俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
(日)からずっと雨
続きで
もはや花散らしの雨
桜ももつまい
昨日も残業で体育館JYM鍛練も城内鍛練も出来んイヤーン
今日4月5日は1542年天文11年に〈越後守護職=上杉定実〉が隠居を希望して〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾晴景〉(長尾為景嫡男・上杉謙信兄)に起請文を差し出した日。
更に1548年天文17年に信濃埴科郡〈葛尾城〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉筑摩郡〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉や伊那郡〈福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉安曇郡〈森城〉(現長野県大町市)主〈仁科盛能〉ら連合軍が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉方の〈諏訪下社〉(現長野県諏訪市)を攻めて放火し
伊那郡〈鈴岡城〉(現長野県飯田市)主〈小笠原信定〉他〈下条〉〈片桐〉〈飯島〉〈知久〉ら国衆を伴い〈小笠原信定〉は兄〈信濃守護職=小笠原長時〉支援に出陣した日
更に1553年天文22年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃埴科郡〈葛尾城〉主〈村上義清〉方の〈荒砥城〉(現長野県千曲市)主〈屋代政国〉や〈塩崎城〉(現長野県長野市)将〈塩崎六郎〉〈石川城〉(現長野県長野市)将〈石川大和守〉〈唐崎山城〉(現長野県千曲市)主〈雨宮刑部正利〉〈南条耕雲寺=乾巨〉らが〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田幸隆〉の調略で武田方に寝返った日。
更に1562年永禄5年に河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈畠山高政〉軍が
摂津〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉を包囲して
周辺の三好方の出城を攻略開始した日
更に1573年元亀4年に朝廷は天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉による、京都洛中上京焼討ちで
類火が御所近くにまで及び
危惧した〈正親町天皇おうぎまち〉は
勅使として〈関白=二条晴良〉〈三条西実枝〉〈庭田重保〉らを〈二条城〉(現京都府京都市上京区)に籠城中の〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉お〈知恩院〉(現京都府京都市東山区)の〈織田信長〉本陣に派遣して和議を講じさせた日。
更に1575年天正3年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉家臣〈大賀弥四郎=大岡弥四郎〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田四郎勝頼〉に内通していた事が発覚し
捕縛され、首だけを出した状態で地中に生き埋めにされ、竹の鋸で領民達に鋸を引かせる「鋸引きの刑」で処刑された日
この〈大賀弥四郎=大岡弥四郎〉事件が、後に〈徳川家康〉に苦渋の決断を迫る
大事件に発展してしまう事になるのだった…
更に1578年天正6年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉による摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との〈石山合戦
〉で織田軍は付近一帯の麦苗をことごとく薙ぎ捨てた日。
更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉父子滅亡後、武田旧領信濃で〈芋川親正〉ら浪人・農民・土民ら〈川中島一揆
〉が勃発し
一揆方が北信濃〈飯山城〉(現長野県飯山市)将〈稲葉貞通〉次いで〈長沼城〉(現長野県長野市)を攻めた一揆衆を
〈森長可〉(森吉成長男・森蘭丸兄)を攻撃し壊滅させ
〈大倉古城〉に敗走した一揆衆を千余り斬り捨てた日
そして〈芋川親正〉は越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉方に服属したのだった。
更に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から中国平定を命じられた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方の、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉を調略すべく、家臣〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉が〈吉備津宮〉神官〈堀部掃部ほりべかもん〉に織田方に内応すれば備中か備後を与えるとして〈前右大臣信長〉の誓紙の持参を依頼したが〈清水宗治〉が断った日。
更に1583年天正11年に上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)主〈北条丹後守高広〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍の上野侵攻に対して、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉に救援を求め
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉にも関東出兵を要請した日。
更に1584年天正12年に〈小牧・長久手戦役
〉で、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は尾張へ出陣し
羽柴本陣で軍議が開かれ、前の敗戦での雪辱に燃える
〈池田恒興入道勝入斎〉が〈羽柴秀吉〉に〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)に布陣する遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉を押さえておいて〈徳川家康〉が留守中の領国三河への「中入れ」策を進言し
〈羽柴秀吉〉が許認可した日。
一方、尾張〈小牧山城〉に布陣する〈徳川家康〉が〈小牧山〉北麓と〈八幡塚〉間に〈羽柴秀吉〉方に備えて土塁を構築した日。
更に1586年天正14年に豊後〈臼杵城うすき〉(現大分県臼杵市)のキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟おおともよししげにゅうどうそうりん〉が、摂津〈大坂城〉に登城し、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見を許されて、九州全土平定に向け北上中の、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉の領土侵犯を訴え
討伐を要請したため〈関白秀吉〉は
〈大友宗麟〉を〈大坂城〉内「黄金の茶室」で〈関白秀吉〉の茶匠〈千利休〉による茶の湯で接待し
寝所にまで案内し〈大友宗麟〉は〈大坂城〉のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城」と称えた日。
この時〈大友宗麟〉は、豊臣政権が、政治面は〈関白秀吉〉の舎弟〈大和大納言=豊臣秀長〉と〈千利休〉によって執り仕切られていると聞かされたのだった
そして〈関白秀吉〉は、前年10月に九州の諸大名に対して停戦を命じ
大名間の領土紛争
については〈関白秀吉〉が、全て裁定する旨を通達したのだった
その裁定で
筑前を豊臣家の直轄地とし
豊後・肥後半国・豊前半国と筑後を〈大友宗麟〉に、肥前を〈毛利輝元〉に
その他を〈島津義久〉の領地とするという「九州国分け令」を〈島津義久〉と〈大友宗麟〉に示したところ、島津氏の攻勢に圧迫されていた〈大友宗麟〉は〈関白秀吉〉の裁定を受諾したが…
一方、九州全土征服を目前にしていた〈島津義久〉は〈関白秀吉〉の裁定を不服として
承諾しなかった為〈関白秀吉〉は〈島津征伐
〉を決定するのであった…
更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が薩摩〈内城〉主〈島津義久〉征伐で
筑前〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉〈秋月種長〉父子の降服を受けて〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花宗茂〉に島津攻め
の先鋒を命じた日
同じ日一方、薩摩〈内城〉主〈島津義久〉家臣〈新納忠元〉が肥後〈隈本城=現熊本城〉を〈伊集院久治〉は豊後〈津守城〉(現大分県大分市)〈島津以久しまづゆきひさ〉は肥後〈八代城〉(現熊本県八代市)に各々入城して〈関白秀吉〉軍に備えた日。
更に1590年天正18年に天下統一を目前にする、天下人〈関白秀吉〉は、私戦停止令「関東奥羽惣無事令そうぶじれい」に従わず〈真田安房守昌幸〉の上野〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県沼田市)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉と、隠居の身であったが、北条家の実権を掌握していた〈北条氏政〉父子討伐
を決定し、諸大名に、関東への出陣を命じ
〈関白秀吉〉自らも、京都〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)を出陣
したのだった
一方、上方の軍勢を迎え討つ為、北条方は〈小田原城〉西の護りの最前線、天険〈箱根峠〉の要衝〈山中城〉(現静岡市三島市)を〈三好秀次〉率いる大軍により攻めさせて
一挙に落城させ
〈箱根峠〉を突破した豊臣軍は
〈箱根湯本〉に着陣し
〈小田原城〉の北・西側〈箱根口〉には、当主〈北条氏直〉の舅であり〈関白秀吉〉の妹婿で、義弟〈駿河大納言=徳川家康〉他〈豊臣秀勝〉〈豊臣秀次〉〈宇喜多秀家〉ら総勢5万
西・南側の〈熱海口〉に〈堀秀政〉〈長谷川秀一〉〈池田輝政〉〈丹羽長重〉ら3万
また相模灘

にも〈長宗我部元親〉〈九鬼嘉隆〉〈村上武吉〉ら水軍

2万
が、海上から〈小田原城〉を封鎖して、難攻不落を誇る〈小田原城〉を包囲し
〈関白秀吉〉は〈小田原城〉を眼下に見下ろす〈笠懸山=後の石垣山〉の築城に着手し、紀伊と四国から5万6千の将兵を築城を普請に当てさせた日
しかし〈北条氏政〉は
かつて〈上杉謙信〉や〈武田信玄〉の攻撃を〈小田原城〉での籠城戦で退けた、成功体験から
全国の諸大名による混成軍である、豊臣方は
所詮まとまりを欠いた大軍であると
本拠からの補給線が、遠距離に伴う事で、兵糧の欠乏と、当主〈北条氏直〉の舅である〈徳川家康〉が、豊臣方を裏切るやもしれないとの期待をいだいて
更に同盟を結んだ、陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈独眼竜=伊達政宗〉の援軍を頼みとして
難攻不落の〈小田原城〉に籠城するのだった…
更に1615年慶長20年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉方の挙兵の風説が有り、京都・伏見で緊迫度が増した為
徳川幕府は諸大名の上洛を命じ
伊勢〈津城〉(現三重県津市)主〈藤堂高虎〉が伊勢〈国津〉より山城〈淀〉に至り
〈
宇治川
〉〈
桂川
〉を警固した日。
同じ日、一方摂津〈大坂城〉主〈右大臣秀頼〉は、来る徳川幕府軍との戦場となる地形調査のため、重臣〈大野修理亮治長〉並びに豊臣家〈七手組=青木一重・速水守久・伊東長実・堀田盛高・郡宗保・中嶋氏種・野々村雅春・真野助宗〉らと共に〈大坂城〉から城外へ出て
〈阿倍野〉〈住吉〉〈茶臼山〉〈四天王寺〉〈岡山〉を巡視して16時には〈大坂城〉に帰還して酒宴
が催され豊臣方の士気は上がった日
同じ日〈右大臣秀頼〉家臣〈大野治長〉の使者が駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に至り〈大御所=徳川家康〉から提示された条件の〈豊臣秀頼〉〈淀殿=茶々〉(浅井長政長女・豊臣秀吉側室)母子には従えぬ旨を通告し、事実上宣戦布告をした日。
よって件の如し
恐々謹言卯月五日
太閤

参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
(日)からずっと雨
続きで
もはや花散らしの雨
桜ももつまい
昨日も残業で体育館JYM鍛練も城内鍛練も出来んイヤーン
今日4月5日は1542年天文11年に〈越後守護職=上杉定実〉が隠居を希望して〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾晴景〉(長尾為景嫡男・上杉謙信兄)に起請文を差し出した日。
更に1548年天文17年に信濃埴科郡〈葛尾城〉(現長野県埴科郡坂城町)主〈村上義清〉筑摩郡〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉や伊那郡〈福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉安曇郡〈森城〉(現長野県大町市)主〈仁科盛能〉ら連合軍が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉方の〈諏訪下社〉(現長野県諏訪市)を攻めて放火し
伊那郡〈鈴岡城〉(現長野県飯田市)主〈小笠原信定〉他〈下条〉〈片桐〉〈飯島〉〈知久〉ら国衆を伴い〈小笠原信定〉は兄〈信濃守護職=小笠原長時〉支援に出陣した日
更に1553年天文22年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃埴科郡〈葛尾城〉主〈村上義清〉方の〈荒砥城〉(現長野県千曲市)主〈屋代政国〉や〈塩崎城〉(現長野県長野市)将〈塩崎六郎〉〈石川城〉(現長野県長野市)将〈石川大和守〉〈唐崎山城〉(現長野県千曲市)主〈雨宮刑部正利〉〈南条耕雲寺=乾巨〉らが〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田幸隆〉の調略で武田方に寝返った日。
更に1562年永禄5年に河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈畠山高政〉軍が
摂津〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉を包囲して
周辺の三好方の出城を攻略開始した日
更に1573年元亀4年に朝廷は天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉による、京都洛中上京焼討ちで
類火が御所近くにまで及び
危惧した〈正親町天皇おうぎまち〉は
勅使として〈関白=二条晴良〉〈三条西実枝〉〈庭田重保〉らを〈二条城〉(現京都府京都市上京区)に籠城中の〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉お〈知恩院〉(現京都府京都市東山区)の〈織田信長〉本陣に派遣して和議を講じさせた日。更に1575年天正3年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉家臣〈大賀弥四郎=大岡弥四郎〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田四郎勝頼〉に内通していた事が発覚し
捕縛され、首だけを出した状態で地中に生き埋めにされ、竹の鋸で領民達に鋸を引かせる「鋸引きの刑」で処刑された日
この〈大賀弥四郎=大岡弥四郎〉事件が、後に〈徳川家康〉に苦渋の決断を迫る
大事件に発展してしまう事になるのだった…更に1578年天正6年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉による摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との〈石山合戦
〉で織田軍は付近一帯の麦苗をことごとく薙ぎ捨てた日。更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉父子滅亡後、武田旧領信濃で〈芋川親正〉ら浪人・農民・土民ら〈川中島一揆
〉が勃発し
一揆方が北信濃〈飯山城〉(現長野県飯山市)将〈稲葉貞通〉次いで〈長沼城〉(現長野県長野市)を攻めた一揆衆を
〈森長可〉(森吉成長男・森蘭丸兄)を攻撃し壊滅させ
〈大倉古城〉に敗走した一揆衆を千余り斬り捨てた日
そして〈芋川親正〉は越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉方に服属したのだった。更に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉から中国平定を命じられた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方の、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉を調略すべく、家臣〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉が〈吉備津宮〉神官〈堀部掃部ほりべかもん〉に織田方に内応すれば備中か備後を与えるとして〈前右大臣信長〉の誓紙の持参を依頼したが〈清水宗治〉が断った日。
更に1583年天正11年に上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)主〈北条丹後守高広〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍の上野侵攻に対して、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉に救援を求め
越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉にも関東出兵を要請した日。更に1584年天正12年に〈小牧・長久手戦役
〉で、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は尾張へ出陣し
羽柴本陣で軍議が開かれ、前の敗戦での雪辱に燃える
〈池田恒興入道勝入斎〉が〈羽柴秀吉〉に〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)に布陣する遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉を押さえておいて〈徳川家康〉が留守中の領国三河への「中入れ」策を進言し
〈羽柴秀吉〉が許認可した日。一方、尾張〈小牧山城〉に布陣する〈徳川家康〉が〈小牧山〉北麓と〈八幡塚〉間に〈羽柴秀吉〉方に備えて土塁を構築した日。
更に1586年天正14年に豊後〈臼杵城うすき〉(現大分県臼杵市)のキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟おおともよししげにゅうどうそうりん〉が、摂津〈大坂城〉に登城し、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見を許されて、九州全土平定に向け北上中の、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉の領土侵犯を訴え
討伐を要請したため〈関白秀吉〉は
〈大友宗麟〉を〈大坂城〉内「黄金の茶室」で〈関白秀吉〉の茶匠〈千利休〉による茶の湯で接待し
寝所にまで案内し〈大友宗麟〉は〈大坂城〉のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城」と称えた日。この時〈大友宗麟〉は、豊臣政権が、政治面は〈関白秀吉〉の舎弟〈大和大納言=豊臣秀長〉と〈千利休〉によって執り仕切られていると聞かされたのだった

そして〈関白秀吉〉は、前年10月に九州の諸大名に対して停戦を命じ

大名間の領土紛争
については〈関白秀吉〉が、全て裁定する旨を通達したのだった
その裁定で
筑前を豊臣家の直轄地とし
豊後・肥後半国・豊前半国と筑後を〈大友宗麟〉に、肥前を〈毛利輝元〉に
その他を〈島津義久〉の領地とするという「九州国分け令」を〈島津義久〉と〈大友宗麟〉に示したところ、島津氏の攻勢に圧迫されていた〈大友宗麟〉は〈関白秀吉〉の裁定を受諾したが…一方、九州全土征服を目前にしていた〈島津義久〉は〈関白秀吉〉の裁定を不服として
承諾しなかった為〈関白秀吉〉は〈島津征伐
〉を決定するのであった…更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉が薩摩〈内城〉主〈島津義久〉征伐で
筑前〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉〈秋月種長〉父子の降服を受けて〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)主〈立花宗茂〉に島津攻め
の先鋒を命じた日
同じ日一方、薩摩〈内城〉主〈島津義久〉家臣〈新納忠元〉が肥後〈隈本城=現熊本城〉を〈伊集院久治〉は豊後〈津守城〉(現大分県大分市)〈島津以久しまづゆきひさ〉は肥後〈八代城〉(現熊本県八代市)に各々入城して〈関白秀吉〉軍に備えた日。
更に1590年天正18年に天下統一を目前にする、天下人〈関白秀吉〉は、私戦停止令「関東奥羽惣無事令そうぶじれい」に従わず〈真田安房守昌幸〉の上野〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県沼田市)を奪取した、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉と、隠居の身であったが、北条家の実権を掌握していた〈北条氏政〉父子討伐
を決定し、諸大名に、関東への出陣を命じ
〈関白秀吉〉自らも、京都〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)を出陣
したのだった
一方、上方の軍勢を迎え討つ為、北条方は〈小田原城〉西の護りの最前線、天険〈箱根峠〉の要衝〈山中城〉(現静岡市三島市)を〈三好秀次〉率いる大軍により攻めさせて
一挙に落城させ
〈箱根峠〉を突破した豊臣軍は
〈箱根湯本〉に着陣し
〈小田原城〉の北・西側〈箱根口〉には、当主〈北条氏直〉の舅であり〈関白秀吉〉の妹婿で、義弟〈駿河大納言=徳川家康〉他〈豊臣秀勝〉〈豊臣秀次〉〈宇喜多秀家〉ら総勢5万
西・南側の〈熱海口〉に〈堀秀政〉〈長谷川秀一〉〈池田輝政〉〈丹羽長重〉ら3万
また相模灘

にも〈長宗我部元親〉〈九鬼嘉隆〉〈村上武吉〉ら水軍

2万
が、海上から〈小田原城〉を封鎖して、難攻不落を誇る〈小田原城〉を包囲し
〈関白秀吉〉は〈小田原城〉を眼下に見下ろす〈笠懸山=後の石垣山〉の築城に着手し、紀伊と四国から5万6千の将兵を築城を普請に当てさせた日
しかし〈北条氏政〉は
かつて〈上杉謙信〉や〈武田信玄〉の攻撃を〈小田原城〉での籠城戦で退けた、成功体験から
全国の諸大名による混成軍である、豊臣方は
所詮まとまりを欠いた大軍であると
本拠からの補給線が、遠距離に伴う事で、兵糧の欠乏と、当主〈北条氏直〉の舅である〈徳川家康〉が、豊臣方を裏切るやもしれないとの期待をいだいて
更に同盟を結んだ、陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈独眼竜=伊達政宗〉の援軍を頼みとして
難攻不落の〈小田原城〉に籠城するのだった…更に1615年慶長20年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈右大臣=豊臣秀頼〉方の挙兵の風説が有り、京都・伏見で緊迫度が増した為
徳川幕府は諸大名の上洛を命じ
伊勢〈津城〉(現三重県津市)主〈藤堂高虎〉が伊勢〈国津〉より山城〈淀〉に至り
〈
宇治川
〉〈
桂川
〉を警固した日。同じ日、一方摂津〈大坂城〉主〈右大臣秀頼〉は、来る徳川幕府軍との戦場となる地形調査のため、重臣〈大野修理亮治長〉並びに豊臣家〈七手組=青木一重・速水守久・伊東長実・堀田盛高・郡宗保・中嶋氏種・野々村雅春・真野助宗〉らと共に〈大坂城〉から城外へ出て
〈阿倍野〉〈住吉〉〈茶臼山〉〈四天王寺〉〈岡山〉を巡視して16時には〈大坂城〉に帰還して酒宴
が催され豊臣方の士気は上がった日
同じ日〈右大臣秀頼〉家臣〈大野治長〉の使者が駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)に至り〈大御所=徳川家康〉から提示された条件の〈豊臣秀頼〉〈淀殿=茶々〉(浅井長政長女・豊臣秀吉側室)母子には従えぬ旨を通告し、事実上宣戦布告をした日。よって件の如し

恐々謹言卯月五日
太閤

見つからず諦め〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)に行ってきたぜィ
〈平井定武〉に送り返し〈六角義賢入道承禎〉に反旗を翻し
一方、亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)は1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〈大坂城〉から退去しのに続いて〈織田有楽斎〉五男〈織田尚長〉も退去した日。






の送迎
に早朝から夜まで出陣