俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日4月20日は1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈第一次河東の一乱
〉で占領した駿河
富士郡の富士下方衆〈矢部氏〉らが反旗を翻した為
下方衆24人を討ち取った日。
更に1544年天文13年に〈後奈良天皇〉が「勅使ちょくし」として〈勧修寺晴秀〉を、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に派遣して、越後の静謐(せいひつ)を命じ、豊年のため「震筆御心経」1巻を神前に奉納することを通達した日。
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼継〉を追って〈高遠城〉を占拠した後〈福与城=箕輪城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を攻撃した日
更に1546年天文15年に相模〈小田原城〉主〈北条氏康〉が、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)を包囲する〈古河公方=足利晴氏〉〈関東菅領=山内上杉憲政〉〈扇ヶ谷上杉朝定〉連合軍8万余の大軍
を〈河越の夜戦
〉で討ち敗った日
武蔵〈河越城〉城将〈北条綱成〉は『黄八幡』『地黄八幡』として名高く
武蔵〈河越城〉は〈古河公方=足利晴氏〉を擁立した〈関東管領=山内上杉憲政〉=〈扇ヶ谷上杉朝定〉連合軍八万余の大軍
が蟻の這い出る隙間も無く、十重八十重に包囲し
もはや落城も時間の問題であった…
その〈河越城〉救援の為、相模〈小田原城〉から〈北条氏康〉は8千の軍勢を率いて
北条軍は闇夜での同士討ちを避ける為、合言葉と白い襷(たすき)を用いて、足利=両上杉連合軍に夜襲
を敢行し
〈北条氏康〉の反撃により〈山内上杉憲政〉は上州へ
〈古河公方足利晴氏〉は古河へ敗走し
更に城方からも〈黄八幡=北条綱成〉が討って出て
乱戦
の中で〈扇ヶ谷上杉朝定〉は討ち死にして、扇ヶ谷上杉家は滅亡し
戦国三代奇襲戦
に数えられる〈河越の夜戦
〉として、天下に〈北条氏康〉名が轟いた日
この〈河越の夜戦
〉から「勝って兜の緒を締めよ
」という名言が生まれ
最近の研究では、攻め寄せて来た〈山内上杉憲政〉軍を〈砂久保〉(現埼玉県川越市)に本陣を敷いた〈北条氏康〉軍が、迎撃して討ち敗ったとされる…
更に1553年天文22年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と、舅にあたる美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤道三〉が、尾張〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉で初対面して攻守同盟を結んだ日。
尾張で「うつけ者」と云われる〈織田信長〉は、身嗜みも乱れて素行悪く、家臣領民達からもバカにされていて…尾張国内を統一出来ていなかった〈織田信長〉に、正室〈帰蝶きちょう=濃姫のうひめ〉の父親で悪名高い〈蝮=斎藤道三〉から、舅と婿の初対面を申し入れ
舅〈斎籐道三〉は「うつけ者」と噂される娘婿を一目見ようと〈織田信長〉に、美濃と尾張の国境〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉での会見を求めたが…これは〈蝮=道三〉の謀略で
〈織田信長〉の身嗜みの無礼を咎めて
無礼討ちにして、直ちに尾張を奪取せんと画策していたのだった…
しかし!いざ〈聖徳寺〉の会見場に現れた娘娘信長は正装で折り目正しく
舅道三をたしなめ
〈斎藤道三〉の方が〈織田信長〉の奥底に秘めた器量と武将としての行く末、可能性に感服してしまった〈斎藤道三〉は
「いづれ我が子や孫達は、信長の前に馬の轡(くつわ)を繋ぐであろう!」と我が子〈斎藤新九郎高政=後の斎藤義竜〉以上に娘婿信長を高く買って
駿河
遠江・三河の〈今川義元〉が大軍で押し寄せて来たときは、援軍を送ると約定したのであった

更に1555年弘治元年に尾張〈那古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈織田上総介信長〉が、叔父の〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田信光〉を〈張守護代=織田彦五郎信友〉の本拠〈清須城〉(現愛知県清須市)に内通させて〈清洲城=南櫓〉に潜入させ〈織田信友〉家老〈坂井大膳〉が礼問しようとしたところ〈織田信光〉が物々しい戦仕度だった事から
〈清洲城〉から駿河
へ逃亡して〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉を頼り〈織田信光〉は易々と〈清洲城=本丸〉の〈織田信友〉を捕らえて自刃させた日
そして〈織田信長〉は〈尾張守護職=斯波義銀しばよしかね〉を奉じて〈清洲城〉に入城し
代わって〈那古屋城=後の名古屋城〉を〈織田信光〉に与えたのだった。
更に1556年弘治2年に美濃〈鷺山城〉(現岐阜県岐阜市)の「美濃の蝮(まむし)」と悪名高い〈斎藤利政入道道三〉が〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主の、嫡男〈斎藤新九郎高政後の斎藤義竜〉と〈
長良川
〉河畔で激突し
〈斎藤道三〉方2千7百
に対して〈斎藤義竜〉方1万7千
で〈蝮の道三〉方は、多勢に無勢で
尾張〈清洲城〉の娘婿〈織田信長〉に、美濃の国を譲り渡すと遺言状を遺して〈長良川の合戦
〉で
討ち死にした日
享年63歳。
養父〈斎藤道三〉を討った、嫡男〈斎藤高政=後の斎藤義竜〉は〈蝮=道三〉の実子でなく〈前美濃守護=土岐頼芸ときよりあき〉の子供であったと噂されていた…〈蝮=道三〉は、家督を嫡男〈斎藤高政=後の斎藤義竜〉に譲り自身は隠居していたが、事実上は〈蝮=道三〉が合戦
と謀略に明け暮れて、民政安定の政治を執り行わなかった事で、家臣達が〈斎藤高政〉をけしかけて
〈蝮の道三〉に隠居をせまり
当主を〈斎藤高政〉に代えて〈孫四郎〉〈喜平次〉ら弟達二人を殺害し
養父道三と対立
ついには〈長良川の合戦
〉に及んだのだった…
討死した〈蝮の道三〉の遺骸は、足軽雑兵達が争って首ばかりか
耳
や鼻までも削ぎ落とされ
遺骸は
長良川河畔
にうち捨てられたのだった
一方、亡き〈斎藤道三〉の娘婿〈織田信長〉は、急ぎ道三方への援軍に出陣して来たが
途中〈斎藤道三〉討ち死にの知らせを聞き
尾張へ引き返し
後に〈織田信長〉は〈斎藤道三〉の遺言を大義名分に、道三の孫〈斎藤竜興〉(斎藤義竜嫡男)を〈稲葉山城〉に攻めたてて
美濃を奪取するのである…
更に1559年永禄2年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉還京祝賀と「関東菅領職」就任許認可奏上併せて〈山内上杉憲政〉の養嗣子縁組許認可申請の為、手勢3千を率いて再び京都に上洛すべく、近江〈坂本〉に到着した日
更に1564年永禄7年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が、陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名盛氏〉を調略して、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉を牽制することを要請し
これに応じた〈芦名盛氏〉は家臣〈小田切弾正〉を〈菅名〉に侵攻させた日で
〈上杉輝虎〉は芦名軍を撃退したのだった
更に1567年永禄10年に下野〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)主〈佐野昌綱〉が反旗を翻した為、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、下野〈小山城〉(現栃木県小山市)主〈小山秀綱〉や武蔵〈岩付城〉(現埼玉県さいたま市岩槻区)主〈太田三楽斎資正〉ら関東諸将らに参陣を要請して〈唐沢山城〉を攻撃した日
更に1569年永禄12年にキリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉と日本人修道士〈ロレンソ〉と日蓮宗〈日乗〉上人が、京都洛中〈妙覚寺〉で、美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉の面前で宗論し
答えに詰まった〈日乗〉上人が〈ロレンソ〉に斬りつけようとして取り押さえられ〈織田信長〉はキリスト教保護政策を決定した日。
更に1570年永禄13年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が〈明智十兵衛光秀〉ら室町幕府幕臣や公卿〈飛鳥井雅敦〉〈日野輝資〉や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉ら総勢3万を率いて
若狭〈加斗城〉(現福井県小浜市)主〈武藤友益〉征伐を口実に
実質上越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉討伐に出陣
近江〈堅田〉に着陣した日
更に1583年天正11年に、前年6月勃発した〈本能寺の変
〉で横死した〈織田信長〉の弔い合戦
〈山崎の合戦
〉で謀叛人〈明智光秀〉を討伐した殊勲者で
摂津〈茨木城〉(現大阪府茨木市)主〈中川清秀〉が〈羽柴秀吉=後の太閤=豊臣秀吉〉対〈柴田勝家〉の対決した1583年天正11年4月の〈賤ヶ岳の合戦
〉で〈大岩山砦〉を守備していたが、柴田軍の猛将〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉隊
の猛攻
により討死した命日で享年42歳
〈佐久間盛政〉は総大将〈柴田勝家〉の撤退命令を無視して
〈岩崎山砦〉の〈高山右近〉を敗走させ
尚も〈大岩山砦〉に布陣し
〈賤ヶ岳砦〉を守備する〈桑山重晴〉も日没後に〈賤ヶ岳砦〉を〈佐久間盛政〉軍に引き渡し撤退したのだった
一方〈大岩山砦〉陥落を知った、美濃へ出陣した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は
北国脇往還沿道の村々に一戸つき米一升の炊き出しと篝火を命じ
〈大垣城〉(現岐阜県大垣市)を発って19時頃に北近江〈木之本〉への道52㌔を5時間で大返しした日

同じ日〈羽柴秀吉〉と備中〈高松城水責め
〉で和睦した、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉と「毛利両川」〈吉川元春〉(毛利元就次男)〈小早川隆景〉(毛利元就三男)〈福原長尭〉らが、安芸高田郡〈坂城〉で〈柴田権六勝家〉からも合力要請が有り
毛利家としては〈羽柴秀吉〉に〈小早川隆景〉〈安国寺恵瓊〉が〈柴田勝家〉に〈吉川元春〉が折衝に当り双方に書状
を遣わして、織田家の勢力争いを傍観する事を決定した日。
更に1584年天正12年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じた〈天正壬午の乱
〉で、甲斐で対峙中だった
遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍と相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉軍が膠着状態となる中
苦戦中だった〈小田原城〉隠居〈北条氏政〉からの和睦要請を受諾して、北条方から徳川方に寝返っていた、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)上野〈岩櫃城いわびつ〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)〈沼田城〉(現群馬県沼田市)主〈真田安房守昌幸〉は〈徳川家康〉が〈北条氏政〉との和睦条件に旧武田領の甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領との約定を締結させて〈沼田城〉を北条家に引き渡すよう〈徳川家康〉から申し渡された事に激怒して
〈徳川家康〉の要請を拒絶して
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉に再び服属を願い出てm(__)m徳川から離反した日。
しかし〈上杉景勝〉〈直江兼続〉主従は
一度上杉家を裏切って〈北条氏直〉に寝返った表裏卑怯な〈真田昌幸〉が信頼出来ず
〈真田昌幸〉に人質を要求して〈真田昌幸〉は
徳川・北条連合軍襲来に備えて上杉家を味方に付けておかねばならず
次男〈真田源次郎=真田幸村〉を〈春日山城〉に人質として差し出すのであった…
更に1588年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐後
肥後・豊前で反旗を翻した国衆を許さない〈関白秀吉〉の命令で
豊前〈中津城〉(現大分県中津市)主の軍師〈黒田官兵衛孝高〉が、豊前〈城井谷城〉(現福岡県築上郡築上町)主〈宇都宮鎮房〉を〈中津城〉で捕らえて、嫡男〈黒田長政〉が謀殺し
宇都宮家臣も〈合元寺〉で殺害され
更に〈黒田長政〉は〈城井谷城〉を奇襲して攻略し
豊前を平定した日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈槍の又左=前田利家〉率いる〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉〈依田康国〉北国軍が
相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の、西上野〈松井田城〉(現群馬県安中市)将〈大道寺駿河守政繁〉の降服を受諾して〈小田原城〉への道案内に助命した日。
更に1598年慶長3年に豊臣家五大老〈加賀大納言=前田利家〉が嫡男〈前田利長〉に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)と家督を譲り隠居した日。
よって件の如し
恐々謹言卯月二十日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*) イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日4月20日は1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈第一次河東の一乱
〉で占領した駿河
富士郡の富士下方衆〈矢部氏〉らが反旗を翻した為
下方衆24人を討ち取った日。更に1544年天文13年に〈後奈良天皇〉が「勅使ちょくし」として〈勧修寺晴秀〉を、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に派遣して、越後の静謐(せいひつ)を命じ、豊年のため「震筆御心経」1巻を神前に奉納することを通達した日。
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈高遠城〉(現長野県伊那市)主〈高遠(諏訪)頼継〉を追って〈高遠城〉を占拠した後〈福与城=箕輪城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を攻撃した日

更に1546年天文15年に相模〈小田原城〉主〈北条氏康〉が、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)を包囲する〈古河公方=足利晴氏〉〈関東菅領=山内上杉憲政〉〈扇ヶ谷上杉朝定〉連合軍8万余の大軍
を〈河越の夜戦
〉で討ち敗った日
武蔵〈河越城〉城将〈北条綱成〉は『黄八幡』『地黄八幡』として名高く
武蔵〈河越城〉は〈古河公方=足利晴氏〉を擁立した〈関東管領=山内上杉憲政〉=〈扇ヶ谷上杉朝定〉連合軍八万余の大軍
が蟻の這い出る隙間も無く、十重八十重に包囲し
もはや落城も時間の問題であった…
その〈河越城〉救援の為、相模〈小田原城〉から〈北条氏康〉は8千の軍勢を率いて
北条軍は闇夜での同士討ちを避ける為、合言葉と白い襷(たすき)を用いて、足利=両上杉連合軍に夜襲
を敢行し
〈北条氏康〉の反撃により〈山内上杉憲政〉は上州へ
〈古河公方足利晴氏〉は古河へ敗走し
更に城方からも〈黄八幡=北条綱成〉が討って出て
乱戦
の中で〈扇ヶ谷上杉朝定〉は討ち死にして、扇ヶ谷上杉家は滅亡し
戦国三代奇襲戦
に数えられる〈河越の夜戦
〉として、天下に〈北条氏康〉名が轟いた日
この〈河越の夜戦
〉から「勝って兜の緒を締めよ
」という名言が生まれ
最近の研究では、攻め寄せて来た〈山内上杉憲政〉軍を〈砂久保〉(現埼玉県川越市)に本陣を敷いた〈北条氏康〉軍が、迎撃して討ち敗ったとされる…更に1553年天文22年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉と、舅にあたる美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤道三〉が、尾張〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉で初対面して攻守同盟を結んだ日。
尾張で「うつけ者」と云われる〈織田信長〉は、身嗜みも乱れて素行悪く、家臣領民達からもバカにされていて…尾張国内を統一出来ていなかった〈織田信長〉に、正室〈帰蝶きちょう=濃姫のうひめ〉の父親で悪名高い〈蝮=斎藤道三〉から、舅と婿の初対面を申し入れ
舅〈斎籐道三〉は「うつけ者」と噂される娘婿を一目見ようと〈織田信長〉に、美濃と尾張の国境〈富田とんだ〉の〈聖徳寺〉での会見を求めたが…これは〈蝮=道三〉の謀略で
〈織田信長〉の身嗜みの無礼を咎めて
無礼討ちにして、直ちに尾張を奪取せんと画策していたのだった…しかし!いざ〈聖徳寺〉の会見場に現れた娘娘信長は正装で折り目正しく
舅道三をたしなめ
〈斎藤道三〉の方が〈織田信長〉の奥底に秘めた器量と武将としての行く末、可能性に感服してしまった〈斎藤道三〉は
「いづれ我が子や孫達は、信長の前に馬の轡(くつわ)を繋ぐであろう!」と我が子〈斎藤新九郎高政=後の斎藤義竜〉以上に娘婿信長を高く買って
駿河
遠江・三河の〈今川義元〉が大軍で押し寄せて来たときは、援軍を送ると約定したのであった

更に1555年弘治元年に尾張〈那古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈織田上総介信長〉が、叔父の〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田信光〉を〈張守護代=織田彦五郎信友〉の本拠〈清須城〉(現愛知県清須市)に内通させて〈清洲城=南櫓〉に潜入させ〈織田信友〉家老〈坂井大膳〉が礼問しようとしたところ〈織田信光〉が物々しい戦仕度だった事から
〈清洲城〉から駿河
へ逃亡して〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉を頼り〈織田信光〉は易々と〈清洲城=本丸〉の〈織田信友〉を捕らえて自刃させた日
そして〈織田信長〉は〈尾張守護職=斯波義銀しばよしかね〉を奉じて〈清洲城〉に入城し
代わって〈那古屋城=後の名古屋城〉を〈織田信光〉に与えたのだった。更に1556年弘治2年に美濃〈鷺山城〉(現岐阜県岐阜市)の「美濃の蝮(まむし)」と悪名高い〈斎藤利政入道道三〉が〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主の、嫡男〈斎藤新九郎高政後の斎藤義竜〉と〈
長良川
〉河畔で激突し
〈斎藤道三〉方2千7百
に対して〈斎藤義竜〉方1万7千
で〈蝮の道三〉方は、多勢に無勢で
尾張〈清洲城〉の娘婿〈織田信長〉に、美濃の国を譲り渡すと遺言状を遺して〈長良川の合戦
〉で
討ち死にした日
享年63歳。養父〈斎藤道三〉を討った、嫡男〈斎藤高政=後の斎藤義竜〉は〈蝮=道三〉の実子でなく〈前美濃守護=土岐頼芸ときよりあき〉の子供であったと噂されていた…〈蝮=道三〉は、家督を嫡男〈斎藤高政=後の斎藤義竜〉に譲り自身は隠居していたが、事実上は〈蝮=道三〉が合戦
と謀略に明け暮れて、民政安定の政治を執り行わなかった事で、家臣達が〈斎藤高政〉をけしかけて
〈蝮の道三〉に隠居をせまり
当主を〈斎藤高政〉に代えて〈孫四郎〉〈喜平次〉ら弟達二人を殺害し
養父道三と対立
ついには〈長良川の合戦
〉に及んだのだった…討死した〈蝮の道三〉の遺骸は、足軽雑兵達が争って首ばかりか
耳
や鼻までも削ぎ落とされ
遺骸は
長良川河畔
にうち捨てられたのだった一方、亡き〈斎藤道三〉の娘婿〈織田信長〉は、急ぎ道三方への援軍に出陣して来たが

途中〈斎藤道三〉討ち死にの知らせを聞き
尾張へ引き返し
後に〈織田信長〉は〈斎藤道三〉の遺言を大義名分に、道三の孫〈斎藤竜興〉(斎藤義竜嫡男)を〈稲葉山城〉に攻めたてて
美濃を奪取するのである…更に1559年永禄2年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉還京祝賀と「関東菅領職」就任許認可奏上併せて〈山内上杉憲政〉の養嗣子縁組許認可申請の為、手勢3千を率いて再び京都に上洛すべく、近江〈坂本〉に到着した日

更に1564年永禄7年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が、陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈芦名盛氏〉を調略して、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉を牽制することを要請し
これに応じた〈芦名盛氏〉は家臣〈小田切弾正〉を〈菅名〉に侵攻させた日で
〈上杉輝虎〉は芦名軍を撃退したのだった
更に1567年永禄10年に下野〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)主〈佐野昌綱〉が反旗を翻した為、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、下野〈小山城〉(現栃木県小山市)主〈小山秀綱〉や武蔵〈岩付城〉(現埼玉県さいたま市岩槻区)主〈太田三楽斎資正〉ら関東諸将らに参陣を要請して〈唐沢山城〉を攻撃した日

更に1569年永禄12年にキリスト教イエズス会宣教師〈ルイス・フロイス〉と日本人修道士〈ロレンソ〉と日蓮宗〈日乗〉上人が、京都洛中〈妙覚寺〉で、美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉の面前で宗論し
答えに詰まった〈日乗〉上人が〈ロレンソ〉に斬りつけようとして取り押さえられ〈織田信長〉はキリスト教保護政策を決定した日。更に1570年永禄13年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉が〈明智十兵衛光秀〉ら室町幕府幕臣や公卿〈飛鳥井雅敦〉〈日野輝資〉や遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉ら総勢3万を率いて
若狭〈加斗城〉(現福井県小浜市)主〈武藤友益〉征伐を口実に
実質上越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉討伐に出陣
近江〈堅田〉に着陣した日
更に1583年天正11年に、前年6月勃発した〈本能寺の変
〉で横死した〈織田信長〉の弔い合戦
〈山崎の合戦
〉で謀叛人〈明智光秀〉を討伐した殊勲者で
摂津〈茨木城〉(現大阪府茨木市)主〈中川清秀〉が〈羽柴秀吉=後の太閤=豊臣秀吉〉対〈柴田勝家〉の対決した1583年天正11年4月の〈賤ヶ岳の合戦
〉で〈大岩山砦〉を守備していたが、柴田軍の猛将〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉隊
の猛攻
により討死した命日で享年42歳
〈佐久間盛政〉は総大将〈柴田勝家〉の撤退命令を無視して
〈岩崎山砦〉の〈高山右近〉を敗走させ
尚も〈大岩山砦〉に布陣し
〈賤ヶ岳砦〉を守備する〈桑山重晴〉も日没後に〈賤ヶ岳砦〉を〈佐久間盛政〉軍に引き渡し撤退したのだった
一方〈大岩山砦〉陥落を知った、美濃へ出陣した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は
北国脇往還沿道の村々に一戸つき米一升の炊き出しと篝火を命じ
〈大垣城〉(現岐阜県大垣市)を発って19時頃に北近江〈木之本〉への道52㌔を5時間で大返しした日

同じ日〈羽柴秀吉〉と備中〈高松城水責め
〉で和睦した、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉と「毛利両川」〈吉川元春〉(毛利元就次男)〈小早川隆景〉(毛利元就三男)〈福原長尭〉らが、安芸高田郡〈坂城〉で〈柴田権六勝家〉からも合力要請が有り
毛利家としては〈羽柴秀吉〉に〈小早川隆景〉〈安国寺恵瓊〉が〈柴田勝家〉に〈吉川元春〉が折衝に当り双方に書状
を遣わして、織田家の勢力争いを傍観する事を決定した日。更に1584年天正12年に〈本能寺の変
〉後の混乱に乗じた〈天正壬午の乱
〉で、甲斐で対峙中だった
遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉軍と相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉軍が膠着状態となる中
苦戦中だった〈小田原城〉隠居〈北条氏政〉からの和睦要請を受諾して、北条方から徳川方に寝返っていた、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)上野〈岩櫃城いわびつ〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)〈沼田城〉(現群馬県沼田市)主〈真田安房守昌幸〉は〈徳川家康〉が〈北条氏政〉との和睦条件に旧武田領の甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領との約定を締結させて〈沼田城〉を北条家に引き渡すよう〈徳川家康〉から申し渡された事に激怒して
〈徳川家康〉の要請を拒絶して
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉に再び服属を願い出てm(__)m徳川から離反した日。しかし〈上杉景勝〉〈直江兼続〉主従は
一度上杉家を裏切って〈北条氏直〉に寝返った表裏卑怯な〈真田昌幸〉が信頼出来ず
〈真田昌幸〉に人質を要求して〈真田昌幸〉は
徳川・北条連合軍襲来に備えて上杉家を味方に付けておかねばならず
次男〈真田源次郎=真田幸村〉を〈春日山城〉に人質として差し出すのであった…更に1588年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐後
肥後・豊前で反旗を翻した国衆を許さない〈関白秀吉〉の命令で
豊前〈中津城〉(現大分県中津市)主の軍師〈黒田官兵衛孝高〉が、豊前〈城井谷城〉(現福岡県築上郡築上町)主〈宇都宮鎮房〉を〈中津城〉で捕らえて、嫡男〈黒田長政〉が謀殺し
宇都宮家臣も〈合元寺〉で殺害され
更に〈黒田長政〉は〈城井谷城〉を奇襲して攻略し
豊前を平定した日。更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈槍の又左=前田利家〉率いる〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉〈依田康国〉北国軍が
相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の、西上野〈松井田城〉(現群馬県安中市)将〈大道寺駿河守政繁〉の降服を受諾して〈小田原城〉への道案内に助命した日。更に1598年慶長3年に豊臣家五大老〈加賀大納言=前田利家〉が嫡男〈前田利長〉に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)と家督を譲り隠居した日。
よって件の如し

恐々謹言卯月二十日
太閤
鍛練断念
京都〈嵯峨〉の〈医師=吉田宗桂〉の父親〈吉田宗忠〉(室町幕府第10代将軍=足利義稙侍医・長男は京都豪商角倉了以)
〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉が羽柴方〈中川清秀〉が守備する〈大岩山砦〉(現滋賀県伊香郡余呉町)将〈中川清秀〉攻略を進言し
まづは内股内転筋鍛練アダクション62㌔負荷3set計66回+尻外転筋鍛練アブダクション62㌔負荷3set計66回+上腕二頭筋鍛練プリーチャーベンチアームカール36㌔負荷5set計30回+脚大腿四頭筋・尻大臀筋鍛練スミスマシンスクワット90㌔負荷5set計50回+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ12㌔負荷5set計60回+脹ら脛ヒラメ筋鍛練スミスマシンカーフレイズ130㌔負荷3set計260回+肩三角筋鍛練スミスマシンショルダープレス60㌔負荷5set計50回+ラスト乳筋・肩三角筋・上腕三頭筋鍛練自重ディップス3set計60回鍛練仕り申したぜィ
誓ったのだった…