ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も無駄な残業させられたからしょぼん急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣車50分間だけ鍛練まづは広背筋・大円筋鍛練フロントプルダウン57㌔負荷3set計36回+62㌔負荷2set計24回+リバースラットプルダウン57㌔負荷3set計36回+62㌔負荷2set計24回+バックプルダウン57㌔負荷4set計40回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷3set計60回+34㌔負荷3set計30回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス1set計20回鍛練仕り申したぜィビックリマークp(^^)q


今日4月14日は1526年大永6年に駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏親〉(今川義元父親)が分国法「今川仮名目録」を制定公布した日。
そして後には〈今川氏親〉五男〈今川義元〉が「今川仮名目録追加」を制定したことで〈今川義元〉と同盟を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉も「今川仮名目録」を参考にした「甲州法度次第」を制定するのであった…


また1536年天文5年には、陸奥〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈陸奥守護職=伊達稙宗だてたねむね〉が「塵芥集じんかいしゅう」を制定した日。


更に1569年永禄12年に美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉に擁立されて「室町幕府第15代将軍」職に就任した〈足利義昭〉が〈織田信長〉が帰国すると、その隙をついて、四国阿波から〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉らが畿内に戻り、京都洛中六条〈本圀寺〉(現京都府京都市下京区)に〈将軍義昭〉を襲撃した〈本圀寺の変美容院〉からショック!京都洛中に、将軍の御座所として堅固な館城を造営する必要に迫られ〈織田信長〉の命により、膨大な人手を投入して驚くべき短期間で築城成った〈二条城〉(現京都府京都市上京区)に〈将軍義昭〉が入城した日。


ニコニコ現在の〈二条城〉(現京都市中京区)は、徳川幕府が将軍上洛の折りの宿泊施設と朝廷監視の為に築城された城で〈織田信長〉築城の〈二条城〉は〈織田信長〉が〈将軍義昭〉を追放すると取り壊されたのだった。


更に1570年永禄13年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲州市)主〈武田晴信入道信玄〉が、駿河富士山をめぐる相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子との戦いで、伊豆侵攻のため手薄となる北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)将〈春日虎綱=高坂弾正昌宣〉に、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉牽制を命じた日。

更に1574年天正2年にかつて〈朝倉義景〉を裏切って自刃に追い込み〈織田信長〉に服属した〈朝倉景鏡あさくらかげあきら〉(朝倉義景従兄弟)が〈織田信長〉から諱(いみな)「信」の一字を下賜されて〈土橋信鏡〉と改名し、越前で勃発した〈越前一向一揆美容院=本願寺門徒衆〉に対して〈霊応山=平泉寺〉(現福井県勝山市)と共に攻撃を仕掛けたが美容院〈越前一向一揆衆〉に内通した一揆衆の裏切りに遭いガーン〈平泉寺〉を焼討ちされ〈土橋信鏡〉も討ち取られショック!かくして越前は加賀に続いて〈本願寺〉方の手中に落ちて「一揆持ちの国」となった日。


更に1575年天正3年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉率いる10万が馬摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)近くの作物を悉く薙ぎ捨てさせた日。


更に1576年天正4年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉が苦戦を強いられていた、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との和睦を破棄して三度目の挙兵におよびプンプン〈石山本願寺〉に対して〈明智十兵衛光秀〉〈細川藤孝〉らに大坂東南〈森口砦〉〈森河内砦〉の守備を命じプンプン〈荒木村重〉に〈北野田〉に3ヶ所砦を築いて川手の通路を封鎖させ〈原田(塙)直政〉に〈天王寺砦〉を築かせて、重臣〈佐久間信盛〉に〈天王寺砦〉の守備を命じプンプン〈石山本願寺〉への攻撃が再開され〈石山合戦美容院〉は、いつ止むともしれない戦いへと突入していくのだった…


更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉が、甲斐から駿河富士山〈久能城〉(現静岡県静岡市駿河区)を経て馬武田攻めの恩賞として駿河富士山を拝領したニコニコ遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の接待で〈駿府〉の茶屋で休息した後〈霧安倍川霧〉を渡河して〈宇津ノ谷〉で休息し〈田中〉(現静岡県藤枝市)で宿泊した日。


同じ日〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主の幼君〈宇喜多八郎秀家〉を補佐する〈宇喜多忠家〉(宇喜多直家弟)軍1万を加えた総勢3万の軍勢で備中へ進撃し馬養子〈羽柴秀勝〉(織田信長四男)と共に〈清水宗治〉が守備する〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)を一望出来る〈龍王山〉に本陣を敷いて馬
〈高松城〉北側の支城〈宮路山城=河屋城〉〈冠山城=巣蜘塚城〉と、南側の〈賀茂城=鴨庄城〉〈日幡城〉攻略に羽柴・宇喜多勢を差し向けた日。


同じ頃3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉父子を討ち果たし武田家を攻め滅ぼし美容院恩賞として上野を拝領した〈滝川左近将監一益〉が、上野〈厩橋うまやばし〉(現群馬県前橋市)に入城したのだった馬


更に1585年天正13年に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈槍の又左=前田利家〉が、越中〈富山城〉(現富山県富山市)主〈佐々内蔵助成政〉方の越中〈阿尾城〉(現富山県氷見市)将〈菊池武勝〉父子を、家臣〈富田景政〉に命じて調略させて寝返らせた上で〈前田利家〉は6千を率いて〈阿尾城〉に入城し馬甥〈前田慶次郎利益〉を城将に任命した日。


更に1588年天正16年に〈後陽成天皇ごようぜい〉が、天下人〈関白=豊臣秀吉〉が前年京都洛中に新造した政庁〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)に招かれ、御所から洛中〈仲立ち売り通り〉を行幸して〈聚楽第〉に入城した日ニコニコ


そして〈後陽成天皇〉は、五日間にわたり〈聚楽第〉に滞在し、大いに歓待されて〈関白秀吉〉は、京都洛中の「地子銀じしぎん」約5530両を〈後陽成天皇〉に献上しm(__)mそして〈関白秀吉〉は、義弟〈駿河富士山大納言=徳川家康〉や〈尾張大納言=織田信雄〉ら諸大名に、朝廷と〈関白秀吉〉への忠誠を示す誓詞を出させたのであった…


しかし〈関白秀吉〉からの〈後陽成天皇〉への臣下の礼をとる様、再三再四の上洛命令を延期し続けている、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉は〈関白秀吉〉から討伐される事になるのであった…


同じ日、一方相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方、武蔵〈八王子城〉(現東京都八王子市)主〈北条陸奥守氏照〉(北条氏康三男)が、来たる天下人〈関白=豊臣秀吉〉との戦いに備えて、同盟する出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉家臣の懐刀〈片倉小十郎景綱〉に、今後北条家と伊達家の連携が重要とする書状を送った日

奥羽の〈独眼竜=伊達政宗〉は宿敵プンプン会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名義広〉(佐竹義重子息)との戦端を開くべく〈芦名義広〉の実家、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉〈佐竹義宣〉父子を同じく敵とする北条氏との同盟・連携は必要不可欠だった…


更に1589年天正17年に駿河富士山〈駿府城〉主〈駿河大納言=徳川家康〉の居城〈駿府城=本丸天守〉が完成した日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈前田利家〉を総大将とする〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉連合軍の、西上野〈松井田城〉(現群馬県安中市)将〈大道寺駿河守政繁〉攻めで美容院相模〈小田原城〉を包囲中の〈関白秀吉〉が〈真田昌幸〉に〈小田原〉陣中の様子を伝えると共に〈松井田城〉攻めに苦戦していることに対して〈前田利家〉〈上杉景勝〉らとよく相談して、油断なく攻略するようにと激励の書状を送った日。


更に1600年慶長5年に豊臣家五大老〈会津中納言=上杉景勝〉が、亡き〈太閤秀吉〉の命令で、越後から会津120万石に移封になり〈太閤秀吉〉死去後、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)に帰国して、内政に執り懸かり、城の修築や道路・橋の整備・家臣の新規召し抱え等を急いでいた中…これに目をつけた〈内府家康〉は〈上杉景勝〉に対して、再び京都に上洛して、不穏な会津領内の備えについて弁明する様に求めてきたが〈上杉景勝〉は、内政干渉を理由に、上洛要請に応じなかったのだった…


その為〈内府家康〉は問罪使〈伊奈図書頭昭綱〉〈河村長門守〉らを、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)に派遣すると同時に「京都五山」〈相国寺〉の僧侶〈西笑承兌さいしょうしょうたい〉に〈上杉景勝〉の「非違八カ条」を、上杉家執政家老〈直江山城守兼続〉に宛てに書き送らせたが〈直江兼続〉は返書としてしょぼん全文十六カ条からなる長文「直江状手紙」を書き連ねて〈内府家康〉の懸念を、根拠の無い言い掛かりだとしてしょぼんパー正面から堂々と弁明すると共にしょぼん〈内府家康〉の不正を逆に批判した「直江状手紙」を書き送った日。


更に1602年慶長7年に連歌師〈里村紹巴さとむらじょうは〉が死去した命日で〈里村紹巴〉は〈明智光秀〉と親好があり、かつて〈本能寺の変美容院〉を直前にした〈愛宕神社〉での連歌会にも参列していたのだった…


更に1612年慶長17年に、かつて亡き〈武田信玄〉に駿河富士山を奪われ〈徳川家康〉を頼り、一時は〈牧野城=諏訪原城〉(現静岡県島田市)〈駿府城〉に返り咲くも罷免されショック!駿河国主への復帰も果たせず京都へと上洛した〈今川氏真〉(今川義元嫡男)が、駿河富士山〈駿府城〉主〈大御所=徳川家康〉の元を訪ねた日で〈大御所家康〉は〈今川氏真〉に〈品川〉に屋敷を与えたのだった。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言卯月十四日
太閤
190519_134733.jpg
2013080410050000.jpg
2013080614500000.jpg
2013082909410000.jpg
190518_144338.jpg
ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も残業だったからプンプン急ぎ帰還しても体育館JYM鍛練に出陣は間に合わずガーン鍛練断念ガーン


今日4月13日は1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父親)が、娘婿の信濃諏訪郡〈上原城〉(現長野県諏訪市)主〈諏訪頼重〉と埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉らと共に、佐久郡〈尾野山城〉(現長野県上田市)主〈海野棟綱〉〈根津政直〉〈真田幸隆〉(真田幸村祖父)らを攻め立て〈海野平の合戦美容院〉で撃破した日美容院


更に1477年文明9年に武蔵〈江戸城〉(現皇居)を築城した〈扇ヶ谷上杉〉家家老〈太田道灌おおたとうかん〉が、武蔵〈江古田〉〈沼袋の合戦美容院〉(現東京都中野区)で〈石神井城〉(現東京都練馬区石神井公園)主〈豊島氏〉を討ち敗った日美容院


更に1557年弘治3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、水内郡〈鳥屋城〉(現長野県上田市)将〈島津忠直入道月下斎〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉の北信濃進攻に呼応するとの知らせを受けてガーン〈長坂虎房=後の長坂光堅入道長閑斎〉〈日向大和守是吉〉らに水内郡〈鬼無里村〉方面の長尾方の動向を探らせた日。


更に1564年永禄7年に尾張〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)主〈織田信長〉が、美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤龍興〉に内通していた尾張〈犬山城〉(現愛知県犬山市)主〈織田信清〉攻めのため〈小牧山城〉を出陣した日馬


更に1574年天正2年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が重臣〈佐久間信盛〉に命じて、近江〈石部城〉(現滋賀県湖南市)に籠城する〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉〈六角義治〉父子を攻撃し美容院〈六角承禎〉は雨雨の夜新月に紛れて〈石部城〉を脱出して〈信楽〉へ逃亡し走る人〈石部城〉を攻略した日美容院


同じ日、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が、上杉方の武蔵〈羽生城〉(現埼玉県羽生市)救援のため、上野へ進行して馬霧利根川霧〉を挟んで相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉と対峙し馬次いで〈上杉謙信〉は北条方の〈金山城〉(現群馬県太田市)主〈由良成繁〉を攻撃し美容院更に武蔵へ進撃して馬〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉や〈忍城おし〉(現埼玉県行田市)主〈成田下総守長泰〉や〈騎西城〉(現埼玉県加須市)領地内を放火した日。


更に1575年天正3年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との〈石山合戦美容院〉で摂津〈天王寺〉(現大阪府大阪市天王寺区)に本陣を移し馬〈天王寺〉〈住吉〉〈遠里小野〉周辺に織田軍が着陣した日馬


同じ日、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が、西上野〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)将〈内藤修理昌豊=内藤昌秀〉に、三河〈長篠城〉(現愛知県新城市)攻めのため出陣するよう催促した日。


更に1580年天正8年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉に反旗を翻したプンプン国東半島〈安来城〉(現大分県国東市)主〈田北鑑重入道紹鉄〉が〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)軍に直入郡〈阿曽野〉で攻撃され美容院〈田北紹鉄〉は、筑前〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉を頼り逃げる途上走る人日田郡〈五馬荘松原〉(現大分県日田市)で大友方の日田郡の武士に殺害された日ショック!


更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉を攻め滅ぼし美容院甲斐から駿河富士山に向けて出立した〈前右大臣=織田信長〉が〈霧富士川霧〉を渡河して駿河富士山〈蒲原〉に出て〈吉原〉〈田子の浦〉〈美保の松原〉見物の後〈江尻城〉(現静岡県静岡市清水区)に宿泊した日。


同じ日、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉がショック!越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)に籠城して〈柴田権六勝家〉率いる〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉ら織田軍に攻撃されている〈中条景泰〉〈吉江宗信〉〈安部政吉〉〈竹俣慶綱〉〈山本寺景長〉ら諸将に書状を送って激励し〈魚津城〉の堅守とプンプン能登国衆並びに〈上条五郎〉〈斎藤朝信〉らを援軍として派兵させると伝えた日。


同じ頃、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)将〈清水宗治〉方の支城〈宮路山城〉(現岡山県岡山市北区)に〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉が、幾度となく降服開城を促すも従わずプンプン安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方の〈乃美(浦)元信〉が頑強に抵抗しプンプン決裂したのだったプンプン


更に1583年天正11年に北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)将〈柴田勝豊〉(柴田勝家甥で養子)が山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の大軍に包囲されガーン調略により内通した為、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉与力の、加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉が〈柴田勝豊〉家老〈山路正国〉を調略で柴田方に寝返らせ〈羽柴秀吉〉軍の防備上の弱点を告げた日。


同じ日〈本能寺の変美容院〉後の混乱に乗じて、信濃・甲斐・上野・駿河富士山の武田旧領をめぐる〈天正壬午の乱美容院〉で、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉方となった、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉の信濃侵攻に備えて〈尼ヶ淵〉に〈上田城〉の築城に着手した日。


更に1586年天正14年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈関白=豊臣秀吉〉の妹〈朝日姫〉を正室に迎えることを決めた、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が、家臣〈榊原小平太康政〉が〈大坂城〉に派遣されて結納が成された日。

更に1591年天正19年に陸奥〈三戸城〉(現青森県三戸郡三戸町)主〈南部信直〉がプンプン家臣〈大浦城〉(現青森県弘前市)主〈大浦(津軽)為信〉の謀反を、嫡男〈南部彦九郎=後の南部利直〉に〈北信愛きたのぶちか〉を付けて共に京都に上洛させて、洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)主〈関白秀吉〉に〈大浦(津軽)為信〉の領地安堵取消しを訴え出た日。


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉が開始されプンプン先鋒として、対馬領主〈宗義智〉肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)主〈小西行長〉らが、第二軍には肥後〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤清正〉肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈鍋島直茂〉らが次々と玄海灘波を渡り船朝鮮半島〈釜山プサン〉に上陸して船〈釜山城〉を攻略した日美容院


〈小西行長〉はキリシタン大名〈加藤清正〉は敬虔な法華宗の信仰者でニコニコ両大将は朝鮮半島に上陸するや、競い合いながらプンプン北上し馬馬〈李王朝〉の首都〈漢城=ソウル〉を目指して、進軍を続けるのであった馬


更に1597年天正2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が養女〈豪姫〉(前田利家息女・宇喜多秀家)が、狐の祟りにより病になったと聞いて、稲荷大明神(伏見稲荷)に「日本中の狐を退治するプンプン」と恫喝の書状を送りつけた日。


更に1599年慶長4年に前年山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)で病没した天下人〈太閤秀吉〉の墓所が京都東山〈阿弥陀ヶ峰〉に移され、西側山麓に新たに仮〈豊国廟〉が造営された日で、後に亡き〈太閤秀吉〉を「豊国大明神」と奉る〈豊国神社〉が創建され、以降毎年「豊国祭」の祭礼が執り行われたのだった。


更に1600年慶長5年に陸奥会津領内各所の道普請に砦の築城工事を進めていた〈若松城〉(現福島県会津若松市)主、豊臣家五大老〈会津中納言=上杉景勝〉に近隣諸大名から謀叛の噂が伝えられた、山城〈伏見木幡山城〉の豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が、家臣〈伊奈図書頭昭綱〉と〈河村長門守〉(五奉行=増田長盛)を問罪使として派遣して〈上杉景勝〉に上洛して釈明するよう促し〈内府家康〉が僧〈西笑承兌さいしょうしょうたい〉に書かせた書状を渡した日。


更に1611年慶長17年に、剣豪〈宮本武蔵〉と〈佐々木巌流小次郎〉が長門〈船島=巌流島〉で決闘美容院した日ニコニコ〈佐々木巌流小次郎〉は、豊前〈小倉城〉(現福岡県北九州市)主〈細川忠興〉の剣術指南役として仕えていたが〈宮本武蔵〉が、細川家家老〈長岡佐渡守〉を通じて〈佐々木小次郎〉との真剣勝負を願い出たのだった…


このとき〈宮本武蔵〉29歳ニコニコ1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉には、西軍〈石田三成〉方の、備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主〈備前中納言=宇喜多秀家〉隊として参戦したが、さしたる活躍も出来ないままガーン西軍は〈小早川秀秋〉の裏切りで大敗しガーン主君〈宇喜多秀家〉は改易となりショック!〈八丈島〉(現東京都八丈島)に島流しとなり、浪人となった〈宮本武蔵〉は〈巌流島の決闘美容院〉で〈佐々木小次郎〉を討ち敗った後も、諸国を遊歴し1637年寛永14年に徳川幕府による〈島原の乱美容院〉に参陣、後に〈宮本武蔵〉は、肥後〈熊本城〉主〈細川忠利〉に、客分として仕えて「兵法三五箇条」「五輪書」を書き残しだのだった…


更に1615年慶長20年に前日尾張〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈徳川義利=後の徳川御三家徳川義直〉(徳川家康九男)と亡き〈浅野幸長〉息女〈春姫〉との婚儀のため、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)から〈名古屋城〉に来ていた〈大御所=徳川家康〉に〈織田長益入道有楽斎〉〈織田尚長〉父子が、摂津〈大坂城〉内の様子を報告し〈右大臣=豊臣秀頼〉〈淀殿=茶々〉母子や重臣〈大野修理亮治長〉らが浪人衆を押さえられない現状等伝えた日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言卯月十三日
太閤
ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日は残業だったけど、急ぎ帰還して50分間だけ体育館JYM鍛練して、まづは僧帽筋鍛練スミスマシンアップライトロー70㌔負荷5set計50回+上腕三頭筋鍛練プレスダウン40㌔負荷1set計50回+50㌔負荷1set計30回+60㌔負荷1set計20回+70㌔負荷1set計10回+80㌔負荷1set計5回+腹斜筋鍛練インクラインサイドベント15㌔負荷左右各5setづつ各計110回づつ+ラスト前腕筋鍛練バーベルリストカール20㌔負荷3set計96回+リバースカール20㌔負荷3set計96回鍛練仕り申したぜィビックリマークp(^^)q


今日4月12日は1543年天文12年この頃〈藤吉郎=後の豊臣秀吉〉の母親〈なか=後の大政所〉が〈竹阿弥ちくあみ〉(大和大納言豊臣秀長父親)と再婚したのだった。


更に1544年天文13年朝鮮半島慶尚道を〈対馬〉の倭船船(日本船船)20艚が襲撃した為、朝鮮国は〈対馬〉と断交した日。


更に1553年天文22年に前日信濃埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉を越後へ追った、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、弟〈武田典厩信繁たけだてんきゅうのぶしげ〉を〈葛尾城〉に入城させ馬〈村上義清〉救援に出兵して来た馬越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に対して更級郡〈八幡〉に武田軍を派兵した日馬


更に1554年天文23年に摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉主従が馬丹波桑田郡へ出陣して馬〈三好政勝〉方の小城を次々攻略した日美容院


更に1557年弘治3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が西上野〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)主〈長野信濃守業正〉攻め中美容院越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が北信濃〈川中島=善光寺平〉へ侵攻して来るとの報告にガーン西上野から撤退して馬急遽〈川中島〉に出馬した日馬

更に1562年永禄5年に三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と「清洲同盟」を結んで、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉の支配下から脱して、今川方の三河〈鳥屋根城〉(現愛知県豊川市)を攻撃して美容院初陣の〈本多平八郎忠勝〉が初首級を挙げた日。


更に1572年元亀3年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が河内へプンプン重臣〈佐久間信盛〉〈柴田権六勝家〉〈明智十兵衛光秀〉に室町幕府幕臣〈細川藤孝〉〈三渕藤英〉〈上野秀政〉摂津国衆〈池田勝正〉〈伊丹親興〉〈和田惟政〉ら2万余が出陣した日馬


更に1573年天正元年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が、信濃伊那郡〈駒場〉(現長野県飯田市)で病死した命日ショック!享年53歳しょぼん


〈武田信玄〉は、天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が、自らが擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が「征夷大将軍」とは名ばかりで、傀儡政権(かいらいせいけん)として執り仕切る様になりプンプン〈将軍義昭〉は〈織田信長〉を封じ込めるべくプンプン〈織田信長〉に敵対する諸大名の結集を画策し、越前〈朝倉義景〉北近江〈浅井久政〉〈浅井長政〉父子、南近江〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉〈六角義治〉父子、摂津大坂〈石山本願寺〉紀伊〈雑賀党〉〈根来寺〉阿波〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉河内〈三好義継〉大和〈松永弾上〉〈松永久通〉父子らを糾合してプンプン織田包囲網を形成プンプンそして織田包囲網に〈武田信玄〉を味方に引き入れた為〈武田信玄〉は東から迫り〈織田信長〉の盟友、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉を討つべくプンプン10月3日甲斐〈躑躅ヶ崎館〉を出陣馬駿河富士山から東海道を西へ進軍し馬馬徳川方の遠江〈高天神城〉(現静岡県掛川市)へ向かい、その一方で〈山県昌景〉〈秋山虎繁=秋山信友〉率いる別動隊馬を、信濃伊那郡から〈青崩峠あおがれとうげ〉を越えて三河・遠江へと侵攻させ馬〈徳川家康〉を、前後から挟み討つ態勢を取り〈武田信玄〉本隊は、難攻不落の要害〈高天神城〉攻略に時を費やすのを嫌い〈見付〉(現静岡県磐田市)を経て〈霧天竜川霧〉を北上して馬〈二俣城〉(現静岡県浜松市天竜区)攻め美容院に向かい馬


一方、別動隊〈山県三郎兵衛昌景=秋山信友〉〈秋山虎繁〉らも東三河から、遠江〈二俣城〉攻めに参戦し美容院苦戦しながらも釣瓶で組み上げていた水の手を〈霧天竜川霧〉上流部からイカダを流して破壊して断ち〈二俣城〉を攻略しニコニコ〈浜松城〉を孤立させておいて、武田軍は南下して〈徳川家康〉が籠城する〈浜松城〉を横目に通過したため馬〈武田信玄〉追撃に討って出た馬DASH!〈徳川家康〉を〈三方原の合戦美容院〉で、散々に討ち敗り〈徳川家康〉生涯の教訓を与えたのだった…

その後〈武田信玄〉は悠々と三河へ侵攻馬〈刑部おさかべ〉(現静岡県浜松市)で越年してニコニコ2月徳川方、三河〈野田城〉(現愛知県新城市)を攻略して美容院徳川家本拠〈岡崎城〉攻略を残すのみとなったが…病を発して、後方〈長篠城〉(現愛知県新城市)へと後退して、秘かに〈鳳来寺ほうらいじ〉に本陣を移して療養していたが…一向に快方には向かわずガーン武田軍は、動かざること山の如し動こうとはしなかった…


この武田軍の不可解な動向に、美濃〈岐阜城〉に釘付けになっていた〈織田信長〉は、織田包囲網への反撃に近江に反転して〈将軍義昭〉を攻めたてたのだった

〈将軍義昭〉が頼みとする重体の〈武田信玄〉は〈長篠城〉を出て輿(こし)に乗せられ、甲斐に向け武田軍撤退し馬信濃〈駒場こまんば〉まで来たところで危篤に陥りガーン〈武田信玄〉は〈諏訪四郎神勝頼=武田勝頼〉と重臣達に、自らの死を三年間隠す様に遺言し、白紙の書状8百枚に自らの「花押かおう」(サイン)を遺して息を引き取ったのだったしょぼん


〈武田信玄〉の死により、〈徳川家康〉は息を吹き返し〈織田信長〉の天下統一は一層加速化して、織田包囲網は次第に各個撃破され〈将軍義昭〉は劣勢となっていくのだった…


更に1575年天正3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が菩提寺〈恵林寺〉(現山梨県甲州市)において、亡き父親〈武田信玄〉の遺言により、喪明けの葬儀と三回忌法要を執り行い、本格的京都侵攻を表明した日。


更に1576年天正4年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が遺言により喪を秘していた亡き父親〈武田信玄〉の死を公表した日。


更に1579年天正7年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉が、反旗を翻した、播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉討伐のため〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉への援軍として、嫡男〈秋田城介=織田信忠〉次男〈北畠(織田)信雄〉三男〈神戸(織田)信孝〉弟〈織田信包〉ら織田家一門衆を播磨へ派兵させ〈三木城〉包囲の砦普請の検使として〈猪子高就〉〈飯尾信宗=飯尾尚清〉を播磨へ進発させた日

更に1580年天正8年この頃、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉による領地奪取と日向出兵を批判しプンプン反旗を翻した国東郡〈安来城〉(現大分県国東市)主〈田原親宏〉〈田原親貫〉父子に同調するように謀反した、朽網郷〈松牟礼城まつむれ〉(現大分県竹田市)主〈田北鑑重入道紹鉄たきたあきしげにゅうどうしょうてつ〉は〈大友宗麟〉の命により〈府内城〉から出陣した嫡男〈大友義統〉の襲来に備えて〈熊牟礼城〉(現大分県由布市)に移り籠城した為プンプン〈大友宗麟〉は〈田原親貫〉との連携を恐れてガーン玖珠郡・南郡衆に〈田北紹鉄〉討伐を命じ包囲した日馬


更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉父子を攻め滅ぼした〈前右大臣信長〉が宿営地の甲斐〈本栖湖霧〉を未明に出立し馬霊峰〈富士山富士山〉を見物しながら〈裾野=上野ヶ原・井手野〉経由で〈富士山富士山〉山麓の洞窟次いで〈白糸の滝〉見物後〈大宮=浅間神社〉に泊まった日。


更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)住〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉方〈堀久太郎秀政〉〈蒲生賦秀がもうますひで=後の蒲生氏郷〉(織田信長娘婿)〈長谷川藤五郎秀一〉ら1万余が馬伊勢〈峯城〉(現三重県亀山市)将〈佐久間駿河守信栄=佐久間正勝〉(佐久間信盛嫡男)を攻略した日美容院


同じ日〈本能寺の変美容院〉後の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河富士山の武田旧領をめぐる〈天正壬午の乱美容院〉で、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉方として武田旧臣を徳川方に引き入れる計略中の小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)上野吾妻郡〈岩櫃城いわびつ〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)主〈真田安房守昌幸〉と〈依田康国〉(依田信蕃長男)と共に、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉方から寝返った〈屋代秀正〉を計略にあたらせた日。


更に1585年天正13年に摂津〈大坂城〉主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉による紀伊〈雑賀党攻め美容院〉で〈蜂須賀小六正勝〉〈前野将右衛門長康〉らが、紀伊〈太田城〉(現和歌山県和歌山市)に降服開城勧告した日。


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉が開始されプンプン第1陣〈小西行長〉〈宗義智〉〈有馬晴信〉ら総勢8千7百が7百艘船の軍船船が〈対馬〉を出航して朝鮮半島〈釜山プサン〉に着陣した日

更に1593年文禄2年に天下人〈太閤秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で朝鮮半島で総大将に任じられていた〈宇喜多秀家〉が〈明国皇帝=万歴帝〉の「勅使ちょくし」と対面した日。


更に1594年文禄3年に天下人〈太閤秀吉〉を主人公とした「明智討ち」を朝廷に披露した日。


更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が、農民の裏作農の麦まで三分の一を年貢として取り立てプンプン〈太閤秀吉〉は、自らの出身である農民や、領主達の裏の収入である、裏作の構造を知っていたため、農民に対して「太閤検地」を、百姓・土豪らの土一揆防止の対策として1588年天正16年に「刀狩令」を公布して、農民の抵抗力を削ぎ落としたのだった…


更に1602年慶長7年に〈明智光秀〉とも親交が有り〈本能寺の変美容院〉の直前で〈明智光秀〉らと〈愛宕神社〉の連歌会に参加していた連歌師〈里村紹巴さとむらじょうは〉が死去した命日、享年78歳しょぼん


更に1605年慶長10年天下人〈太閤秀吉〉の嫡男〈豊臣秀頼〉が、母親〈淀殿=茶々〉の伯父である、亡き〈織田信長〉と同じ官位の「右大臣」に朝廷から任ぜられた日ニコニコ


更に1615年慶長20年に尾張〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)で、駿河富士山〈駿府城〉から〈大御所=徳川家康〉が参列して九男〈徳川義利=後の徳川御三家徳川義直〉と、亡き〈浅野幸長〉息女〈春姫〉の婚儀が執り行われた日。


同じ日、摂津〈大坂城〉で主〈右大臣=豊臣秀頼〉は徳川幕府との再びの決戦を覚悟しショック!〈大坂城〉内金蔵の金銀を浪人衆に配分して、武具の用意に着手し戦備を整えはじめた日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言卯月十二日
太閤
170504_121743.jpg
170504_120031.jpg
160605_131229.jpg
200321_140750.jpg