俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今週も休日出勤ゴルフ接待
昨日は残業ナッシブルだったけど、今日がゴルフ接待
だったから江戸表前泊で鍛練断念
今朝は4時起床予定が4:50起床はビビって
最初からクライマックスだぜィ
今日4月23日は1552年天文21年に〈正親町天皇おうぎまち〉の第五皇子〈誠仁親王さねひと〉が誕生した日
同じ日、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に〈後陽成天皇ごようぜい〉より「従五位下弾正少弼」の官位が贈られた日。
更に1553年天文22年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が、前日北信濃〈第一次川中島の合戦
=八幡の合戦
〉で、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信入道信玄〉方を〈八幡の合戦
〉で撃退した長尾軍先鋒〈村上義清〉が、旧領埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)を奪回し
武田方〈於曾源八郎〉が討死した日
更に1557年弘治3年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が北信濃〈善光寺〉(現長野県長野市)に着陣して
〈第二回川中島の合戦
〉で、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉の仲裁により、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉との和平案の条件にあった武田方の〈旭山城〉(現長野県長野市)の破却であったが…和睦締結後に武田方の手で破却された〈旭山城〉を再興して〈葛山城〉(現長野県長野市)下に放火した日。
更に1570元亀元年に朝廷が元号を「永禄」から「元亀」に改元された日
年号の改元は「祥瑞しょうずい」(めでたい事)が有ったときや、真逆に災難異変が続いたときなどに、改元されていたが、近世明治時代から「一世一元」制度となり
天皇一代で一元となっている。
かつて戦国時代の〈後奈良天皇〉〈正親町天皇〉〈後陽成天皇〉は、一人で何度も改元することも有り…元号の改元は、古来から朝廷の権限であったが…鎌倉時代末期から室町時代にかけて、鎌倉幕府や室町幕府が改元に関わる様になり
時の「征夷大将軍」が、年号を内定し
天皇が許認可する形となっていった…
これより以前にも
「弘治」から「永禄」への改元時には異例で、一戦国大名の〈三好長慶〉と対立して
近江〈朽木〉谷に逃れて
4年以上もの長い間、京都を不在にして朝廷に勤仕出来ず
常態化していた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉(足利義昭の兄)には〈正親町天皇〉が相談する事も無く
〈三好長慶〉に図って「永禄」の元号を決定した為
〈将軍義輝〉は、朝廷の対応に激怒
「弘治」の元号を使用し続けていたのだった…
この新元号「永禄」改元には、全国の諸大名の対応も分かれていて、駿河
の〈今川義元〉や、甲斐
の〈武田晴信=後の武田信玄〉相模の〈北条氏康〉等、東国の戦国大名達は「永禄」改元に従い
〈三好長慶〉と敵対関係にあった
西国安芸の〈毛利元就〉は「弘治」元号を使い続けて、二つの元号が存在していたのだった…
やがて
天下統一を推し進める〈織田信長〉は「元亀」年間に入り、自らが擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉と対立し
〈将軍義昭〉が画策した
織田包囲網により、越前〈朝倉義景〉北近江〈浅井長政〉南近江〈六角承禎〉摂津大坂〈石山本願寺〉紀伊〈雑賀党〉〈根来寺〉阿波〈三好三人衆〉大和〈松永弾上〉甲斐〈武田信玄〉らと戦い
苦戦を強いられた〈織田信長〉は
〈将軍義昭〉に「一七ヵ条異見書」を突きつけ
「元亀の年号は不吉であるから、早々に改元すべき」と改元を要求迫ったのだった

しかし〈将軍義昭〉には、改元費用を捻出する事は出来なかったが1573年7月には、元号がようやく「天正」に改まったのであった。
同じ日、天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉連合軍が
越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉と敵対していた、若狭〈後瀬山城〉(現福井県小浜市)〈武田義統〉〈武田元明〉重臣〈粟屋勝久〉の若狭〈国吉城〉(現福井県三方郡美浜町)に入城して
軍議を開いた日。
更に1572年元亀3年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉連合軍が〈
利根川
〉を挟んで、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉軍と対峙していたが
越後に帰国した日
同じ頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉軍が鹿垣で包囲していた〈三好義継〉〈松永弾正少弼久秀〉らを、風雨に乗じて取り逃してしまい
〈三好義継〉は河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)へ
〈松永弾正〉は大和〈信貴山城〉(現奈良県生駒郡平群町)へ退却して各々籠城したのだった。
更に1573年天正元年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉の死を知った日
飛彈〈高原諏訪城〉(現岐阜県飛騨市)主〈江間輝盛〉は〈武田信玄〉との同盟を結んでいたが…〈上杉謙信〉方に寝返ったことで〈上杉謙信〉は、常に〈武田信玄〉の動静を窺う為〈脚力〉と呼ばれる忍者を放っていたところ
そこに〈武田信玄〉が〈三方ヶ原の合戦
〉で〈徳川家康〉を討ち敗り、三河〈野田城〉を攻略
した後〈長篠城〉(現愛知県新城市)へ転進して重体となり
奧三河からの帰途
4月12日信濃〈駒場〉で死去したとの情報を
南信濃から日本アルプスを越えて、奥飛騨〈高原諏訪城〉(現岐阜県飛騨市)を経て、越中〈富山城〉(現富山県富山市)へと伝わり4月23日に越後〈春日山城〉主〈上杉謙信〉に元に届けられ
その知らせを受けた時〈上杉謙信〉は、食事中であったが、持っていた箸を落とし、宿敵〈武田信玄〉の死を悼んだという…
その後、続々と〈武田信玄〉死去の続報がもたらされ…〈武田信玄〉の死を確信した〈上杉謙信〉は
同盟を結んでいた、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に、武田領信濃・甲斐への同時侵攻を要請したが…
〈織田信長〉は、強敵〈武田信玄〉の再びの上洛戦の可能性が、薄くなったと判断し
武田攻めは後回しにして、越前〈朝倉義景〉北近江〈浅井長政〉攻めに、本腰を入れていくのであった…
更に1582年天正10年に3月〈武田勝頼〉〈武田〉父子を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉の近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市〉への凱旋帰還を祝して、朝廷は〈正親町天皇〉の「勅使ちょくし」として〈武家伝奏=勧修寺晴豊〉と〈庭田重保〉〈甘露寺経元〉〈伊勢祭主=藤波慶忠〉らを派遣して、明け方〈安土城〉へ到着し、織田家臣〈京都奉行=松井友閑〉と対面した日。
同じ日、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)将〈山本寺景長〉〈吉江信景=吉江資堅〉〈中条景泰〉〈竹俣景綱〉〈寺嶋長資〉らが連署して、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉重臣〈直江兼続〉に決死の覚悟を告げ
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田権六勝家〉率いる〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉ら織田軍を迎撃するとの決意を〈上杉景勝〉に披露してほしいと要請した日。
更に1583年天正11年に21日〈賤ヶ岳の合戦
〉で〈柴田勝家〉軍を撃破した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は、柴田方から寝返った〈槍の又左=前田利家〉を先鋒として、越前〈北ノ庄城〉を包囲し
二の丸・三の丸を攻略して
本丸への攻撃を開始したため
〈柴田勝家〉は最期を覚悟し
〈お市の方〉や重臣〈中村宗教入道文荷斎〉〈小島若狭守〉らと別れの酒宴を開いた日。
更に1580年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈島津義久〉降服後、肥後・豊前等で勃発した国衆一揆で、豊前を拝領した〈関白秀吉〉軍師〈黒田官兵衛孝高〉に肥後の国一揆討伐に出陣した
豊前〈城井郷城〉(現福岡県築上郡築上町)主〈宇都宮鎮房〉嫡男〈宇都宮朝房〉が〈黒田官兵衛孝高〉の命で14日豊前〈中津城〉(現大分県中津市)内で嫡男〈黒田長政〉に騙し討ちした事を知らず
肥後〈木の葉〉で〈加藤清正〉の手勢に暗殺された日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈中納言=前田利家〉率いる〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉ら北国軍らが、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の上野〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)を攻略し
〈浅野長吉=後の浅野長政〉と合流した
常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉連合軍が
北条方の下野〈壬生城みぶ〉(現栃木県下都賀郡壬生町)〈鹿沼城〉(現栃木県鹿沼市)を攻略した日
同じ日、北条方の伊豆〈下田城〉(現静岡県下田市)将〈清水康英〉〈高橋郷左衛門尉〉ら6百を〈関白秀吉〉軍〈脇坂安治〉〈安国寺恵瓊〉ら1万4千が包囲し
籠城50日で降服開城した日。
よって件の如し
恐々謹言卯月二十三日
太閤




参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今週も休日出勤ゴルフ接待
昨日は残業ナッシブルだったけど、今日がゴルフ接待
だったから江戸表前泊で鍛練断念
今朝は4時起床予定が4:50起床はビビって
最初からクライマックスだぜィ
今日4月23日は1552年天文21年に〈正親町天皇おうぎまち〉の第五皇子〈誠仁親王さねひと〉が誕生した日

同じ日、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉に〈後陽成天皇ごようぜい〉より「従五位下弾正少弼」の官位が贈られた日。
更に1553年天文22年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が、前日北信濃〈第一次川中島の合戦
=八幡の合戦
〉で、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信入道信玄〉方を〈八幡の合戦
〉で撃退した長尾軍先鋒〈村上義清〉が、旧領埴科郡〈葛尾城かつらお〉(現長野県埴科郡坂城町)を奪回し
武田方〈於曾源八郎〉が討死した日
更に1557年弘治3年に越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が北信濃〈善光寺〉(現長野県長野市)に着陣して
〈第二回川中島の合戦
〉で、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉の仲裁により、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉との和平案の条件にあった武田方の〈旭山城〉(現長野県長野市)の破却であったが…和睦締結後に武田方の手で破却された〈旭山城〉を再興して〈葛山城〉(現長野県長野市)下に放火した日。更に1570元亀元年に朝廷が元号を「永禄」から「元亀」に改元された日

年号の改元は「祥瑞しょうずい」(めでたい事)が有ったときや、真逆に災難異変が続いたときなどに、改元されていたが、近世明治時代から「一世一元」制度となり
天皇一代で一元となっている。かつて戦国時代の〈後奈良天皇〉〈正親町天皇〉〈後陽成天皇〉は、一人で何度も改元することも有り…元号の改元は、古来から朝廷の権限であったが…鎌倉時代末期から室町時代にかけて、鎌倉幕府や室町幕府が改元に関わる様になり
時の「征夷大将軍」が、年号を内定し
天皇が許認可する形となっていった…これより以前にも
「弘治」から「永禄」への改元時には異例で、一戦国大名の〈三好長慶〉と対立して
近江〈朽木〉谷に逃れて
4年以上もの長い間、京都を不在にして朝廷に勤仕出来ず
常態化していた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉(足利義昭の兄)には〈正親町天皇〉が相談する事も無く
〈三好長慶〉に図って「永禄」の元号を決定した為
〈将軍義輝〉は、朝廷の対応に激怒
「弘治」の元号を使用し続けていたのだった…この新元号「永禄」改元には、全国の諸大名の対応も分かれていて、駿河
の〈今川義元〉や、甲斐
の〈武田晴信=後の武田信玄〉相模の〈北条氏康〉等、東国の戦国大名達は「永禄」改元に従い
〈三好長慶〉と敵対関係にあった
西国安芸の〈毛利元就〉は「弘治」元号を使い続けて、二つの元号が存在していたのだった…やがて
天下統一を推し進める〈織田信長〉は「元亀」年間に入り、自らが擁立した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉と対立し
〈将軍義昭〉が画策した
織田包囲網により、越前〈朝倉義景〉北近江〈浅井長政〉南近江〈六角承禎〉摂津大坂〈石山本願寺〉紀伊〈雑賀党〉〈根来寺〉阿波〈三好三人衆〉大和〈松永弾上〉甲斐〈武田信玄〉らと戦い
苦戦を強いられた〈織田信長〉は
〈将軍義昭〉に「一七ヵ条異見書」を突きつけ
「元亀の年号は不吉であるから、早々に改元すべき」と改元を要求迫ったのだった

しかし〈将軍義昭〉には、改元費用を捻出する事は出来なかったが1573年7月には、元号がようやく「天正」に改まったのであった。
同じ日、天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉連合軍が
越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉と敵対していた、若狭〈後瀬山城〉(現福井県小浜市)〈武田義統〉〈武田元明〉重臣〈粟屋勝久〉の若狭〈国吉城〉(現福井県三方郡美浜町)に入城して
軍議を開いた日。更に1572年元亀3年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉連合軍が〈
利根川
〉を挟んで、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉軍と対峙していたが
越後に帰国した日
同じ頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉軍が鹿垣で包囲していた〈三好義継〉〈松永弾正少弼久秀〉らを、風雨に乗じて取り逃してしまい
〈三好義継〉は河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)へ
〈松永弾正〉は大和〈信貴山城〉(現奈良県生駒郡平群町)へ退却して各々籠城したのだった。更に1573年天正元年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉の死を知った日

飛彈〈高原諏訪城〉(現岐阜県飛騨市)主〈江間輝盛〉は〈武田信玄〉との同盟を結んでいたが…〈上杉謙信〉方に寝返ったことで〈上杉謙信〉は、常に〈武田信玄〉の動静を窺う為〈脚力〉と呼ばれる忍者を放っていたところ
そこに〈武田信玄〉が〈三方ヶ原の合戦
〉で〈徳川家康〉を討ち敗り、三河〈野田城〉を攻略
した後〈長篠城〉(現愛知県新城市)へ転進して重体となり
奧三河からの帰途
4月12日信濃〈駒場〉で死去したとの情報を
南信濃から日本アルプスを越えて、奥飛騨〈高原諏訪城〉(現岐阜県飛騨市)を経て、越中〈富山城〉(現富山県富山市)へと伝わり4月23日に越後〈春日山城〉主〈上杉謙信〉に元に届けられ
その知らせを受けた時〈上杉謙信〉は、食事中であったが、持っていた箸を落とし、宿敵〈武田信玄〉の死を悼んだという…
その後、続々と〈武田信玄〉死去の続報がもたらされ…〈武田信玄〉の死を確信した〈上杉謙信〉は
同盟を結んでいた、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に、武田領信濃・甲斐への同時侵攻を要請したが…〈織田信長〉は、強敵〈武田信玄〉の再びの上洛戦の可能性が、薄くなったと判断し
武田攻めは後回しにして、越前〈朝倉義景〉北近江〈浅井長政〉攻めに、本腰を入れていくのであった…更に1582年天正10年に3月〈武田勝頼〉〈武田〉父子を攻め滅ぼした〈前右大臣=織田信長〉の近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市〉への凱旋帰還を祝して、朝廷は〈正親町天皇〉の「勅使ちょくし」として〈武家伝奏=勧修寺晴豊〉と〈庭田重保〉〈甘露寺経元〉〈伊勢祭主=藤波慶忠〉らを派遣して、明け方〈安土城〉へ到着し、織田家臣〈京都奉行=松井友閑〉と対面した日。
同じ日、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)将〈山本寺景長〉〈吉江信景=吉江資堅〉〈中条景泰〉〈竹俣景綱〉〈寺嶋長資〉らが連署して、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉重臣〈直江兼続〉に決死の覚悟を告げ
越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田権六勝家〉率いる〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉ら織田軍を迎撃するとの決意を〈上杉景勝〉に披露してほしいと要請した日。更に1583年天正11年に21日〈賤ヶ岳の合戦
〉で〈柴田勝家〉軍を撃破した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は、柴田方から寝返った〈槍の又左=前田利家〉を先鋒として、越前〈北ノ庄城〉を包囲し
二の丸・三の丸を攻略して
本丸への攻撃を開始したため
〈柴田勝家〉は最期を覚悟し
〈お市の方〉や重臣〈中村宗教入道文荷斎〉〈小島若狭守〉らと別れの酒宴を開いた日。更に1580年天正16年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈島津義久〉降服後、肥後・豊前等で勃発した国衆一揆で、豊前を拝領した〈関白秀吉〉軍師〈黒田官兵衛孝高〉に肥後の国一揆討伐に出陣した
豊前〈城井郷城〉(現福岡県築上郡築上町)主〈宇都宮鎮房〉嫡男〈宇都宮朝房〉が〈黒田官兵衛孝高〉の命で14日豊前〈中津城〉(現大分県中津市)内で嫡男〈黒田長政〉に騙し討ちした事を知らず
肥後〈木の葉〉で〈加藤清正〉の手勢に暗殺された日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈中納言=前田利家〉率いる〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉ら北国軍らが、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の上野〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)を攻略し
〈浅野長吉=後の浅野長政〉と合流した
常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉連合軍が
北条方の下野〈壬生城みぶ〉(現栃木県下都賀郡壬生町)〈鹿沼城〉(現栃木県鹿沼市)を攻略した日
同じ日、北条方の伊豆〈下田城〉(現静岡県下田市)将〈清水康英〉〈高橋郷左衛門尉〉ら6百を〈関白秀吉〉軍〈脇坂安治〉〈安国寺恵瓊〉ら1万4千が包囲し

籠城50日で降服開城した日。よって件の如し

恐々謹言卯月二十三日
太閤




オマケにまたも雨
に降られて
安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉の調略に乗り
されて以来…側近〈堺奉行=松井友閑まついゆうかん〉と重臣〈丹羽五郎左衛門長秀〉に、京都洛中に有る数々の書画骨董・茶器に至るまで名品を収集させ
「初花肩衝はつはなかたつき」と「富士茄子」をゲッツしたのであった…


続いて
を送った日
〈羽柴秀吉〉は〈岐阜城〉攻めを中止し、その夜
のうちに、北近江〈木之本〉(現滋賀県木之本町)までの街道筋に、各戸毎に一升握り飯と松明で街道を照らしつづける様、厳命し
21日未明〈羽柴軍7万5千が〈賤ヶ岳〉へと着陣し