ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝も早朝起床しょぼん休日出勤でゴルフ接待ゴルフ昨日の朝また駅前のコンビニで高校生時代から顔見知りだった大学4年生〈イケメンアイウラくん〉に遇いニコニコまたmonster差し入れニコニコ駅に向かうと道端に落ちていた財布がま口財布を発見ショック!中身は2万8千円程の現金と免許証に神奈川大学の学生証他カード類多数入ってたから駅前交番に届けたったぜィビックリマーク


今日6月4日は1538年天文7年に南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉軍が〈京極高延〉方の〈鎌刃城〉(現滋賀県米原市)を攻略した日美容院


更に1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父)〈武田晴信=後の武田信玄〉父子が、信濃小県郡〈海野平の合戦美容院〉で〈海野棟綱〉らを撃破し〈躑躅ヶ崎館〉へ凱旋した日馬しかし水面下では秘かに謀反が準備中であった…


更に1558年永禄元年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈菅領=細川晴元〉軍が〈如意嶽〉へ出陣して馬〈三好長逸〉軍と京都〈鹿ヶ谷〉で交戦した日

更に1570年元亀元年に、南近江〈観音寺城〉主〈六角義賢入道承禎〉(六角定頼嫡男)〈六角義治〉父子が〈一向一揆衆=本願寺門徒衆〉を率いて〈笠原〉へ進軍し馬〈長光寺城〉(現滋賀県近江八幡市)将〈柴田権六勝家〉を包囲し城内の水が底を尽く有り様となりガーン〈柴田勝家〉は水瓶に数日分残っていた水を家臣達に分け与え、覚悟を示すため僅かに残っていた水瓶をかち割りドンッ城から〈六角〉方討って出て〈佐久間信盛〉らと共に〈野洲河原の合戦美容院〉で〈六角承禎〉方を撃退した日美容院その為人は猛将〈柴田勝家〉をして「瓶割り柴田」と讃えたのだった。


更に1582年天正10年二日前の6月2日早暁、丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)を出陣した〈明智光秀〉率いる1万3千馬の軍勢が、京都洛中西洞院〈本能寺〉(現京都府京都市中京区)に宿泊中の主君〈織田信長〉を、次いで〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に嫡男〈織田信忠〉を急襲し討った〈本能寺の変美容院〉から三日…


〈明智光秀〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)や〈丹羽五郎左衛門長秀〉の〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)を奪取すべく、軍勢を東に向けたが馬〈瀬田城〉(現滋賀県大津市)主〈山岡景隆〉が京都での変事を知りショック!明智軍の近江進撃を阻止すべく〈瀬田唐橋〉(現滋賀県大津市)を焼き落とした為ショック!明智軍は〈霧瀬田川霧〉渡る事が困難となりショック!一旦本拠〈坂本城〉に帰還していたが…


〈明智光秀〉は畿内諸大名の勧誘工作に専念し〈京極高次〉〈阿閉貞征〉〈山崎片家〉〈小川祐忠〉〈多賀常則〉らを味方にしてニコニコ若狭〈小浜城〉主〈武田元明〉や、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉から援軍を派遣され馬味方としていたのだった…


一方、備中〈霧高松城水責め霧〉中の〈羽柴秀吉〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈織田信長〉に援軍を要請していたが〈高松城〉救援の為、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利来援軍と対峙しながら、主君〈織田信長〉着陣を待ちつつ、毛利方外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を呼んで、和議を図っていたのだった…

〈毛利輝元〉と伯父〈吉川元春〉〈小早川隆景〉らは〈霧高松城水責め霧〉により戦況を覆せないまま〈織田信長〉の本隊が到着すればガーン和睦どころか…3月甲斐〈新府城〉(現山梨県韮崎市)主〈武田勝頼〉同様ガーン滅亡の危機と判断してガーン叔父〈小早川隆景〉〈安国寺恵瓊〉に和議を進めさせ〈羽柴秀吉〉の示した案に対して〈毛利輝元〉はショック!織田方に五ヶ国割譲を覚悟するのだった…


そこへ3日夜星空〈本能寺の変美容院〉を知った〈羽柴秀吉〉は驚愕しショック!急ぎ〈安国寺恵瓊〉を呼んで、亡君信長の横死を隠してガーン急ぎ和議交渉を行い、当初五ヶ国割譲案を備中・美作・伯耆三ヵ国のみの割譲でという譲歩案を示しニコニコパー〈高松城〉将〈清水宗治〉を切腹させるというかたちでショック!和兵案を提示したが〈羽柴秀吉〉は、全軍直ちに亡君信長の弔い合戦美容院をすべくプンプン畿内へと、とって返す事が優先課題だった…


しかしショック!〈小早川隆景〉は、忠臣〈清水宗治〉の切腹だけは拒絶したかったがショック!〈安国寺恵瓊〉に説得され、織田政権との和睦を決断してショック!4日午前、毛利・羽柴両軍将士が遠望する中目〈高松城〉を囲む湖上霧に舟を出させて、城将〈清水宗治〉が切腹して果てた日

〈清水宗春〉の自刃を見届けた〈羽柴秀吉〉は人質として〈森重政=後の毛利重政〉〈森高政=後の毛利高政〉を〈毛利輝元〉も〈宍戸〉を双方が交換され和睦を締結しニコニコ〈羽柴秀吉〉は〈高松城〉の周囲の土累を破壊して水を抜いて周辺一帯を泥沼化させて、毛利方の追撃を不可能にしてから、播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)への撤退〈中国大返し〉を開始するのであった…


その後、忠臣〈清水宗治〉自刃後の四日夕刻三日月キラキラ紀伊〈雑賀衆=土橋平尉〉から〈本能寺の変美容院〉を知らされたショック!この変事に、毛利軍猛将〈吉川元春〉は〈羽柴秀吉〉の追撃を主張したがプンプン〈小早川隆景〉は、亡き〈織田信長〉が追放した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立してショック!これ以上の果てしない織田政権との戦いに引き込まれてショック!毛利家を疲弊させる事の不利を兄〈吉川元春〉に説いて、畿内の情勢を見定める事でと押し留めたのだった

更に四日和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)から〈伊賀越え〉を敢行した〈徳川家康〉は〈柘植つげ〉→〈四日市〉→〈那古=白子〉にて漁民の船船で伊勢湾波を越え船苦難の末にようやく三河〈大浜〉に上陸し〈岡崎城〉への帰還を果たした日。


更に北陸越中では、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方の越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)を落城させた〈柴田勝家〉率いる〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈金森長近〉ら北陸方面軍に、京都での〈本能寺の変美容院〉の急報がもたらされショック!〈柴田勝家〉は直ちに越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)へ向けて撤退し馬〈前田利家〉は越中〈海老江〉より海路〈大境〉まで撤退し能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)へ船〈佐々成政〉は殿軍(しんがり)となり越中〈富山城〉(現富山県富山市)へ入城した日。


更に1583年天正11年に〈山崎の合戦美容院〉続く〈賤ヶ岳の合戦美容院〉で大勝利した、山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が軍師〈黒田官兵衛孝高〉と重臣〈蜂須賀小六正勝〉〈浅野長吉=後の浅野長政〉らを従えて〈大坂城〉築城候補地、摂津大坂〈石山本願寺〉跡の地を検分した日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈石田治部少輔三成〉を総大将とする副将〈大谷刑部少輔吉継〉〈長束大蔵大輔正家〉ら豊臣軍と、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)主〈佐野房綱入道了伯〉下総〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉〈下妻城〉(現茨城県下妻市)主〈多賀谷重経〉らが、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉方〈成田氏長〉が〈小田原城〉へ入城して留守の、武蔵〈忍城おし〉(現埼玉県行田市)代〈成田泰季〉を包囲し〈石田三成〉は、かつて亡き〈上杉謙信〉が本陣を構えた古墳〈丸墓山〉に〈大谷刑部〉は〈忍城=佐間口〉に布陣した日馬


更に1594年文禄3年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が自ら山城〈伏見指月城〉(現京都府京都市伏見区)の普請工事現場を視察した日。


更に1596年慶長元年に〈後陽成天皇ごようぜい〉皇后〈近衛前子〉に第三皇子〈政仁親王=後の後水尾天皇〉が誕生した日ケーキ


更に1599年慶長4年に安芸〈広島城〉(現広島県広島市)主〈安芸中納言=毛利輝元〉養嗣子〈毛利秀元〉が、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉方にならぬ事を〈安国寺恵瓊〉に誓った日。


更に1611年慶長16年に、かつて〈武田信玄〉の側に仕え〈武藤喜兵衛〉として名を馳せニコニコ〈織田信長〉や越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉や、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子や、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の間を渡りあいながら、天下人〈関白=豊臣秀吉〉をして「表裏卑怯者」と言わせ、徳川軍を信濃〈上田城〉(現長野県上田市)攻防戦美容院で、二度までも討ち敗った名将〈真田安房守昌幸〉が、難攻不落の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に再び入城して〈大御所=徳川家康〉相手に合戦美容院する事を夢見ながらニコニコ配流地の紀伊〈九度山〉(現和歌山県伊都郡九度山町)で死去した命日享年65歳しょぼん


晩年〈真田昌幸〉は、次男〈真田信繁=幸村〉に〈大坂城〉への入城を願っていたが…それは、ついにかなわなかったのだった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月四日
太閤
ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も残業だったからしょぼんもはや3日連チャン残業で体育館JYM鍛練も城内簡易鍛練の時間ナッシブルガーン


今日6月3日は1543年天文12年に西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平広忠〉が〈三木城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平蔵人信孝〉を攻撃した日

更に1566年永禄9年この頃、河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈畠山高政〉と〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉が和議を開始して〈畠山高政〉軍は紀伊に撤退したのだった馬


更に1568年天正11年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉の調略に内通しシラー越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に反旗を翻した、越後〈村上城〉(現新潟県村上市)主〈本庄越前守繁長〉を支援しにひひ越後へ侵攻せんとし〈大井弾正忠正忠=岩尾行範〉に出陣を命じた日。


更に1570年元亀元年この頃、裏切った妹婿の北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉攻めを急ぐプンプン美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、家臣〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉をして〈松尾山〉の〈樋口三郎左衛門〉方の〈長亭軒〉に隠棲中の〈竹中半兵衛重虎〉を味方とするよう命じ〈竹中半兵衛〉は〈木下藤吉郎秀吉〉の軍師となることを承諾して〈松尾山〉を降りて織田方となり〈浅井長政〉家臣〈堀次郎秀村〉を調略に成功し〈竹中半兵衛重治〉と改名したのだった。


〈木下藤吉郎秀吉〉が隠棲生活している〈竹中半兵衛〉の庵を2度訪問する留守で3度目にして面会出来〈竹中半兵衛〉を織田方に仕官を求めるも断られたが〈木下藤吉郎〉必死の説得で秀吉の軍師となることを承諾したとされる話しは、後の江戸時代の「太閤記」等による創作だったとされている…


更に1573年元亀4年この頃、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉方の遠江〈二俣城〉(現静岡県浜松市天竜区)に備えて〈社山砦やしろやま〉〈合代島砦ごうだいじま〉〈渡島砦わたがしま〉を築いて、三河〈長篠城〉(現愛知県新城市)を攻撃した日美容院


更に1575年天正3年この頃、播磨〈御着城〉(現兵庫県姫路市)主〈小寺政職こでらまさもと〉が評定を開き、西から勢力を拡大し続けているガーン安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)と、東から「天下布武」のもと畿内から西へ勢力を拡大させてきた美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉の、どちらに味方すべきか…評定は湧きプンプン毛利方に味方するという意見が多い中〈黒田(小寺)官兵衛孝高〉が「毛利輝元は凡庸にしてプンプンそれに比べて織田信長は今川義元を討って以来長篠設楽ヶ原の合戦美容院での戦い方をみてもプンプン翔ぶ鳥をも落とす勢いで、いかにも優れているプンプン」と説得しプンプン〈小寺政職〉は織田方に服属を決めたのだった。


更に1576年天正4年この頃、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉が、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉に〈越前・加賀一向一揆衆=本願寺門徒衆〉と共に、天下統一を推し進めるプンプン近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉を討伐して〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉の京都回復のため出兵を要請した日。


更に1582年天正10年に前日早暁天下を揺るがした〈本能寺の変美容院〉で〈前右大臣=織田信長〉と嫡男〈秋田城介=織田信忠〉が〈明智光秀〉の電光石火の奇襲攻撃美容院により父子共に自刃して果てショック!京都洛中は大混乱となっていた…


そして〈本能寺の変美容院〉勃発の翌日…事変直後から〈明智日向守光秀〉の兵は灰塵に帰した〈本能寺〉の焼け跡で〈織田信長〉の遺骸の探索が続けられていたのだった…


近江〈安土城〉留守居役で〈織田信長〉の娘〈冬姫〉の婿〈麒麟児=蒲生氏郷〉の父親で、近江〈日野城〉(現滋賀県日野市)主〈蒲生賢秀がもうかたひで〉が〈織田信長〉の妻子一族らを警護して〈安土城〉から〈日野城〉へ脱出させた日

一方〈織田信長〉から和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)見物を薦められ、泉州〈堺〉に滞在していた〈徳川家康〉〈酒井忠次〉〈本多平八郎忠勝〉〈穴山信君入道梅雪〉(武田信玄娘婿)ら主従一行は、急ぎ〈堺〉を出立し走る人京の都に向かうとしていたが走る人摂津〈飯盛山〉(現大阪府四條畷市)付近で、急ぎ駆けつけてきた馬DASH!京都の徳川家御用商人〈茶屋四郎次郎清延〉から〈本能寺の変美容院〉報を聞いて驚愕しショック!京都に再び上洛すると称して、本拠三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)への最短距離〈伊賀越え〉の難所へ向かった日で走る人途上〈穴山梅雪〉が、山城〈宇治田原〉で、土民に襲撃されショック!絶命したのだったショック!


伊賀の道案内には、早くから伊賀を出奔し、徳川家に仕えていた伊賀忍者〈服部半蔵正成〉が、伊賀・甲賀忍者300人程をかき集めて、伊賀山中を逃避行走る人し〈柘植つげ〉(現三重県伊賀市)~〈加太かぶと〉~伊勢〈関〉~〈白子〉(現三重県鈴鹿市)へと抜けて〈白子浜〉から船船で伊勢湾波を渡り船対岸の三河〈大浜〉へ向かった「神君伊賀越え」が行われた日船


一方、電撃的に〈織田信長〉〈織田信忠〉父子を討った〈明智光秀〉は〈本能寺〉と〈妙覚寺〉を包囲攻撃美容院した軍勢馬を、洛中に潜伏する織田の残党を掃討させ、山城〈勝龍寺城〉(現京都府長岡京市)に、家臣〈溝尾勝兵衛茂朝〉を入城させて馬摂津大坂に在陣中で、四国へ渡海準備中だった〈神戸(織田)信孝〉(織田信長三男)〈丹羽五郎左衛門長秀〉の京都への反転リサイクル上洛戦に備えさせたが〈住吉〉陣営には〈明智光秀〉の娘婿〈津田(織田)信澄〉(織田信長弟織田信勝嫡男)がいたのであった…


一方、備中〈霧高松城水責め霧〉中で、主君〈前右大臣信長〉の着陣を待っている〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉と対峙中の、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利軍に〈織田信長〉父子討伐したとの密書手紙を送る外交戦を同時展開して〈明智光秀〉は〈安土城〉を占領すべく明智軍が近江に向かったが馬近江〈瀬田城〉(現滋賀県大津市)主〈山岡景隆〉が〈瀬田大橋〉を焼き落としていた為、橋修築を命じてパー一端居城〈坂本城〉(現滋賀県大津市)へと帰還したのだった馬


一方、北陸越中で越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)〈上杉景勝〉(上杉謙信甥・長尾政景次男)方〈魚津城〉(現富山県魚津市)を攻撃美容院していた、織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は3日早朝80日余りに及ぶプンプン頑強に抵抗していた越中〈魚津城〉を、ようやくにして攻略美容院城将〈中条景泰〉ら13将が姓名を書いた札を針金で各自の耳たぶに通して自刃玉砕した日

更に安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉〈吉川元春〉〈小早川隆景〉らの大軍と対峙しながらガーン備中〈霧高松城水責め霧〉中の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉の陣中に3日夜星空〈明智光秀〉から〈小早川隆景〉に宛てた密書手紙を所持した密使が走る人毛利方陣営と〈羽柴秀吉〉陣を取り違えて捕らえられ〈本能寺の変美容院〉報を知って驚愕した〈羽柴秀吉〉はショック!はじめ毛利方の策略だと怪しんでいたがショック!


京都から〈織田信長〉の茶匠〈長谷川宗仁〉から〈羽柴秀吉〉に宛てた書状手紙が到着しガーンもはや〈織田信長〉自害は事実である事を認識しショック!慟哭していたところ°・(ノД`)・°・軍師〈黒田官兵衛孝高〉が「殿!御運が開けましたぞ!!」「逆臣明智光秀を討って信長公の弔い合戦美容院を!」と、亡君の弔い合戦美容院を進言しプンプンパー軍師〈黒田官兵衛〉は直ちに、毛利方外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を呼んで和議について打診した日…


一方、備中〈高松城〉(現岡山県岡山市)主〈清水宗治〉は〈羽柴秀吉〉から派遣された軍使〈蜂須賀小六正勝〉〈杉原家次〉へ、城兵の助命を条件に〈清水宗治〉自身と兄〈清水宗知入道月清〉に、家臣〈難波伝兵衛尉宗忠〉と毛利家軍監〈末近左衛門尉信賀〉ら4人の自刃を申し出て〈小早川隆景〉に人質として、備後〈三原〉に差し出した次男〈清水源三郎=後の清水景治〉に遺言を遺したのだった。


その〈清水宗治〉の返答に応えて〈羽柴秀吉〉は〈高松城〉兵の助命と〈清水宗治〉長男〈清水連枝=後の清水宗之〉の助命を容認しニコニコ〈高松城〉内へ小舟1艘に酒肴を遣わした日。


更に1584年天正12年に〈小牧・長久手戦役美容院〉で摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が伊勢・美濃・尾張方面へ出陣中の留守の隙を突いて、京都洛中で〈佐久間道徳〉(佐久間信盛次男)謀反事件に連座した町人が洛中蛸薬師付近で晒された日。

更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈加賀中納言=前田利家〉が、家臣〈長連龍〉〈不破勝光=不破直光〉〈高畠定吉〉に、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉叔父〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)が守備する、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)攻めに参陣を要請した日。


同じ頃、下総〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉〈多賀谷城〉(現茨城県下妻市)主〈多賀谷重経〉武蔵〈片野城〉(現茨城県石岡市)主〈太田資正入道三楽斎道誉〉らが〈関白秀吉〉に服属を伝えたのだった。


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で〈太閤秀吉〉自らの出陣に代わって〈石田治部少輔三成〉〈大谷刑部少輔吉継〉〈増田長盛〉ら三奉行に〈長谷川秀一〉〈木村重茲〉〈歌藤光泰〉〈前野長泰〉らを奉行衆を加え朝鮮半島支配・方針を遂行すべく朝鮮半島へ渡海した日船


更に1595年慶長4年に天下人〈太閤秀吉〉が〈毛利輝元〉と〈島津維新入道義弘〉に、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈蒲生秀行〉(蒲生氏郷嫡男)老臣らの不正を糾弾してプンプン会津92万石を減封しショック!近江へ転封する事を通達するよう命じた日。


更に1613年慶長18年に1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉時に西軍〈石田三成〉方となり東軍〈中納言=徳川秀忠〉軍を信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)で撃退して美容院戦後、豊臣家大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉からプンプン紀伊〈九度山〉へ配流された亡き〈真田安房守昌幸〉正室〈寒松院=山手殿〉が死去した命日しょぼん


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月三日
太閤
2013091015240000.jpg
2013051911420000.jpg
2013061215040000.jpg
ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日も残業だった上に職場の〈豆柴ヒロクン〉カマってたから晩くナッシブルでしょぼん鍛練時間ナッシブルガーン


今日6月2日は1550年天文19年に駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉正室〈定恵院じょうけいいん〉(武田信玄姉)が病没した命日享年32歳しょぼんその為ガーン甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉は信濃侵攻戦中でり「甲駿同盟」の維持は必要不可欠であった為ショック!〈武田晴信〉は長男〈武田太郎=後の武田太郎義信〉に〈今川義元〉息女〈嶺松院〉を正室として迎える方向で今川家に申し入れるのだった…


更に1558年永禄元年に摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)主〈三好長慶〉が、近江へ逃れた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉の京都への入洛を阻止せんとしてプンプン家臣〈三好長逸〉に〈将軍山城=北白川城〉(現京都府京都市左京区)を再び普請した日。


更に1560年永禄3年に5月19日〈桶狭間の合戦美容院〉で駿河富士山遠江・三河の大守〈今川義元〉を討ち取った美容院尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉は、勝ち戦に乗じてプンプン亡き舅〈斎藤道三〉の遺言「美濃譲り渡し状」をもとに、本格的に美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤新九郎義竜〉(斎藤道三嫡男)攻めを開始した日美容院


更に1562年永禄5年に摂津〈芥川山城〉主〈三好長慶〉と南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角義賢入道承禎〉が和睦した日。


同じ日、西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉方の三河国衆〈菅沼定盈すがぬまさだみつ〉が、駿河富士山〈駿府城〉主〈今川氏真〉方の三河〈野田城〉(現愛知県新城市)将〈稲垣氏俊〉を討ち取り〈野田城〉を奪回した日美容院


更に1575年天正3年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が〈長篠設楽ヶ原の合戦美容院〉で討死した〈山県三郎兵衛昌景〉が統轄していた、駿河富士山〈江尻城〉(現静岡県静岡市清水区)代に、武田親類衆〈穴山信君入道梅雪〉を任命し入城させた日。


同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉軍が〈霧大井川霧〉を渡河して馬駿河富士山〈由比〉〈倉沢〉を攻めたが美容院〈武田勝頼〉軍が出陣して来たため遠江へ撤退した日。


更に1577年天正5年この頃、天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉が〈安土城〉下に対して諸座・諸役・諸公事を「楽市」「楽座」令を敷いて各種規制緩和させたのだった。


更に1581年天正9年に天下統一を目前にする、近江〈安土城〉主〈前右大臣=織田信長〉が、それまでの対三好戦の外交路線から転換して、同盟服属関係にある、土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉弟〈香曾我部親泰〉に朱印状を送り〈三好康長〉〈三好清長=三好康俊〉父子を支援するよう要請した日。


更に1582年天正10年早暁〈前右大臣=織田信長〉の重臣〈明智日向守光秀〉が1万3千を率いて馬丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)を出陣し〈老の坂〉を下って〈沓掛〉に至った馬〈明智光秀〉は、家臣〈天野源右衛門〉に偵察を命じプンプンパー〈本能寺〉への通報者を阻止するため先発させ馬DASH!〈天野源右衛門〉は途中朝野菜を取りに畑仕事をしていた農民を斬殺したのだったショック!


〈沓掛〉から〈霧桂川霧〉西岸まで来たところで〈明智光秀〉は全軍に戦闘準備命令を下しプンプン足軽鉄砲隊の火縄に点火を命じプンプンこの時点でも、まだ機密は保たれ、足軽らは不審感を持ちながらも粛々と下知に従って〈霧桂川霧〉を渡河したところで、ここに至って〈斎藤内蔵助利三〉や〈明智左馬助秀満〉ら重臣達らが、〈本能寺〉襲撃を全軍に下知したのだったプンプンパー


「今日より、我らが殿が天下様におなりになられる!下々草履取りに至るまで喜べ!」

「これより前右大臣信長公を本能寺に討ち、信忠様を妙覚寺に討つ!二ヶ所での手柄に見合う恩賞は望みのままぞ!」

「者ども!命惜しまず名こそ惜しみ勇み戦え!!」

明智全軍が奮い立ったところで〈明智光秀〉が、采配を掲げ「敵は本能寺にあり!!


明智全軍1万3千馬は、同じ道を行けば軍勢の行軍に時間が掛かり渋滞化する為、明智軍は三隊に別れて西洞院〈本能寺〉を目指したのだった馬


一方、京都洛中西洞院〈本能寺〉に宿泊中だった〈織田信長〉の警護は〈森蘭丸=森成利〉〈森坊丸=森長氏〉〈森力丸=森長隆〉三兄弟や〈猪子兵助〉に1560年永禄3年〈桶狭間の合戦美容院〉で〈今川義元〉を討ち取った〈毛利新介〉ら馬廻衆・小姓衆30人ばかりの僅かな手勢しかおらずガーン明智勢は〈本能寺〉を十重八十重に包囲したのだった馬


就寝中だった〈織田信長〉は、明智勢の馬の嘶き(いななき)や軍勢の鬨の声プンプンパンチ!土居を乗り越え、木戸を打ち破って寺内に雪崩込む物音で目覚め目小姓〈森蘭丸〉に物見を命じたプンプンパー「蘭丸!物見せよ!!」当初〈織田信長〉は、軍勢の襲撃とは思わず、下々の者の喧嘩騒ぎだろうと考えていたが、やがて鉄砲の銃声や鬨の声で異変を察知し〈森蘭丸〉が見たものはショック!「水色桔梗」の紋ショック!即ち〈明智光秀〉の軍勢馬であったショック!


〈森蘭丸〉が駆け足で戻り走る人「明智が者と見え申し候m(__)」と注進すると〈織田信長〉はショック!自らが抜擢してきた緻密な武将〈明智光秀〉の謀叛であると知るとショック!「是非に及ばず!!」と言ったと伝わる…そして自ら弓を取り〈本能寺〉へ乱入して来る明智勢を次々射たが、弓の弦が切れてしまいショック!槍に持ち代えて明智勢を突き伏せていたが…多勢に無勢、僅かの手勢では敵うはずもなくショック!やがて信長自身も肘に槍傷を受けてショック!寺内奥御殿へと退いて…


〈織田信長〉は寺内奥御殿に居た側室や女中らに「女は苦しからずパー急ぎまかり出よ!」と言って女達を逃がした上で走る人殿中奥深くへ入って戸を閉ざし、迫り来る明智勢を防ぐ様にと命じてプンプン御殿に火をかけさせたのだったプンプンパー


紅蓮の焔(ほのお)と黒煙が奥御殿を包み込み〈織田信長〉は天下統一を目前にしながらショック!自刃して果てたのだった享年49歳


明智勢は時を移さず〈本能寺〉北東に位置する〈妙覚寺〉に宿泊していた、織田家嫡男〈秋田城介=織田信忠〉は〈京都奉行=村井貞勝〉から〈本能寺の変美容院〉の急報を知りショック!直ぐ様!父信長の居る〈本能寺〉へ援軍に駆けつけようとしたが〈村井貞勝〉に制止されパー既に〈本能寺〉は炎上しショック!〈本能寺〉陥落から間もなく明智軍が押し寄せ馬〈妙覚寺〉も包囲されようとしていた為ショック!〈織田信忠〉はショック!父信長救援を断念しショック!護りの手薄な〈妙覚寺〉から北方に位置する〈二条御所〉へと退避したのだった馬

明智勢は〈妙覚寺〉を焼き払い〈二条御所〉も包囲したが〈二条御所〉には〈誠仁親王さねひとしんのう〉と皇子達が居住していた為〈織田信忠〉は〈明智光秀〉に〈誠仁親王〉達が〈内裏=京都御所〉に移るまで休戦を願い出てパー〈明智光秀〉も此を承諾したのだったしょぼん


そして〈誠仁親王〉達の退避を見届けた明智勢は、最後の攻撃を開始し美容院隣接する、公卿〈近衛〉邸の屋根に上って鉄砲を射撃しドンッ〈織田信忠〉の手勢5百余りと、京都洛中に分宿泊中だった〈織田信長〉の馬廻り衆も〈織田信忠〉の元に馳せ参じて馬総勢1500で、必死の防戦も虚しくショック!多勢に無勢〈織田信忠〉も、父信長を追って自刃して果て〈二条御所〉も炎上したのだったショック!享年26歳ショック!


午前6時頃開始された〈本能寺の変美容院〉は、午前8時頃には戦いは決しショック!戦闘終結後〈本能寺〉の焼け跡の懸命な明智勢の探索にもかかわらず〈織田信長〉の首を見つけ出す事は出来ずガーンそれが信長生存説の噂を生み出しガーン全国で織田方と交戦中美容院の諸大名を味方に取り込む事が容易にならなくなりショック!天下統一を目前にした〈織田信長〉の死は、全国各地の諸大名達に衝撃ショック!を与え伊賀では織田軍による〈天正伊賀の乱美容院〉で壊滅させられ潜伏していた〈伊賀衆=忍者〉ら〈伊賀国一揆〉が蜂起しプンプン紀伊〈高野山=金剛峯寺〉を包囲していた織田軍も夕刻〈本能寺の変美容院〉を知りショック!撤退を開始するや走る人〈高野山=金剛峯寺〉僧兵らが織田軍を追撃して撃退した日美容院


一方、備中〈高松城水責め霧〉中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉は〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉救援に出陣して来た馬安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉使僧〈安国寺恵瓊〉を通じて、備中・美作・備後・伯耆・出雲五ヶ国割譲と〈清水宗治〉の自刃を条件に〈高松城〉兵の助命を伝えたが、毛利方備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)は「清水宗治は毛利家譜代家臣でもないにも関わらずショック!無二の忠節を尽くす義士を見殺しにするのは毛利武士の面目が立たない」と和睦を承諾せず膠着状態であった…


更に1583年天正11年に前年〈本能寺の変美容院〉で横死した亡き主君〈織田信長〉の遺骸は、事変後の探索でも見つけられないままであった為〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈織田信長〉の等身大の香木の木像を二体造らせ、一体を荼毘(だび)に臥したが、信長木像を焼いた煙りの異臭は洛中一帯に漂い、もう一体を京都洛中〈大徳寺=総見院〉に安置して、亡き〈織田信長〉の天下統一の大事業を引き継ぐのが自分であるという事をプンプン内外に喧伝して盛大な一周忌法要を挙行した日。


しかし、この〈大徳寺〉の大葬儀に、織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉や〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉らは参列しなかったのだった…


更に1585年天正13年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)主〈山内一豊〉を転封し、若狭西懸郡に〈脇坂安治〉を、摂津能勢郡に〈生駒近規=後の生駒親正〉近江に領地を与えた日

更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で、自ら朝鮮半島に渡海しようとした〈太閤秀吉〉を〈江戸大納言=徳川家康〉〈加賀中納言=前田利家〉らに諫言され〈後陽成天皇ごようぜい〉の制止もあり、来年3月まで延期となり〈上杉景勝〉〈直江山城守兼続〉主従が、肥前〈名護屋〉浦を出陣し玄海灘を渡った日船


更に1600年慶長5年に摂津〈大坂城〉で豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が、五大老の陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉征伐を関東諸大名に期日を告げプンプン準備を命じた日。


更に1615年元和元年に安土・桃山時代の絵師で〈明智光秀〉重臣〈斎藤内蔵助利三〉と親好熱く〈本能寺の変美容院〉後〈斎藤利三〉亡き後、娘の〈福=後の春日局〉を庇護した〈海北友松かいほうゆうしょう〉が死去した命日享年83歳しょぼん〈海北友松〉の墓所は京都〈真如堂=真正極楽寺〉(現京都府京都市左京区)の〈斎藤利三〉の横に在る…

よって件の如しビックリマーク
恐々謹言水無月二日
太閤
190519_152159.jpg
200321_140750.jpg
200321_140750.jpg
20210125-OYT8I50077-1.jpg
2014061312240000.jpg
2014053009470000.jpg
2013073013430000.jpg
2013060710480000.jpg
2013060710570000.jpg
20210117-OHT1I50229-L.jpg
2014060221490000.jpg
2014060216330000.jpg
2013061212420000.jpg