった…
更に1573年元亀4年に美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉が、近江〈鯰江城なまずえ〉(現滋賀県東近江市)に籠城中の〈六角義弼=六角義治〉(六角義賢入道承禎嫡男)を支援していた〈百済寺くだらでら〉を焼討ちして
〈岐阜城〉へ帰還した日
更に1578年天正6年この頃、天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉の命により
〈明智十兵衛光秀〉〈細川藤孝〉が丹後へ侵攻して
〈一色義定〉が〈弓木城〉(現京都府与謝野町)へ退去した為、播磨で反旗を翻した〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉討伐のため〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に助勢するよう〈前右大臣信長〉の命で〈明智光秀〉〈細川藤孝〉は播磨へ転戦したのだった
更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした〈前右大臣信長〉が、甲斐〈右左口峠〉(現山梨県東八代郡中道町)から〈本栖湖
〉へ出立し
駿河
を拝領した、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川三河守家康〉家臣〈松平家忠〉ら三河衆が〈前右大臣信長〉軍本隊を警固して、道々に茶屋を建て接待した日。
更に1584年天正12年に尾張〈楽田城〉(現愛知県犬山市)の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈長久手の合戦
〉で討死した〈池田恒興入道勝入斎〉〈池田元助〉父子討死を母親〈養徳院〉(織田信長乳母)に伝え慰労した日。
更に1586年天正14年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈関白=豊臣秀吉〉からの申し入れで、他家に嫁いでいた〈関白秀吉〉の実妹〈朝日姫〉を、亡き〈織田信長〉の命により〈築山御前=瀬名〉を殺害して以降、正室の居ない〈徳川家康〉に正室として〈朝日姫〉の輿入れを申し入れていたが…〈徳川家康〉が承知した日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による「関東奥羽惣無事令」に違反して、信濃〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方の、上野〈名胡桃城なぐるみじょう〉(現群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を討伐すべく
〈関白秀吉〉は25万の大軍で難攻不落の〈小田原城〉を包囲した〈小田原征伐
〉で〈関白秀吉〉の茶匠〈千利休〉の門弟〈山上宗二やまのうえのそうじ〉が〈北条氏直〉の茶匠となっといた事に〈関白秀吉〉の怒りをかって
〈山上宗二〉が捕らえられ、鮟鱇(あんこう)の吊るし切りの如く
耳
鼻を削ぎ落とされ処刑された日
この〈山上宗二〉の斬殺により〈関白秀吉〉と〈千利休〉の関係性は悪化し〈千利休〉の最大の理解者である〈関白秀吉〉の舎弟〈大和大納言=豊臣秀長〉の死去により、事態は更に悪化していくのであった…
更に1592年天正20年に天下人〈関白秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈関白秀吉〉本隊が
築城途上の安芸〈広島城〉(現広島県広島市)に入城し
〈広島城〉を巡覧し
〈関白秀吉〉が〈施薬院全宗〉〈安国寺恵瓊〉から嫡男の居ない〈毛利輝元〉の跡継ぎに養嗣子〈毛利秀元〉を承認し
今後〈毛利輝元〉に実子誕生の際には〈毛利秀元〉を分封とする事とした日。
更に1597年慶長2年に山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)内〈内大臣=徳川家康〉の徳川屋敷内で〈徳川秀忠〉(徳川家康三男)正室〈お江=於江与〉に長女〈千姫〉(後の豊臣秀頼正室)が誕生した日
更に1602年慶長7年に、二年前天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、西軍〈石田三成〉方となり敗戦をきした、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津維新入道義弘〉は、美濃〈関ヶ原〉の戦場
で、東軍総大将〈内大臣=徳川家康〉本陣への突撃を敢行して
徳川本陣正面を「適中突破」して
伊勢路から戦場を離脱して
和泉〈堺〉湊(現大阪府堺市)から海路
薩摩へと帰国したのだった
そのため大勝利を納めた〈内府家康〉は、戦後処理として
捕縛した〈石田三成〉〈小西行長〉〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉ら、三人の西軍諸将を京都〈
鴨川
六条河原〉で斬首し
その後、豊臣家五大老で西軍総大将となった〈安芸中納言=毛利輝元〉や、同じく五大老〈会津中納言=上杉景勝〉らの領地を大幅削減転封を断行したのだった。
そして〈内府家康〉は
かつて天下人〈関白=豊臣秀吉〉に抵抗し〈島津征伐
〉で敗戦後、隠居していた〈島津維新入道義弘〉の兄で隠居〈島津龍伯斎入道義久〉に対して〈関ヶ原〉から逃げ帰った弟〈島津維新入道義弘〉の身柄引渡しを要求したが
〈島津龍伯斎入道義久〉は「弟義弘は薩摩〈桜島〉に蟄居謹慎させており
亡き〈太閤殿下(豊臣秀吉)〉の遺児〈豊臣秀頼〉への忠節を尽くす誓書を出して、出陣して行ったとばかり思っていたもので…まさか合戦
に及ぶとは思わぬ仕儀
〈内府家康〉に対する恩義は、決して忘れてはいない
」と返答して
「只今は〈朝鮮出兵〉で、上方に上る資金が無く
資金が出来次第、上洛する」と弁明の返書を〈内府家康〉に書き送ってきたのだった。
しかし〈内府家康〉は〈関ヶ原の合戦
〉で多額の軍資金を遣い
財政困難で
遠い九州の果て薩摩まで遠征するゆとりは無かった為
引き続き、家臣〈井伊直政〉や〈黒田長政〉〈寺沢広高〉らを通じて〈島津龍伯斎入道義久〉に謝罪・臣従と京都〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)へ上洛を要求していたが…
〈内府家康〉は、亡き〈太閤秀吉〉の二度にわたる〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉により、朝鮮国・明国との国交断絶となっていた為
国交回復の為には、明国と交易し「朝貢国ちょうこうこく」である〈琉球りゅうきゅう=沖縄県〉を通じて仲介を依頼するより他に無く
〈琉球〉と好の有る島津氏の協力が必要不可欠であった為
〈内府家康〉は〈関ヶ原〉の戦後処理が一段落すると
〈関ヶ原〉で敵中突破を敢行した〈島津維新入道義弘〉の罪を問わない事と
〈島津龍伯斎入道義久〉に、薩摩・大隅二ヵ国56万石の所領地を安渡して〈島津維新入道義弘〉の子〈島津家久〉に、島津家当主家督相続を許認可した日

〈島津龍伯斎入道義久〉は、天下人〈関白秀吉〉に敢然と抵抗して〈島津征伐
〉を受け〈関ヶ原の合戦
〉で、弟〈島津維新入道義弘〉が〈内府家康〉と戦い、敗れながらも「敵中突破」を敢行して
「薩摩勇人」の勇猛さを天下に轟かせたにも関わらず、領地を失うこともなく
領国を護り通したのであった…
「薩摩に暗君なし」と云われ
島津家には、優れた当主が輩出され続け、幕末には〈島津斉昭〉〈島津久光〉が当主となり、徳川幕府を倒幕していく事になるのである…
よって件の如し
恐々謹言卯月十一日
太閤




参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日は新型コロナデルタミクロン株変換を警戒して自粛
夕方から体育館JYM鍛練に出陣
まづは肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右
各3setづつ各計60回づつ+35㌔負荷左右
各2setづつ各計24回づつ+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷5set計60回+上腕二頭筋鍛練ケーブルアームカール50㌔負荷1set計40回+60㌔負荷1set計20回+70㌔負荷1set計10回+80㌔負荷2set計11回+40㌔負荷1set計50回+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷3set計60回+16㌔負荷2set計20回+脚大腿四頭筋鍛練レッグエクステンション67㌔負荷5set計60回+大腿二頭筋ハムストリング鍛練レッグカール33㌔負荷5set計50回+ラスト腹直筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ5set計150回鍛練仕り申したぜィ
今日4月11日は1543年天文12年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉孝景〉弟〈朝倉景高〉が若狭から、次いで摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)を退去して西国へ落ちて没落した日。
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼重〉攻めのため
出陣した日更に1561年永禄4年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が「甲相駿三国同盟」にもとづいて、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉の要請を受けて、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉政虎=後の上杉謙信〉牽制のために〈碓氷峠〉を越えて、上野〈松井田〉(現群馬県安中市)に進行して近隣を放火した日。
同じ日、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)方の三河〈牛久保城〉(現愛知県豊川市)の〈稲垣林四郎氏連〉〈牧野弥次右兵衛尉〉〈牧野平左衛門尉〉らを調略し今川氏支配からの独立が始まった日。更に1562年永禄5年に河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈畠山高政〉が、摂津〈飯盛山城〉(現大阪府高槻市)周辺を攻略し終えた日

更に1567年永禄10年に、大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾上少弼久秀まつながだんじょうしょうひつひさひで〉と、一度は袂を分かっていた、三好本宗家当主〈三好義継〉(三好長慶養継子)が、大和〈信貴山城〉(奈良市生駒郡平群町)から〈多聞山城〉へと移った日。
〈三好義継〉〈松永久通〉(松永久秀嫡男)主従は〈三好宗渭・三好長逸〉らと共に「剣豪将軍」と恐れられた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉を京都洛中〈室町第〉に襲撃して、弑虐に及び
室町幕府の存続を否定していたが…〈三好三人衆=三好宗渭・三好長逸・岩成友通〉が、四国阿波から〈足利義栄〉を擁立して〈室町幕府第14代将軍〉職に据えたことで対立を深め
亡き〈三好長慶〉の腹臣であった、敵対していた〈松永久秀〉と再び同盟し
〈三好三人衆〉と対立していくのであった…更に1573年元亀4年に美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉が、近江〈鯰江城なまずえ〉(現滋賀県東近江市)に籠城中の〈六角義弼=六角義治〉(六角義賢入道承禎嫡男)を支援していた〈百済寺くだらでら〉を焼討ちして
〈岐阜城〉へ帰還した日
更に1578年天正6年この頃、天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉の命により
〈明智十兵衛光秀〉〈細川藤孝〉が丹後へ侵攻して
〈一色義定〉が〈弓木城〉(現京都府与謝野町)へ退去した為、播磨で反旗を翻した〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉討伐のため〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に助勢するよう〈前右大臣信長〉の命で〈明智光秀〉〈細川藤孝〉は播磨へ転戦したのだった
更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした〈前右大臣信長〉が、甲斐〈右左口峠〉(現山梨県東八代郡中道町)から〈本栖湖
〉へ出立し
駿河
を拝領した、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川三河守家康〉家臣〈松平家忠〉ら三河衆が〈前右大臣信長〉軍本隊を警固して、道々に茶屋を建て接待した日。更に1584年天正12年に尾張〈楽田城〉(現愛知県犬山市)の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈長久手の合戦
〉で討死した〈池田恒興入道勝入斎〉〈池田元助〉父子討死を母親〈養徳院〉(織田信長乳母)に伝え慰労した日。更に1586年天正14年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈関白=豊臣秀吉〉からの申し入れで、他家に嫁いでいた〈関白秀吉〉の実妹〈朝日姫〉を、亡き〈織田信長〉の命により〈築山御前=瀬名〉を殺害して以降、正室の居ない〈徳川家康〉に正室として〈朝日姫〉の輿入れを申し入れていたが…〈徳川家康〉が承知した日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による「関東奥羽惣無事令」に違反して、信濃〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方の、上野〈名胡桃城なぐるみじょう〉(現群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子を討伐すべく

〈関白秀吉〉は25万の大軍で難攻不落の〈小田原城〉を包囲した〈小田原征伐
〉で〈関白秀吉〉の茶匠〈千利休〉の門弟〈山上宗二やまのうえのそうじ〉が〈北条氏直〉の茶匠となっといた事に〈関白秀吉〉の怒りをかって
〈山上宗二〉が捕らえられ、鮟鱇(あんこう)の吊るし切りの如く
耳
鼻を削ぎ落とされ処刑された日
この〈山上宗二〉の斬殺により〈関白秀吉〉と〈千利休〉の関係性は悪化し〈千利休〉の最大の理解者である〈関白秀吉〉の舎弟〈大和大納言=豊臣秀長〉の死去により、事態は更に悪化していくのであった…
更に1592年天正20年に天下人〈関白秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈関白秀吉〉本隊が
築城途上の安芸〈広島城〉(現広島県広島市)に入城し
〈広島城〉を巡覧し
〈関白秀吉〉が〈施薬院全宗〉〈安国寺恵瓊〉から嫡男の居ない〈毛利輝元〉の跡継ぎに養嗣子〈毛利秀元〉を承認し
今後〈毛利輝元〉に実子誕生の際には〈毛利秀元〉を分封とする事とした日。更に1597年慶長2年に山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)内〈内大臣=徳川家康〉の徳川屋敷内で〈徳川秀忠〉(徳川家康三男)正室〈お江=於江与〉に長女〈千姫〉(後の豊臣秀頼正室)が誕生した日

更に1602年慶長7年に、二年前天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、西軍〈石田三成〉方となり敗戦をきした、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津維新入道義弘〉は、美濃〈関ヶ原〉の戦場
で、東軍総大将〈内大臣=徳川家康〉本陣への突撃を敢行して
徳川本陣正面を「適中突破」して
伊勢路から戦場を離脱して
和泉〈堺〉湊(現大阪府堺市)から海路
薩摩へと帰国したのだった
そのため大勝利を納めた〈内府家康〉は、戦後処理として
捕縛した〈石田三成〉〈小西行長〉〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉ら、三人の西軍諸将を京都〈
鴨川
六条河原〉で斬首し
その後、豊臣家五大老で西軍総大将となった〈安芸中納言=毛利輝元〉や、同じく五大老〈会津中納言=上杉景勝〉らの領地を大幅削減転封を断行したのだった。 そして〈内府家康〉は
かつて天下人〈関白=豊臣秀吉〉に抵抗し〈島津征伐
〉で敗戦後、隠居していた〈島津維新入道義弘〉の兄で隠居〈島津龍伯斎入道義久〉に対して〈関ヶ原〉から逃げ帰った弟〈島津維新入道義弘〉の身柄引渡しを要求したが
〈島津龍伯斎入道義久〉は「弟義弘は薩摩〈桜島〉に蟄居謹慎させており
亡き〈太閤殿下(豊臣秀吉)〉の遺児〈豊臣秀頼〉への忠節を尽くす誓書を出して、出陣して行ったとばかり思っていたもので…まさか合戦
に及ぶとは思わぬ仕儀
〈内府家康〉に対する恩義は、決して忘れてはいない
」と返答して
「只今は〈朝鮮出兵〉で、上方に上る資金が無く
資金が出来次第、上洛する」と弁明の返書を〈内府家康〉に書き送ってきたのだった。しかし〈内府家康〉は〈関ヶ原の合戦
〉で多額の軍資金を遣い
財政困難で
遠い九州の果て薩摩まで遠征するゆとりは無かった為
引き続き、家臣〈井伊直政〉や〈黒田長政〉〈寺沢広高〉らを通じて〈島津龍伯斎入道義久〉に謝罪・臣従と京都〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)へ上洛を要求していたが…〈内府家康〉は、亡き〈太閤秀吉〉の二度にわたる〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉により、朝鮮国・明国との国交断絶となっていた為
国交回復の為には、明国と交易し「朝貢国ちょうこうこく」である〈琉球りゅうきゅう=沖縄県〉を通じて仲介を依頼するより他に無く
〈琉球〉と好の有る島津氏の協力が必要不可欠であった為
〈内府家康〉は〈関ヶ原〉の戦後処理が一段落すると
〈関ヶ原〉で敵中突破を敢行した〈島津維新入道義弘〉の罪を問わない事と
〈島津龍伯斎入道義久〉に、薩摩・大隅二ヵ国56万石の所領地を安渡して〈島津維新入道義弘〉の子〈島津家久〉に、島津家当主家督相続を許認可した日

〈島津龍伯斎入道義久〉は、天下人〈関白秀吉〉に敢然と抵抗して〈島津征伐
〉を受け〈関ヶ原の合戦
〉で、弟〈島津維新入道義弘〉が〈内府家康〉と戦い、敗れながらも「敵中突破」を敢行して
「薩摩勇人」の勇猛さを天下に轟かせたにも関わらず、領地を失うこともなく
領国を護り通したのであった…「薩摩に暗君なし」と云われ
島津家には、優れた当主が輩出され続け、幕末には〈島津斉昭〉〈島津久光〉が当主となり、徳川幕府を倒幕していく事になるのである…よって件の如し

恐々謹言卯月十一日
太閤




今朝も「仮面ライダーリバイス」→「暴太郎戦隊ドンブラザース」観て「ワンピース」は録画しといて
夜には「鎌倉殿の13人」と最初から最後までクライマックスだぜィ
まづは乳筋上部鍛練インクラインダンベルプレス30㌔負荷5set計25回+乳筋鍛練ダンベルフライ30㌔負荷6set計30回+再び乳筋鍛練ベンチプレス70㌔負荷3set計26回+乳筋下部鍛練ケーブルクロスオーバー50㌔負荷2set計20回+60㌔負荷4set計15回鍛練仕り申したぜィ
)を開校した日。
桜のために〈御土居〉の枯竹を伐採させた事で口論となった日
を持たせて、再び陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主の五大老〈会津中納言=上杉景勝〉のもとへ派遣した日。






越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼って救援を要請するのであった…
亡き父信長の盟友〈徳川家康〉と同盟して挙兵に及び
〈徳川家康〉は誘いには乗らず


