俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も無駄な残業させられたから急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣
まづは広背筋・大円筋鍛練懸垂チンニング15㌔負荷5set計41回+10㌔負荷5set計30回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷6set計120回+ラスト再び広背筋・大円筋鍛練フロントプルダウン57㌔負荷1set計10回+リバースラットプルダウン57㌔負荷1set計10回+バックプルダウン57㌔負荷1set計10回鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
今日4月26日は1537年天文6年に駿河
〈今川義元〉が〈第一次河東の一乱
〉で、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉方に内応して籠城した
遠江〈見付城〉(現静岡県磐田市)主〈堀越六郎氏延〉を、今川方〈犬居城〉(現静岡県浜松市天竜区)主〈天野与四郎景貞〉に攻撃させ
〈天野小四郎虎景〉〈天野孫四郎景義〉らの活躍により攻略し〈堀越氏延〉は討死した日
更に1549年天文18年に〈室町幕府菅領=細川晴元〉が〈三好政長〉救援のため、摂津〈一庫城いちくら〉(現兵庫県川西市)に入城し
〈伊丹城〉(現兵庫県伊丹市)主〈伊丹親興〉と〈三好政長〉は〈尼崎城〉(現兵庫県尼崎市)下に放火し
〈榎並城〉(現大阪府大阪市城東区)を攻撃中の、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉〈遊佐長教〉らを牽制した日。
更に1570年元亀元年に美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾上上信長〉遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川三河守家康〉連合軍が前日、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉方支城の敦賀郡〈手筒山城〉(現福井県敦賀市)を攻略し
〈金ヶ崎城〉(現福井市敦賀市)将〈朝倉景恒〉を攻撃し〈朝倉景恒〉は多勢無勢で降服開城した日で〈朝倉義景〉から非難された
〈朝倉景恒〉は〈永平寺〉に遁世したのだった…
いよいよ織田・徳川連合軍は〈木目峠〉を越えて〈一乗谷城〉へ侵攻しようとしていたところに〈朝倉義景〉と同盟関係の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉が〈織田信長〉との同盟を突如裏切り背後から織田・徳川連合軍に迫り朝倉軍と浅井軍による挟み討たんとしていた為
兄〈織田信長〉の身を案じた〈お市の方〉(浅井長政正室)が「陣中見舞い」として小豆入りの袋の両端をきつく縛り〈織田信長〉に送り「袋のネズミ」だとということを暗に知らせた日。
同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉家臣、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田幸隆入道一徳斎〉(真田幸村祖父)が隠居して、長男〈真田源太左衛門信綱〉(真田昌幸兄)に真田家家督を相続させたのだった。
更に1579年天正7年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平三郎信康〉父子が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田勝頼〉軍の遠江〈馬伏塚〉(現静岡県袋井市)に出陣し為
〈本多平八郎忠勝〉〈榊原小平太康政〉〈井伊直政〉ら先鋒の活躍により〈国安〉より武田軍を撃退した日
更に1580年天正8年に〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方の播磨〈英賀城あが〉(現兵庫県姫路市)を攻略して
毛利方を一掃して〈御着城〉(現兵庫県姫路市)主〈小寺政職こでらまさもと〉家臣〈黒田官兵衛孝高〉から提供された〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)を中国平定の拠点とすべく〈羽柴秀吉〉は家臣〈浅野長吉=後の浅野長政〉(妹婿)に普請奉行職を命じた日。
更に1583年天正11年に〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉叔父、備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉に〈賤ヶ岳の合戦
〉続く越前〈北ノ庄城〉(現福井県)攻略を報じた日。
更に1592年文緑元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文緑の役
〉において
〈太閤秀吉〉が朝鮮半島で〈漢城ソウル〉までの道中に途中宿泊所の普請を銘じた日。
更に1597年慶長2年に天下人〈太閤秀吉〉が〈関白=豊臣秀次〉亡き後破却した京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉に代わる豊臣家の拠点と、幼い嫡男〈豊臣秀頼〉の城として〈京都御所〉内に〈京都新城〉の造営に着手した日。
更に1601年慶長6年に陸奥〈岩出山城〉(現宮城県大崎市)主〈独眼竜=伊達政宗〉軍と
豊臣家五大老、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉家臣〈本庄繁長〉〈須田長義〉が激突〈松川の合戦
〉が勃発した日
同じ日、陸奥〈岩出山城〉主〈独眼竜=伊達政宗〉が〈盛岡城〉(現岩手県盛岡市)主〈南部利直〉領に〈和賀忠親〉に煽動させていた〈和賀一揆
〉方〈岩崎城〉(現岩手県北上市)に〈南部利直〉軍が攻撃して
〈和賀忠親〉は伊達領に落ち延び
〈南部利直〉は〈和賀一揆衆〉の背後に〈伊達政宗〉が煽動した陰謀であると
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉に訴え出た日で
〈内府家康〉は事の真意を確かめるべく〈和賀忠親〉を、武蔵〈江戸城〉(現皇居)に呼び寄せることにしたのだった。
更に1607年慶長12年に天下人〈大御所=徳川家康〉の九男〈徳川義直〉が、尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主となった日
尾張徳川家藩祖〈徳川義直〉は、後に肥後〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤主計頭清正〉を築城奉行とした、徳川幕府の「天下普請」命令で、諸大名らにより築城成った〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主となるのである…
更に1615年元和元年に亡き天下人〈太閤=豊臣秀吉〉嫡男〈右大臣=豊臣秀頼〉の重臣〈大野治房おおのはるふさ〉が、大和〈郡山城〉(現奈良県郡山市)を攻撃して
徳川幕府へ宣戦布告〈大坂夏の陣
〉の戦端が開かれた日
〈大御所家康〉は二日前、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣秀頼〉に対して、最後通牒を突きつけ
一、〈大坂城〉内に召し抱えられている浪人衆を追放するか
一、〈豊臣秀頼〉の母堂〈淀殿=茶々〉(浅井長政とお市の方の長女で織田信長の姪)を人質として〈江戸城〉に差し出すか
一、〈豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子が、大和〈郡山城〉へ移る事
のいづれかの選択を迫ったのだった
この徳川幕府からの最後追徴に〈右大臣秀頼〉〈淀殿〉母子は〈淀殿〉の妹〈常高院じょうこういん〉(京極高次室・浅井長政次女)と〈二位局にいのつぼね〉を使者として、京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市中京区)に送ったが、徳川方から最後通牒を要求され〈大坂城〉内では
徳川幕府からの条件に激怒した
重臣〈大野治房〉(大野治長弟)〈後藤又兵衛基次〉と〈筒井〉旧臣ら2千
の軍勢が
大和〈郡山城〉を攻撃し
城を守備していた徳川方〈筒井正次入道定慶〉は〈郡山城〉を捨てて逃亡し
〈福住中定城〉(現奈良県天理市)落ち延びたが後に自刃
更に〈大野治房〉軍
は〈郡山〉城下を焼き払い、徳川幕府に対して
ついに戦端を開き〈大坂夏の陣
〉の火蓋がきっておとされたのだった
この豊臣方の暴挙に対して〈大御所家康〉は〈二条城〉で〈二代将軍=徳川秀忠〉と〈大坂城〉攻撃について軍議を行い
大和方面軍一番隊〈水野勝成〉(大御所家康甥)二番隊〈本多忠政〉三番隊〈松平忠明〉四番隊〈独眼竜=伊達政宗〉五番隊〈松平忠輝〉(大御所家康六男)が
続いて右先鋒隊〈藤堂高虎〉左先鋒隊〈井伊直孝〉一番手右備え〈榊原康勝〉一番手左備え〈酒井家次〉二番手左備え〈松平康長〉二番手右備え〈本多忠朝〉三番手左備え〈前田利光=後の前田利常〉三番手右備え〈松平忠直〉が
そして〈酒井忠世〉〈土井利勝〉〈本多忠純〉〈二代将軍秀忠〉〈大御所家康〉最後尾殿を〈徳川義直〉(大御所家康九男)〈徳川頼宣〉(大御所家康十男)が続々〈二条城〉を出陣した日
一方〈大坂城〉主〈右大臣秀頼〉は〈真田左衛門佐幸村〉〈後藤又兵衛基次〉〈明石全登あかしてるずみ〉〈毛利勝永〉〈塙団右衛門直之〉ら浪人衆を〈大坂城〉内に入城させて、決死の覚悟で最後の一戦
に望みを賭けて
臨戦態勢に突入するのであった…
よって件の如し
恐々謹言卯月二十六日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日も無駄な残業させられたから急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣
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今日4月26日は1537年天文6年に駿河
〈今川義元〉が〈第一次河東の一乱
〉で、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉方に内応して籠城した
遠江〈見付城〉(現静岡県磐田市)主〈堀越六郎氏延〉を、今川方〈犬居城〉(現静岡県浜松市天竜区)主〈天野与四郎景貞〉に攻撃させ
〈天野小四郎虎景〉〈天野孫四郎景義〉らの活躍により攻略し〈堀越氏延〉は討死した日
更に1549年天文18年に〈室町幕府菅領=細川晴元〉が〈三好政長〉救援のため、摂津〈一庫城いちくら〉(現兵庫県川西市)に入城し
〈伊丹城〉(現兵庫県伊丹市)主〈伊丹親興〉と〈三好政長〉は〈尼崎城〉(現兵庫県尼崎市)下に放火し
〈榎並城〉(現大阪府大阪市城東区)を攻撃中の、摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉〈遊佐長教〉らを牽制した日。更に1570年元亀元年に美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾上上信長〉遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川三河守家康〉連合軍が前日、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉方支城の敦賀郡〈手筒山城〉(現福井県敦賀市)を攻略し
〈金ヶ崎城〉(現福井市敦賀市)将〈朝倉景恒〉を攻撃し〈朝倉景恒〉は多勢無勢で降服開城した日で〈朝倉義景〉から非難された
〈朝倉景恒〉は〈永平寺〉に遁世したのだった…いよいよ織田・徳川連合軍は〈木目峠〉を越えて〈一乗谷城〉へ侵攻しようとしていたところに〈朝倉義景〉と同盟関係の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉が〈織田信長〉との同盟を突如裏切り背後から織田・徳川連合軍に迫り朝倉軍と浅井軍による挟み討たんとしていた為
兄〈織田信長〉の身を案じた〈お市の方〉(浅井長政正室)が「陣中見舞い」として小豆入りの袋の両端をきつく縛り〈織田信長〉に送り「袋のネズミ」だとということを暗に知らせた日。同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉家臣、信濃小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田幸隆入道一徳斎〉(真田幸村祖父)が隠居して、長男〈真田源太左衛門信綱〉(真田昌幸兄)に真田家家督を相続させたのだった。
更に1579年天正7年に遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平三郎信康〉父子が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田勝頼〉軍の遠江〈馬伏塚〉(現静岡県袋井市)に出陣し為
〈本多平八郎忠勝〉〈榊原小平太康政〉〈井伊直政〉ら先鋒の活躍により〈国安〉より武田軍を撃退した日
更に1580年天正8年に〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方の播磨〈英賀城あが〉(現兵庫県姫路市)を攻略して
毛利方を一掃して〈御着城〉(現兵庫県姫路市)主〈小寺政職こでらまさもと〉家臣〈黒田官兵衛孝高〉から提供された〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)を中国平定の拠点とすべく〈羽柴秀吉〉は家臣〈浅野長吉=後の浅野長政〉(妹婿)に普請奉行職を命じた日。更に1583年天正11年に〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉叔父、備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉に〈賤ヶ岳の合戦
〉続く越前〈北ノ庄城〉(現福井県)攻略を報じた日。更に1592年文緑元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文緑の役
〉において
〈太閤秀吉〉が朝鮮半島で〈漢城ソウル〉までの道中に途中宿泊所の普請を銘じた日。更に1597年慶長2年に天下人〈太閤秀吉〉が〈関白=豊臣秀次〉亡き後破却した京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉に代わる豊臣家の拠点と、幼い嫡男〈豊臣秀頼〉の城として〈京都御所〉内に〈京都新城〉の造営に着手した日。
更に1601年慶長6年に陸奥〈岩出山城〉(現宮城県大崎市)主〈独眼竜=伊達政宗〉軍と
豊臣家五大老、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉家臣〈本庄繁長〉〈須田長義〉が激突〈松川の合戦
〉が勃発した日
同じ日、陸奥〈岩出山城〉主〈独眼竜=伊達政宗〉が〈盛岡城〉(現岩手県盛岡市)主〈南部利直〉領に〈和賀忠親〉に煽動させていた〈和賀一揆
〉方〈岩崎城〉(現岩手県北上市)に〈南部利直〉軍が攻撃して
〈和賀忠親〉は伊達領に落ち延び
〈南部利直〉は〈和賀一揆衆〉の背後に〈伊達政宗〉が煽動した陰謀であると
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉に訴え出た日で
〈内府家康〉は事の真意を確かめるべく〈和賀忠親〉を、武蔵〈江戸城〉(現皇居)に呼び寄せることにしたのだった。更に1607年慶長12年に天下人〈大御所=徳川家康〉の九男〈徳川義直〉が、尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主となった日

尾張徳川家藩祖〈徳川義直〉は、後に肥後〈熊本城〉(現熊本県熊本市)主〈加藤主計頭清正〉を築城奉行とした、徳川幕府の「天下普請」命令で、諸大名らにより築城成った〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主となるのである…
更に1615年元和元年に亡き天下人〈太閤=豊臣秀吉〉嫡男〈右大臣=豊臣秀頼〉の重臣〈大野治房おおのはるふさ〉が、大和〈郡山城〉(現奈良県郡山市)を攻撃して
徳川幕府へ宣戦布告〈大坂夏の陣
〉の戦端が開かれた日
〈大御所家康〉は二日前、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣秀頼〉に対して、最後通牒を突きつけ

一、〈大坂城〉内に召し抱えられている浪人衆を追放するか
一、〈豊臣秀頼〉の母堂〈淀殿=茶々〉(浅井長政とお市の方の長女で織田信長の姪)を人質として〈江戸城〉に差し出すか

一、〈豊臣秀頼〉〈淀殿〉母子が、大和〈郡山城〉へ移る事
のいづれかの選択を迫ったのだった
この徳川幕府からの最後追徴に〈右大臣秀頼〉〈淀殿〉母子は〈淀殿〉の妹〈常高院じょうこういん〉(京極高次室・浅井長政次女)と〈二位局にいのつぼね〉を使者として、京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市中京区)に送ったが、徳川方から最後通牒を要求され〈大坂城〉内では
徳川幕府からの条件に激怒した
重臣〈大野治房〉(大野治長弟)〈後藤又兵衛基次〉と〈筒井〉旧臣ら2千
の軍勢が
大和〈郡山城〉を攻撃し
城を守備していた徳川方〈筒井正次入道定慶〉は〈郡山城〉を捨てて逃亡し
〈福住中定城〉(現奈良県天理市)落ち延びたが後に自刃
更に〈大野治房〉軍
は〈郡山〉城下を焼き払い、徳川幕府に対して
ついに戦端を開き〈大坂夏の陣
〉の火蓋がきっておとされたのだった
この豊臣方の暴挙に対して〈大御所家康〉は〈二条城〉で〈二代将軍=徳川秀忠〉と〈大坂城〉攻撃について軍議を行い
大和方面軍一番隊〈水野勝成〉(大御所家康甥)二番隊〈本多忠政〉三番隊〈松平忠明〉四番隊〈独眼竜=伊達政宗〉五番隊〈松平忠輝〉(大御所家康六男)が
続いて右先鋒隊〈藤堂高虎〉左先鋒隊〈井伊直孝〉一番手右備え〈榊原康勝〉一番手左備え〈酒井家次〉二番手左備え〈松平康長〉二番手右備え〈本多忠朝〉三番手左備え〈前田利光=後の前田利常〉三番手右備え〈松平忠直〉が
そして〈酒井忠世〉〈土井利勝〉〈本多忠純〉〈二代将軍秀忠〉〈大御所家康〉最後尾殿を〈徳川義直〉(大御所家康九男)〈徳川頼宣〉(大御所家康十男)が続々〈二条城〉を出陣した日

一方〈大坂城〉主〈右大臣秀頼〉は〈真田左衛門佐幸村〉〈後藤又兵衛基次〉〈明石全登あかしてるずみ〉〈毛利勝永〉〈塙団右衛門直之〉ら浪人衆を〈大坂城〉内に入城させて、決死の覚悟で最後の一戦
に望みを賭けて
臨戦態勢に突入するのであった…よって件の如し

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太閤
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〈上杉輝虎〉は〈春日山城〉に帰還した日
〉で海路
〈朝鮮出兵〉の本営、肥前〈名護屋城〉(現佐賀県唐津市)に入城した日
をもたらしていたのだった…
〈大御所=徳川家康〉は〈大久保長安〉の葬儀を中止させ
昨日ゴルフ接待
は早目に終わったから
帰還しおーかと思うたが、盟友〈イケメン桜王子〉から
桜メール
来たからたこ焼きたこ王子に俺
仕り〈イケメン桜王子〉初の蛤の酒蒸しを馳走に相成り申したぜィ
〈横山城〉(現静岡県静岡市清水区)に〈穴山信君=後の穴山梅雪〉〈久能城〉に〈板垣信頼〉を残して
筑前へ出陣して
激怒した〈織田信長〉が現場年寄衆の一人を手討ちにした日
家臣達の労を労い、家臣らと最期の酒宴
を開いた後、三人の姫達を〈羽柴秀吉〉本陣に送り届けさせて24日早朝から最期の羽柴軍との激しい攻防戦
長良川



