俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日は公休日
今朝も「仮面ライダーリバイス」→「暴太郎戦隊ドンブラザース」観て「ワンピース」は録画しといて
夜には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と最初から最後までクライマックスだぜィ
昨日は常陸笠間まで出陣
意外に早目に帰還出来たし盟友〈イケメン元取締役桜王子〉からも桜メール
ちょーらいしてたし
〈イケメン桜王子〉に逢いたくナッシブルだったから
去年クリスマスイヴ以来メッチャ久々たこ焼きたこ王子に俺
参上
今年初久々オッパイ
仕り申して帰還したら地元駅前で大捕物帖犯人とおぼしき者が簀巻きにされて御用御用ッだったぜィ
(笑)
今日4月17日は1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が信濃〈諏訪〉から〈杖突峠〉を越えて伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那郡伊奈町)主〈高遠(諏訪)頼継〉を攻撃し
腹臣〈保科正俊〉の裏切りにより〈高遠頼継〉が逃亡した日
更に1550年天文19年に〈細川晴元〉軍が〈山中〉越えで未明に、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉方の、京都西院〈小泉城〉(現京都府京都市右京区)を攻撃した日
更に1552年天文21年に〈織田信秀〉亡き後「尾張の大うつけ」と噂される
嫡男〈織田三郎上総介信長〉に反旗を翻した
尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)主〈山口左馬助教継〉〈山口九郎二郎教吉〉父子に対して〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田信長〉は〈鳴海城〉父子討伐8百を率いて〈小鳴海〉の〈三の山〉まで出陣し
一方〈鳴海城〉から〈織田信長〉迎撃に〈三の山〉東方〈赤塚郷〉に出陣した〈山口教吉〉軍5千と〈赤塚の合戦
〉で激突し
織田方30騎が討死するも互いに勝敗決せず〈織田信長〉は帰還した日
更に1555年天文24年に尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈尾張守護代=織田彦五郎信友〉家老〈坂井大膳〉は〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田信光〉(織田信秀弟・織田信長叔父)を味方に引き入れ〈那古屋城〉主〈織田信長〉から離反させようと謀り〈清洲城=南櫓〉へ入城させた日
更に1557年弘治3年に摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)第11世法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の猶子〈如春尼にょしゅんに〉と結婚した日
〈如春尼〉は公家〈三条公頼〉の三姉妹の三女で、長女は〈室町幕府=細川晴元〉正室に、次女は甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉正室として嫁ぎ
〈慶寿院〉(室町幕府第12代将軍=足利義晴正室)の辣腕(らつわん)により三女は〈六角定頼〉の猶子となり〈顕如〉上人に嫁いだのだった。
更に1565年永禄8年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、宿敵出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子義久〉への攻撃を開始するも
尼子家臣〈山中鹿ノ介幸盛〉らの激しい抵抗と難攻不落を誇る〈富田月山城〉に阻まれ苦戦を強いられた日
更に1577年天正5年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉により追放され、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の庇護下の備後〈鞆とも〉(現広島県福山市)の〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、幕臣〈真木島昭光〉〈一色昭秀〉らをして、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉家臣〈伊集院忠棟〉〈河上忠克〉〈平田主膳興清〉〈村田経定〉に京都帰洛援助を命じた日。
更に1582年天正10年に3月11日に〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の歓待を受けて払暁出立し
〈浜名湖
〉を舟で渡り〈徳川家康〉が設けた茶屋で休息して晩に
三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)に到着宿泊した日
同じ日〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉方〈黒田官兵衛孝高〉〈宇喜多忠家〉(宇喜多秀家叔父)軍が、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉方支城〈冠山城〉を攻撃した軍師〈黒田官兵衛孝高〉嫡男〈黒田長政〉が15歳で初陣した日
更に1583年天正11年に尾張〈清洲城〉主〈織田信雄〉(織田信長次男)〈羽柴長秀=後の大和大納言豊臣秀長〉軍が、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田権六勝家〉方の、伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)主〈滝川左近将監一益〉方の〈嶺城〉(現三重県亀山市)勇将〈滝川儀大夫益氏〉(前田慶次郎利益父親)を攻撃し
奮戦した〈滝川益氏〉を死なすのは惜しいと〈羽柴秀吉〉は〈滝川一益〉に使者を送って〈嶺城〉を降服開城させた日。
更に1584年天正12年に近江〈日野城〉(現滋賀県日野市)主〈蒲生賢秀〉(蒲生氏郷父親)が死去した命日
享年51歳
更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉への停戦命令は
豊後〈臼杵丹生島城〉(現大分県臼杵市)の隠居したキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟〉と〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉父子方に肩入れしたもので
豊臣政権の九州支配を意味するものだった為
九州全土平定を目指して
豊後・筑前へ侵攻を推し進めていた〈島津義久〉には不本意極まりない停戦条件であった為
〈島津義久〉は〈関白豊臣〉軍の先鋒となり、大友氏の援軍として四国から上陸して来た
土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉〈長宗我部信親〉父子・讃岐〈十河城〉(現香川県高松市)主〈十河存保そごうまさやす〉〈高松城〉(現香川県高松市)主〈仙石秀久〉らを、豊後〈戸次川の合戦
〉で撃破して
勢いにのる
島津軍は、大挙豊後へと雪崩れ込んで
大友氏の本拠〈府内城〉(現大分県大分市)を攻め落として
隠居〈大友宗麟〉の〈臼杵丹生島城〉(現大分県臼杵市)を包囲するに至り
〈大友宗麟〉は絶体絶命の危機となってしまい
その為、ついに天下人〈関白秀吉〉は、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主で弟の〈大和大納言=豊臣秀長〉を総大将として
島津征伐の為、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉や、備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉ら出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉〈吉川元長〉父子ら毛利一族や、備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主〈宇喜多秀家〉や軍師〈黒田官兵衛孝高〉らと
肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺政家〉〈鍋島直茂〉ら総勢10万余の大軍が続々、九州に着陣して来たため
島津軍は一斉に北九州から撤退を開始したが…〈島津義珍しまづよしたか=後の島津義弘〉(島津義久の弟)らは日向〈都於郡城〉(現宮崎県西都市)を出陣して
〈高城〉(現宮崎県児湯郡木城町)の包囲網を破るべく
〈根白坂の合戦
〉で〈大和大納言秀長〉軍を夜襲を仕掛け迎撃
多勢に無勢島津軍が大敗を期した日
〈関白秀吉〉は肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)に入城し
〈大和大納言秀長〉は、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉の〈木食応碁〉上人〈一色昭秀〉を派遣して〈島津義久〉に降伏を説いた日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)に援軍となり参陣入城していた〈小幡信定〉の
上野〈国峰城〉(現群馬県甘楽郡甘楽町)を北国軍〈上杉景勝〉先鋒〈藤田信吉〉が攻め寄せて
城主〈小幡信定〉不在のため降服開城し、上杉軍は続いて〈宮崎城〉(現群馬県富岡市)も攻略した日。
更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉において、先鋒を命じられた、肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)主でキリシタン大名〈小西行長〉〈対馬〉領主〈宗義智〉ら、第一軍に遅れて〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤清正〉肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈鍋島直茂〉らが、小西隊を追う様に
朝鮮半島南岸〈釜山プサン〉に上陸した日
更に1599年慶長4年に前年8月に死去した天下人〈太閤秀吉〉に、時の〈後陽成天皇ごようぜい〉が「豊国大明神」の神号を寄贈した日。
更に1616年元和2年に前年〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈豊臣秀頼〉を攻め滅ぼして、名実共に天下統一を成し遂げた、天下人〈大御所=徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)で死去した命日
享年75歳。
そして〈大御所家康〉の遺骸は、即日〈久能山くのうざん〉に埋葬されたのだった。
〈大御所家康〉は、前年5月〈大坂夏の陣
〉で豊臣氏を滅ぼし、晴れやかな気持ちで正月行事を迎えて
孫程も年齢差の有る〈徳川頼宣〉〈徳川頼房〉ら子達を伴い、鷹狩に出掛けて
駿河〈田中館〉(現静岡県藤枝市)に宿泊し、徳川家御用達で、京都の豪商〈茶屋四郎次郎清延〉が来訪して来て、京都洛中で流行りの料理「テンプラ」を堪能したのだった
その夜
〈大御所家康〉は強い腹痛となり
侍医らの必死の治療の甲斐もなく
次第に容態が悪化していき
4月1日〈大御所家康〉は、側近〈本多上野介正純〉〈南光坊天海なんこうぼうてんかい〉〈金地院崇伝こんちいんすうでの〉らを枕辺に呼んで遺言を遺し
「儂亡き後は、遺骸を久能山に納めて神として祀り、葬儀は、江戸芝増上寺(現東京都港区)で執り行い、位牌は三河大樹寺(現愛知県岡崎市)に納め、一周忌が過ぎたら、下野日光山に祠堂を建てて祀れ!さすれば、関八州の鎮守となるであろう!」と遺言し
17日10時頃
波乱にとんだ生涯を閉じたのだった
よって件の如し
恐々謹言卯月十七日
太閤









参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日は公休日
今朝も「仮面ライダーリバイス」→「暴太郎戦隊ドンブラザース」観て「ワンピース」は録画しといて
夜には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と最初から最後までクライマックスだぜィ
昨日は常陸笠間まで出陣
意外に早目に帰還出来たし盟友〈イケメン元取締役桜王子〉からも桜メール
ちょーらいしてたし
〈イケメン桜王子〉に逢いたくナッシブルだったから
去年クリスマスイヴ以来メッチャ久々たこ焼きたこ王子に俺
参上
今年初久々オッパイ
仕り申して帰還したら地元駅前で大捕物帖犯人とおぼしき者が簀巻きにされて御用御用ッだったぜィ
(笑)今日4月17日は1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が信濃〈諏訪〉から〈杖突峠〉を越えて伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那郡伊奈町)主〈高遠(諏訪)頼継〉を攻撃し
腹臣〈保科正俊〉の裏切りにより〈高遠頼継〉が逃亡した日
更に1550年天文19年に〈細川晴元〉軍が〈山中〉越えで未明に、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉方の、京都西院〈小泉城〉(現京都府京都市右京区)を攻撃した日

更に1552年天文21年に〈織田信秀〉亡き後「尾張の大うつけ」と噂される
嫡男〈織田三郎上総介信長〉に反旗を翻した
尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)主〈山口左馬助教継〉〈山口九郎二郎教吉〉父子に対して〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田信長〉は〈鳴海城〉父子討伐8百を率いて〈小鳴海〉の〈三の山〉まで出陣し
一方〈鳴海城〉から〈織田信長〉迎撃に〈三の山〉東方〈赤塚郷〉に出陣した〈山口教吉〉軍5千と〈赤塚の合戦
〉で激突し
織田方30騎が討死するも互いに勝敗決せず〈織田信長〉は帰還した日
更に1555年天文24年に尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈尾張守護代=織田彦五郎信友〉家老〈坂井大膳〉は〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田信光〉(織田信秀弟・織田信長叔父)を味方に引き入れ〈那古屋城〉主〈織田信長〉から離反させようと謀り〈清洲城=南櫓〉へ入城させた日

更に1557年弘治3年に摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)第11世法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉の猶子〈如春尼にょしゅんに〉と結婚した日

〈如春尼〉は公家〈三条公頼〉の三姉妹の三女で、長女は〈室町幕府=細川晴元〉正室に、次女は甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉正室として嫁ぎ
〈慶寿院〉(室町幕府第12代将軍=足利義晴正室)の辣腕(らつわん)により三女は〈六角定頼〉の猶子となり〈顕如〉上人に嫁いだのだった。更に1565年永禄8年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、宿敵出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子義久〉への攻撃を開始するも
尼子家臣〈山中鹿ノ介幸盛〉らの激しい抵抗と難攻不落を誇る〈富田月山城〉に阻まれ苦戦を強いられた日
更に1577年天正5年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉により追放され、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の庇護下の備後〈鞆とも〉(現広島県福山市)の〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が、幕臣〈真木島昭光〉〈一色昭秀〉らをして、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉家臣〈伊集院忠棟〉〈河上忠克〉〈平田主膳興清〉〈村田経定〉に京都帰洛援助を命じた日。
更に1582年天正10年に3月11日に〈武田勝頼〉を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉が、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の歓待を受けて払暁出立し
〈浜名湖
〉を舟で渡り〈徳川家康〉が設けた茶屋で休息して晩に
三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)に到着宿泊した日
同じ日〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉方〈黒田官兵衛孝高〉〈宇喜多忠家〉(宇喜多秀家叔父)軍が、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉方支城〈冠山城〉を攻撃した軍師〈黒田官兵衛孝高〉嫡男〈黒田長政〉が15歳で初陣した日

更に1583年天正11年に尾張〈清洲城〉主〈織田信雄〉(織田信長次男)〈羽柴長秀=後の大和大納言豊臣秀長〉軍が、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田権六勝家〉方の、伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)主〈滝川左近将監一益〉方の〈嶺城〉(現三重県亀山市)勇将〈滝川儀大夫益氏〉(前田慶次郎利益父親)を攻撃し
奮戦した〈滝川益氏〉を死なすのは惜しいと〈羽柴秀吉〉は〈滝川一益〉に使者を送って〈嶺城〉を降服開城させた日。更に1584年天正12年に近江〈日野城〉(現滋賀県日野市)主〈蒲生賢秀〉(蒲生氏郷父親)が死去した命日
享年51歳
更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉への停戦命令は
豊後〈臼杵丹生島城〉(現大分県臼杵市)の隠居したキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟〉と〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉父子方に肩入れしたもので
豊臣政権の九州支配を意味するものだった為
九州全土平定を目指して
豊後・筑前へ侵攻を推し進めていた〈島津義久〉には不本意極まりない停戦条件であった為
〈島津義久〉は〈関白豊臣〉軍の先鋒となり、大友氏の援軍として四国から上陸して来た
土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉〈長宗我部信親〉父子・讃岐〈十河城〉(現香川県高松市)主〈十河存保そごうまさやす〉〈高松城〉(現香川県高松市)主〈仙石秀久〉らを、豊後〈戸次川の合戦
〉で撃破して
勢いにのる
島津軍は、大挙豊後へと雪崩れ込んで
大友氏の本拠〈府内城〉(現大分県大分市)を攻め落として
隠居〈大友宗麟〉の〈臼杵丹生島城〉(現大分県臼杵市)を包囲するに至り
〈大友宗麟〉は絶体絶命の危機となってしまい
その為、ついに天下人〈関白秀吉〉は、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主で弟の〈大和大納言=豊臣秀長〉を総大将として
島津征伐の為、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉や、備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉ら出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉〈吉川元長〉父子ら毛利一族や、備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主〈宇喜多秀家〉や軍師〈黒田官兵衛孝高〉らと
肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺政家〉〈鍋島直茂〉ら総勢10万余の大軍が続々、九州に着陣して来たため
島津軍は一斉に北九州から撤退を開始したが…〈島津義珍しまづよしたか=後の島津義弘〉(島津義久の弟)らは日向〈都於郡城〉(現宮崎県西都市)を出陣して
〈高城〉(現宮崎県児湯郡木城町)の包囲網を破るべく
〈根白坂の合戦
〉で〈大和大納言秀長〉軍を夜襲を仕掛け迎撃
多勢に無勢島津軍が大敗を期した日
〈関白秀吉〉は肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)に入城し
〈大和大納言秀長〉は、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉の〈木食応碁〉上人〈一色昭秀〉を派遣して〈島津義久〉に降伏を説いた日。更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)に援軍となり参陣入城していた〈小幡信定〉の
上野〈国峰城〉(現群馬県甘楽郡甘楽町)を北国軍〈上杉景勝〉先鋒〈藤田信吉〉が攻め寄せて
城主〈小幡信定〉不在のため降服開城し、上杉軍は続いて〈宮崎城〉(現群馬県富岡市)も攻略した日。更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の命による〈朝鮮出兵=文禄の役
〉において、先鋒を命じられた、肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)主でキリシタン大名〈小西行長〉〈対馬〉領主〈宗義智〉ら、第一軍に遅れて〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤清正〉肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈鍋島直茂〉らが、小西隊を追う様に
朝鮮半島南岸〈釜山プサン〉に上陸した日更に1599年慶長4年に前年8月に死去した天下人〈太閤秀吉〉に、時の〈後陽成天皇ごようぜい〉が「豊国大明神」の神号を寄贈した日。
更に1616年元和2年に前年〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈豊臣秀頼〉を攻め滅ぼして、名実共に天下統一を成し遂げた、天下人〈大御所=徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)で死去した命日
享年75歳。そして〈大御所家康〉の遺骸は、即日〈久能山くのうざん〉に埋葬されたのだった。
〈大御所家康〉は、前年5月〈大坂夏の陣
〉で豊臣氏を滅ぼし、晴れやかな気持ちで正月行事を迎えて
孫程も年齢差の有る〈徳川頼宣〉〈徳川頼房〉ら子達を伴い、鷹狩に出掛けて
駿河〈田中館〉(現静岡県藤枝市)に宿泊し、徳川家御用達で、京都の豪商〈茶屋四郎次郎清延〉が来訪して来て、京都洛中で流行りの料理「テンプラ」を堪能したのだった
その夜
〈大御所家康〉は強い腹痛となり
侍医らの必死の治療の甲斐もなく
次第に容態が悪化していき
4月1日〈大御所家康〉は、側近〈本多上野介正純〉〈南光坊天海なんこうぼうてんかい〉〈金地院崇伝こんちいんすうでの〉らを枕辺に呼んで遺言を遺し
「儂亡き後は、遺骸を久能山に納めて神として祀り、葬儀は、江戸芝増上寺(現東京都港区)で執り行い、位牌は三河大樹寺(現愛知県岡崎市)に納め、一周忌が過ぎたら、下野日光山に祠堂を建てて祀れ!さすれば、関八州の鎮守となるであろう!」と遺言し
17日10時頃
波乱にとんだ生涯を閉じたのだった
よって件の如し

恐々謹言卯月十七日
太閤









近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉は、家臣〈丹羽五郎左衛門長秀〉の幼少から仕えていた〈溝口定勝=後の溝口秀勝〉を抜擢して、亡き〈逸見昌経〉の遺領5千石を与え〈溝口定勝〉を若狭の目付けを命じた日。
北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)の〈羽柴秀吉〉は直ちに美濃へ出陣した日
生活の傍ら寺子屋で近所の子供達に読み書きを教え、蚕(かいこ)を育て織物を造り、その収入で兄〈信盛〉や〈武田勝頼〉を裏切った〈小山田信茂〉の3人の姫を養育しながら武田一族の菩提を弔い


〈栃尾城〉(現新潟県長岡市)攻撃に向かった日