俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今日は我がアレキサンドリア
の車検証取りに行くの忘れてたからラビアンローズドックに引き取りに出陣して
盟友スーパーサイヤ人〈竜悟空〉と職場のかあいい〈豆柴ヒロクン〉の誕生日献上品をゲッツしに出陣
最初から最後までクライマックスだぜィ
今日4月29日は1544年天文13年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉軍と〈高遠(諏訪)頼継〉両軍の激しい攻防戦が展開されて
武田軍〈鎌田長門守〉が討死した日
更に1547年天文16年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉正室〈三条夫人〉に次男〈武田二郎=後の海野信親=竜宝〉が誕生した日
更に1549年天文18年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信〉が信濃伊那郡・松本・木曽郡に武田軍を派兵して
〈鳥居峠〉北部に放火し
この武田軍に対して〈奈良井治部少輔〉が、木曽郡〈福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義康〉き救援要請し
武田軍が木曽軍の反撃ど撤退した日
更に1557年弘治3年に足利将軍家菩提寺〈等持院〉(現京都府京都市右京区)で〈室町幕府初代将軍=足利尊氏〉の没後、二百回忌法要が執り行われた日。この〈等持院〉には、歴代足利将軍等身大木像の他、遺髪塔も在る。
更に1560年永禄3年この頃、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉が、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井賢政=後の浅井長政〉方に寝返った〈肥田城〉(現滋賀県彦根市)主〈高野瀬秀隆〉を攻撃し
〈肥田城〉の周囲に堤防を築いて〈
愛知川
〉と〈
宇曽川
〉の水を引き込んで〈肥田城水責め
〉にし
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉よりも先に水責めをしたのだった…
更に1564年永禄7年この頃、東三河〈二連木城〉(現愛知県豊橋市)主〈戸田丹波守重貞〉が、西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉方に服属し〈牛久保城〉(現愛知県豊川市)主〈牧野新次郎成定〉と〈佐脇砦〉〈八幡砦〉の〈三浦左馬助〉勢は〈松平元康〉に敗退し
〈牧野〉〈幡豆はず〉の〈小笠原康元〉も〈松平元康〉に服属した日
更に1570年永禄13年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉と交戦中の
越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉北近江〈小谷城〉主〈浅井長政〉隠居〈浅井久政〉父子に呼応して、南近江〈甲賀〉に潜んでいた〈六角承禎〉〈六角義治〉父子が、近江〈鯰江城なまづえ〉(現滋賀県東近江市)で挙兵し
〈浅井長政〉は援軍を派兵した日
更に1571年元亀2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉家臣〈山県三郎兵衛昌景〉〈小笠原信嶺〉隊が
三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)攻略後、三河〈浅ヶ谷城〉〈阿摺城=円山城〉〈大沼城〉〈田代城〉〈八桑城〉諸城を攻略し
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)を攻撃し
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉重臣〈酒井忠次〉と〈二連木の合戦
〉で交戦し
〈徳川家康〉は〈吉田城〉に入城した日
そして〈武田信玄〉本隊は
三河〈牛久保長沢〉を掠めて撤退したのだった
更に1572年元亀3年この頃、駿河
富士郡〈大宮城〉(現静岡県)主〈富士蔵人信忠〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉方に帰属して〈古府中〉に出仕したのであった。
更に1573年元亀4年に越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)将〈河田長親〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉に、宿敵〈武田信玄〉が病の後に死去したと報じた日
更に1575年天正3年に再び甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が、三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)攻略後、三河〈浅ヶ谷城〉〈阿摺城=円山城〉〈大沼城〉〈田代城〉〈八桑城〉諸城を攻略し
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)を攻撃し
来援軍の遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉重臣〈酒井忠次〉と〈二連木の合戦
〉で交戦し
武田軍は〈二連木城〉主〈戸田康長〉に〈二連木城〉を放棄させ〈徳川家康〉は〈浜松城〉より来援し
〈吉田城〉に入城した日
致し方なく〈武田勝頼〉は〈牛久保長沢〉を掠めて撤退したのだった
更に1577年天正5年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉に追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を庇護する、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉が、織田軍の重囲下にある摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)救援の為、毛利軍が播磨〈室津〉(現兵庫県たつの市)に着陣した日
更に1578年天正6年に播磨〈上月城〉(現兵庫県佐用郡上月町)を守備する〈尼子勝久〉〈山中鹿ノ介幸盛〉主従を攻撃中の
安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利一門と、病と称して出陣を控えた備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主〈蝮=宇喜多直家〉名代の弟〈宇喜多忠家〉の大軍に対して
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈安土城〉に救援要請して〈右大臣信長〉は〈丹羽五郎左衛門長秀〉〈明智十兵衛光秀〉〈滝川左近将監一益〉らを先陣として播磨へ派兵した日
更に1582年天正10年この頃、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉方だった瀬戸内海
〈塩飽しわく〉〈能島のしま〉〈来島〉の〈村上水軍
〉が〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉に人質を差し出して城を明け渡したのだった。
同じ頃、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉方〈麻生津庄〉の〈飯盛城〉(現和歌山県紀の川市)将〈南蓮上院=弁仙〉〈調月庄〉の〈橋口隼人重藤〉らが、伊勢〈神戸城〉(現三重県鈴鹿市)主〈神戸(織田)信孝〉(織田信長三男)と交代した〈堀久太郎秀政〉1万5千の織田軍と交戦して
織田軍〈竹田藤内〉ら4将が討死した日
更に1573年天正11年に山城乙訓郡〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈賤ヶ岳の合戦
〉続く越前〈北ノ庄城〉攻めで
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が約定通りに〈柴田勝家〉牽制の為
越中へ攻め入らなかった事に怒り
今までの約定を反古にすると伝えた日
更に1584年天正12年に〈小牧・長久手の合戦
〉で〈長久手〉で遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉に思わぬ大敗を期した
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉は
手強い〈徳川家康〉から矛先を〈織田信雄〉(織田信長次男)に転じて織田方の伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)攻めに作戦を変更し、美濃〈大浦城〉(現岐阜県羽島市)に入城して2日間にわたり策を練った日
更に1587年天正15年天下人〈関白=豊臣秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
前日〈小西行長〉〈脇坂安治〉〈九鬼嘉隆くきよしたか〉らが、薩摩〈平佐城〉(現鹿児島県薩摩川内市)主〈桂神祇忠肪=桂忠詮〉が〈大和大納言=豊臣秀長〉に和睦の意向を意思表明した〈島津義久〉の命に従い、降伏の証の小姓〈海老原市十郎〉〈大田治部左衛門〉を人質として〈脇坂安治〉〈九鬼嘉隆〉陣へ送った日。
同じ日、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花宗茂〉(立花道雪養嗣子)が薩摩〈川内〉への進軍途上で前年8月筑前〈宝満山城〉(現福岡県太宰府市)将として、島津軍に捕らえられていた弟〈立花直次=高橋統増たかはしむねます〉(高橋紹運次男)と対面した日
更に1594年文禄3年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が播磨の〈有馬温泉
〉(現兵庫県神戸市)に湯治に出掛けた日
〈関白秀吉〉にとっての、一番の健康法は温泉
で
〈関白秀吉〉は、出陣前や合戦
の凱旋後には必ずといってよいほど〈有馬温泉
〉に赴いて疲労回復と英気を養いに行き
12年間で9回行っており
〈柴田勝家〉を討ち滅ぼした〈賤ヶ岳の合戦
〉後や〈織田信雄〉〈徳川家康〉連合軍と戦った〈小牧・長久手の合戦
〉前後や〈長宗我部元親〉を降伏させた〈四国征伐
〉や〈北条氏直〉を降伏させ天下統一を果たした〈小田原征伐
〉後に10日~20日間ゆったりと〈有馬温泉
〉に浸かって
愛妾
や側近・御伽衆・医師団・弟〈大和大納言=豊臣秀長〉や、盟友〈前田利家〉と、正室〈北政所=おね〉側室〈淀殿=茶々〉等を伴って
多額の金を使って寛いでいたのだった
更に1601年慶長6年に常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)隠居〈佐竹義重〉が、前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で大勝利をおさめた〈内大臣=徳川家康〉に拝謁して、当主である嫡男〈佐竹義宣〉が懇意にしていた西軍〈石田治部少輔三成〉方に参陣しようとしていたが…〈佐竹義重〉は東軍〈内府家康〉方に与するよう諫言して
父子は対立となり
〈佐竹義宣〉は東西いづれにも付かない日和見の曖昧な形となり〈内府家康〉の不振と怒りを買うに至り
〈佐竹義重〉が謝罪した日m(__)m
更に1603年慶長8年に筑前〈福岡城〉(現福岡県福岡市)主〈黒田長政〉の父で、亡き〈豊臣秀吉〉を天下人に押し上げた名軍師〈黒田官兵衛孝高入道如水圓清〉と正室〈幸圓=光姫てるひめ〉が隠居した日。
更に1606年慶長11年に徳川幕府が武家の官位叙任には、将軍から朝廷への推挙奏上が不可欠とし
朝廷は幕府よりの奏上、申し出を許認可するだけと定めた日。
古来より官位は、摂政藤原氏による律令制度発足以来、朝廷の専権事項であり
官位とは「太政大臣」「右大臣」「大納言」等の、天皇の臣下としての官職で
位は「従一位」「正一位」「従三位」等の位階で、戦国時代官職の方が重視されて、戦国時代の朝廷は生活に困窮していた為
戦国大名からの献金によって、かわって戦国大名は、朝廷から官位を拝受していたのだった。
後に天下人〈豊臣秀吉〉が「従一位」「関白太政大臣」となると、豊臣政権下の諸大名は官位により、序列体系化されて〈太閤秀吉〉亡き後「征夷大将軍」となった〈徳川家康〉は、武家の官位叙任には、将軍の推挙無くしての叙任は認めず
武家の官位叙任権を掌握、諸大名を統制していくのだった…
一方朝廷には、将軍の推挙奏上を不可欠とし
その後〈二代将軍=徳川秀忠〉による「禁中並公家諸法度きんちゅうならびくげしょはっと」の公布によって、朝廷は更に厳格に監視されていくのであった…
更に1615年元和元年に亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した難攻不落の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉重臣〈大野治房〉率いる3千の軍勢
は、〈塙団右衛門直之〉〈岡部大学則綱〉らを先鋒として、紀伊への侵攻を開始したが…
徳川幕府方〈和歌山城〉(現和歌山県和歌山市)主〈浅野長晟あさのながあきら〉5千が豊臣方を迎撃せんと泉南へ出陣し
〈大坂夏の陣
=樫井の合戦
〉が開戦され
戦功に逸った〈塙団右衛門直之〉と〈岡部大学則綱〉両将の先陣争いで
〈大野治房〉本隊より先行し過ぎて連携を欠いた為、多勢に無勢の豊臣方は浅野軍に各個撃破されて
〈塙団右衛門直之〉〈岡部大学則綱〉〈淡輪重政〉らが討死した日
〈塙団右衛門直之〉は初め「賤ヶ岳七本槍」と云われた、伊予〈松山城〉(現愛媛県松山市)主〈加藤嘉明〉に仕えていたが1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、軍令違反を問われて加藤家から浪人し、その後〈小早川秀秋〉や〈福島正則〉らに相次いで仕えたが…
旧主〈加藤嘉明〉から執拗なまでの抗議
妨害により、再び浪人となってしまい〈豊臣秀頼〉からの招請を受けて〈大坂城〉に入城し、泉南〈樫井の合戦
〉で討死したのだった。享年49歳
よって件の如し
恐々謹言卯月ニ十九日 太閤

参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今日は我がアレキサンドリア
の車検証取りに行くの忘れてたからラビアンローズドックに引き取りに出陣して
盟友スーパーサイヤ人〈竜悟空〉と職場のかあいい〈豆柴ヒロクン〉の誕生日献上品をゲッツしに出陣
最初から最後までクライマックスだぜィ
今日4月29日は1544年天文13年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉軍と〈高遠(諏訪)頼継〉両軍の激しい攻防戦が展開されて
武田軍〈鎌田長門守〉が討死した日
更に1547年天文16年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉正室〈三条夫人〉に次男〈武田二郎=後の海野信親=竜宝〉が誕生した日

更に1549年天文18年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信〉が信濃伊那郡・松本・木曽郡に武田軍を派兵して
〈鳥居峠〉北部に放火し
この武田軍に対して〈奈良井治部少輔〉が、木曽郡〈福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義康〉き救援要請し
武田軍が木曽軍の反撃ど撤退した日
更に1557年弘治3年に足利将軍家菩提寺〈等持院〉(現京都府京都市右京区)で〈室町幕府初代将軍=足利尊氏〉の没後、二百回忌法要が執り行われた日。この〈等持院〉には、歴代足利将軍等身大木像の他、遺髪塔も在る。
更に1560年永禄3年この頃、南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎ろっかくよしかたにゅうどうじょうてい〉が、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井賢政=後の浅井長政〉方に寝返った〈肥田城〉(現滋賀県彦根市)主〈高野瀬秀隆〉を攻撃し
〈肥田城〉の周囲に堤防を築いて〈
愛知川
〉と〈
宇曽川
〉の水を引き込んで〈肥田城水責め
〉にし
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉よりも先に水責めをしたのだった…更に1564年永禄7年この頃、東三河〈二連木城〉(現愛知県豊橋市)主〈戸田丹波守重貞〉が、西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉方に服属し〈牛久保城〉(現愛知県豊川市)主〈牧野新次郎成定〉と〈佐脇砦〉〈八幡砦〉の〈三浦左馬助〉勢は〈松平元康〉に敗退し
〈牧野〉〈幡豆はず〉の〈小笠原康元〉も〈松平元康〉に服属した日
更に1570年永禄13年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉と交戦中の
越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉北近江〈小谷城〉主〈浅井長政〉隠居〈浅井久政〉父子に呼応して、南近江〈甲賀〉に潜んでいた〈六角承禎〉〈六角義治〉父子が、近江〈鯰江城なまづえ〉(現滋賀県東近江市)で挙兵し
〈浅井長政〉は援軍を派兵した日
更に1571年元亀2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉家臣〈山県三郎兵衛昌景〉〈小笠原信嶺〉隊が
三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)攻略後、三河〈浅ヶ谷城〉〈阿摺城=円山城〉〈大沼城〉〈田代城〉〈八桑城〉諸城を攻略し
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)を攻撃し
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉重臣〈酒井忠次〉と〈二連木の合戦
〉で交戦し
〈徳川家康〉は〈吉田城〉に入城した日
そして〈武田信玄〉本隊は
三河〈牛久保長沢〉を掠めて撤退したのだった
更に1572年元亀3年この頃、駿河
富士郡〈大宮城〉(現静岡県)主〈富士蔵人信忠〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉方に帰属して〈古府中〉に出仕したのであった。更に1573年元亀4年に越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)将〈河田長親〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉に、宿敵〈武田信玄〉が病の後に死去したと報じた日
更に1575年天正3年に再び甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が、三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)攻略後、三河〈浅ヶ谷城〉〈阿摺城=円山城〉〈大沼城〉〈田代城〉〈八桑城〉諸城を攻略し
東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)を攻撃し
来援軍の遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉重臣〈酒井忠次〉と〈二連木の合戦
〉で交戦し
武田軍は〈二連木城〉主〈戸田康長〉に〈二連木城〉を放棄させ〈徳川家康〉は〈浜松城〉より来援し
〈吉田城〉に入城した日
致し方なく〈武田勝頼〉は〈牛久保長沢〉を掠めて撤退したのだった
更に1577年天正5年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉に追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を庇護する、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉が、織田軍の重囲下にある摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)救援の為、毛利軍が播磨〈室津〉(現兵庫県たつの市)に着陣した日更に1578年天正6年に播磨〈上月城〉(現兵庫県佐用郡上月町)を守備する〈尼子勝久〉〈山中鹿ノ介幸盛〉主従を攻撃中の
安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利一門と、病と称して出陣を控えた備前〈岡山城〉(現岡山県岡山市)主〈蝮=宇喜多直家〉名代の弟〈宇喜多忠家〉の大軍に対して
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈安土城〉に救援要請して〈右大臣信長〉は〈丹羽五郎左衛門長秀〉〈明智十兵衛光秀〉〈滝川左近将監一益〉らを先陣として播磨へ派兵した日

更に1582年天正10年この頃、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉方だった瀬戸内海
〈塩飽しわく〉〈能島のしま〉〈来島〉の〈村上水軍
〉が〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉に人質を差し出して城を明け渡したのだった。同じ頃、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉方〈麻生津庄〉の〈飯盛城〉(現和歌山県紀の川市)将〈南蓮上院=弁仙〉〈調月庄〉の〈橋口隼人重藤〉らが、伊勢〈神戸城〉(現三重県鈴鹿市)主〈神戸(織田)信孝〉(織田信長三男)と交代した〈堀久太郎秀政〉1万5千の織田軍と交戦して
織田軍〈竹田藤内〉ら4将が討死した日
更に1573年天正11年に山城乙訓郡〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈賤ヶ岳の合戦
〉続く越前〈北ノ庄城〉攻めで
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が約定通りに〈柴田勝家〉牽制の為
越中へ攻め入らなかった事に怒り
今までの約定を反古にすると伝えた日更に1584年天正12年に〈小牧・長久手の合戦
〉で〈長久手〉で遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉に思わぬ大敗を期した
〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉は
手強い〈徳川家康〉から矛先を〈織田信雄〉(織田信長次男)に転じて織田方の伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)攻めに作戦を変更し、美濃〈大浦城〉(現岐阜県羽島市)に入城して2日間にわたり策を練った日更に1587年天正15年天下人〈関白=豊臣秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
前日〈小西行長〉〈脇坂安治〉〈九鬼嘉隆くきよしたか〉らが、薩摩〈平佐城〉(現鹿児島県薩摩川内市)主〈桂神祇忠肪=桂忠詮〉が〈大和大納言=豊臣秀長〉に和睦の意向を意思表明した〈島津義久〉の命に従い、降伏の証の小姓〈海老原市十郎〉〈大田治部左衛門〉を人質として〈脇坂安治〉〈九鬼嘉隆〉陣へ送った日。同じ日、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花宗茂〉(立花道雪養嗣子)が薩摩〈川内〉への進軍途上で前年8月筑前〈宝満山城〉(現福岡県太宰府市)将として、島津軍に捕らえられていた弟〈立花直次=高橋統増たかはしむねます〉(高橋紹運次男)と対面した日

更に1594年文禄3年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が播磨の〈有馬温泉
〉(現兵庫県神戸市)に湯治に出掛けた日
〈関白秀吉〉にとっての、一番の健康法は温泉
で
〈関白秀吉〉は、出陣前や合戦
の凱旋後には必ずといってよいほど〈有馬温泉
〉に赴いて疲労回復と英気を養いに行き
12年間で9回行っており
〈柴田勝家〉を討ち滅ぼした〈賤ヶ岳の合戦
〉後や〈織田信雄〉〈徳川家康〉連合軍と戦った〈小牧・長久手の合戦
〉前後や〈長宗我部元親〉を降伏させた〈四国征伐
〉や〈北条氏直〉を降伏させ天下統一を果たした〈小田原征伐
〉後に10日~20日間ゆったりと〈有馬温泉
〉に浸かって
愛妾
や側近・御伽衆・医師団・弟〈大和大納言=豊臣秀長〉や、盟友〈前田利家〉と、正室〈北政所=おね〉側室〈淀殿=茶々〉等を伴って
多額の金を使って寛いでいたのだった
更に1601年慶長6年に常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)隠居〈佐竹義重〉が、前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で大勝利をおさめた〈内大臣=徳川家康〉に拝謁して、当主である嫡男〈佐竹義宣〉が懇意にしていた西軍〈石田治部少輔三成〉方に参陣しようとしていたが…〈佐竹義重〉は東軍〈内府家康〉方に与するよう諫言して
父子は対立となり
〈佐竹義宣〉は東西いづれにも付かない日和見の曖昧な形となり〈内府家康〉の不振と怒りを買うに至り
〈佐竹義重〉が謝罪した日m(__)m更に1603年慶長8年に筑前〈福岡城〉(現福岡県福岡市)主〈黒田長政〉の父で、亡き〈豊臣秀吉〉を天下人に押し上げた名軍師〈黒田官兵衛孝高入道如水圓清〉と正室〈幸圓=光姫てるひめ〉が隠居した日。
更に1606年慶長11年に徳川幕府が武家の官位叙任には、将軍から朝廷への推挙奏上が不可欠とし
朝廷は幕府よりの奏上、申し出を許認可するだけと定めた日。古来より官位は、摂政藤原氏による律令制度発足以来、朝廷の専権事項であり
官位とは「太政大臣」「右大臣」「大納言」等の、天皇の臣下としての官職で
位は「従一位」「正一位」「従三位」等の位階で、戦国時代官職の方が重視されて、戦国時代の朝廷は生活に困窮していた為
戦国大名からの献金によって、かわって戦国大名は、朝廷から官位を拝受していたのだった。後に天下人〈豊臣秀吉〉が「従一位」「関白太政大臣」となると、豊臣政権下の諸大名は官位により、序列体系化されて〈太閤秀吉〉亡き後「征夷大将軍」となった〈徳川家康〉は、武家の官位叙任には、将軍の推挙無くしての叙任は認めず

武家の官位叙任権を掌握、諸大名を統制していくのだった…一方朝廷には、将軍の推挙奏上を不可欠とし
その後〈二代将軍=徳川秀忠〉による「禁中並公家諸法度きんちゅうならびくげしょはっと」の公布によって、朝廷は更に厳格に監視されていくのであった…更に1615年元和元年に亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した難攻不落の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉重臣〈大野治房〉率いる3千の軍勢
は、〈塙団右衛門直之〉〈岡部大学則綱〉らを先鋒として、紀伊への侵攻を開始したが…徳川幕府方〈和歌山城〉(現和歌山県和歌山市)主〈浅野長晟あさのながあきら〉5千が豊臣方を迎撃せんと泉南へ出陣し
〈大坂夏の陣
=樫井の合戦
〉が開戦され
戦功に逸った〈塙団右衛門直之〉と〈岡部大学則綱〉両将の先陣争いで
〈大野治房〉本隊より先行し過ぎて連携を欠いた為、多勢に無勢の豊臣方は浅野軍に各個撃破されて
〈塙団右衛門直之〉〈岡部大学則綱〉〈淡輪重政〉らが討死した日
〈塙団右衛門直之〉は初め「賤ヶ岳七本槍」と云われた、伊予〈松山城〉(現愛媛県松山市)主〈加藤嘉明〉に仕えていたが1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、軍令違反を問われて加藤家から浪人し、その後〈小早川秀秋〉や〈福島正則〉らに相次いで仕えたが…旧主〈加藤嘉明〉から執拗なまでの抗議
妨害により、再び浪人となってしまい〈豊臣秀頼〉からの招請を受けて〈大坂城〉に入城し、泉南〈樫井の合戦
〉で討死したのだった。享年49歳
よって件の如し

恐々謹言卯月ニ十九日 太閤

鍛練は断念
謀叛を画策した為〈今川氏真〉(武田信虎孫)重臣〈庵原安房守忠胤〉は
〈織田信長〉は馬廻衆を率いて
重臣〈朝比奈備中守泰朝〉の遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)の兵糧は来月上旬まで持たないと報じ
〈長崎〉が、キリシタンの街となっていたことに激怒して
