俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝も早朝起床
休日出勤でゴルフ接待
昨日の朝また駅前のコンビニで高校生時代から顔見知りだった大学4年生〈イケメンアイウラくん〉に遇い
またmonster差し入れ
駅に向かうと道端に落ちていた財布
を発見
中身は2万8千円程の現金と免許証に神奈川大学の学生証他カード類多数入ってたから駅前交番に届けたったぜィ
今日6月4日は1538年天文7年に南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉軍が〈京極高延〉方の〈鎌刃城〉(現滋賀県米原市)を攻略した日
更に1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父)〈武田晴信=後の武田信玄〉父子が、信濃小県郡〈海野平の合戦
〉で〈海野棟綱〉らを撃破し〈躑躅ヶ崎館〉へ凱旋した日
しかし水面下では秘かに謀反が準備中であった…
更に1558年永禄元年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈菅領=細川晴元〉軍が〈如意嶽〉へ出陣して
〈三好長逸〉軍と京都〈鹿ヶ谷〉で交戦した日
更に1570年元亀元年に、南近江〈観音寺城〉主〈六角義賢入道承禎〉(六角定頼嫡男)〈六角義治〉父子が〈一向一揆衆=本願寺門徒衆〉を率いて〈笠原〉へ進軍し
〈長光寺城〉(現滋賀県近江八幡市)将〈柴田権六勝家〉を包囲し城内の水が底を尽く有り様となり
〈柴田勝家〉は水瓶に数日分残っていた水を家臣達に分け与え、覚悟を示すため僅かに残っていた水瓶をかち割り
城から〈六角〉方討って出て〈佐久間信盛〉らと共に〈野洲河原の合戦
〉で〈六角承禎〉方を撃退した日
その為人は猛将〈柴田勝家〉をして「瓶割り柴田」と讃えたのだった。
更に1582年天正10年二日前の6月2日早暁、丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)を出陣した〈明智光秀〉率いる1万3千
の軍勢が、京都洛中西洞院〈本能寺〉(現京都府京都市中京区)に宿泊中の主君〈織田信長〉を、次いで〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に嫡男〈織田信忠〉を急襲し討った〈本能寺の変
〉から三日…
〈明智光秀〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)や〈丹羽五郎左衛門長秀〉の〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)を奪取すべく、軍勢を東に向けたが
〈瀬田城〉(現滋賀県大津市)主〈山岡景隆〉が京都での変事を知り
明智軍の近江進撃を阻止すべく〈瀬田唐橋〉(現滋賀県大津市)を焼き落とした為
明智軍は〈
瀬田川
〉渡る事が困難となり
一旦本拠〈坂本城〉に帰還していたが…
〈明智光秀〉は畿内諸大名の勧誘工作に専念し〈京極高次〉〈阿閉貞征〉〈山崎片家〉〈小川祐忠〉〈多賀常則〉らを味方にして
若狭〈小浜城〉主〈武田元明〉や、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉から援軍を派遣され
味方としていたのだった…
一方、備中〈
高松城水責め
〉中の〈羽柴秀吉〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈織田信長〉に援軍を要請していたが〈高松城〉救援の為、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利来援軍と対峙しながら、主君〈織田信長〉着陣を待ちつつ、毛利方外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を呼んで、和議を図っていたのだった…
〈毛利輝元〉と伯父〈吉川元春〉〈小早川隆景〉らは〈
高松城水責め
〉により戦況を覆せないまま〈織田信長〉の本隊が到着すれば
和睦どころか…3月甲斐〈新府城〉(現山梨県韮崎市)主〈武田勝頼〉同様
滅亡の危機と判断して
叔父〈小早川隆景〉〈安国寺恵瓊〉に和議を進めさせ〈羽柴秀吉〉の示した案に対して〈毛利輝元〉は
織田方に五ヶ国割譲を覚悟するのだった…
そこへ3日夜
〈本能寺の変
〉を知った〈羽柴秀吉〉は驚愕し
急ぎ〈安国寺恵瓊〉を呼んで、亡君信長の横死を隠して
急ぎ和議交渉を行い、当初五ヶ国割譲案を備中・美作・伯耆三ヵ国のみの割譲でという譲歩案を示し
〈高松城〉将〈清水宗治〉を切腹させるというかたちで
和兵案を提示したが〈羽柴秀吉〉は、全軍直ちに亡君信長の弔い合戦
をすべく
畿内へと、とって返す事が優先課題だった…
しかし
〈小早川隆景〉は、忠臣〈清水宗治〉の切腹だけは拒絶したかったが
〈安国寺恵瓊〉に説得され、織田政権との和睦を決断して
4日午前、毛利・羽柴両軍将士が遠望する中
〈高松城〉を囲む湖上
に舟を出させて、城将〈清水宗治〉が切腹して果てた日
〈清水宗春〉の自刃を見届けた〈羽柴秀吉〉は人質として〈森重政=後の毛利重政〉〈森高政=後の毛利高政〉を〈毛利輝元〉も〈宍戸〉を双方が交換され和睦を締結し
〈羽柴秀吉〉は〈高松城〉の周囲の土累を破壊して水を抜いて周辺一帯を泥沼化させて、毛利方の追撃を不可能にしてから、播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)への撤退〈中国大返し〉を開始するのであった…
その後、忠臣〈清水宗治〉自刃後の四日夕刻
紀伊〈雑賀衆=土橋平尉〉から〈本能寺の変
〉を知らされた
この変事に、毛利軍猛将〈吉川元春〉は〈羽柴秀吉〉の追撃を主張したが
〈小早川隆景〉は、亡き〈織田信長〉が追放した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立して
これ以上の果てしない織田政権との戦いに引き込まれて
毛利家を疲弊させる事の不利を兄〈吉川元春〉に説いて、畿内の情勢を見定める事でと押し留めたのだった
更に四日和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)から〈伊賀越え〉を敢行した〈徳川家康〉は〈柘植つげ〉→〈四日市〉→〈那古=白子〉にて漁民の船
で伊勢湾
を越え
苦難の末にようやく三河〈大浜〉に上陸し〈岡崎城〉への帰還を果たした日。
更に北陸越中では、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方の越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)を落城させた〈柴田勝家〉率いる〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈金森長近〉ら北陸方面軍に、京都での〈本能寺の変
〉の急報がもたらされ
〈柴田勝家〉は直ちに越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)へ向けて撤退し
〈前田利家〉は越中〈海老江〉より海路〈大境〉まで撤退し能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)へ
〈佐々成政〉は殿軍(しんがり)となり越中〈富山城〉(現富山県富山市)へ入城した日。
更に1583年天正11年に〈山崎の合戦
〉続く〈賤ヶ岳の合戦
〉で大勝利した、山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が軍師〈黒田官兵衛孝高〉と重臣〈蜂須賀小六正勝〉〈浅野長吉=後の浅野長政〉らを従えて〈大坂城〉築城候補地、摂津大坂〈石山本願寺〉跡の地を検分した日。
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈石田治部少輔三成〉を総大将とする副将〈大谷刑部少輔吉継〉〈長束大蔵大輔正家〉ら豊臣軍と、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)主〈佐野房綱入道了伯〉下総〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉〈下妻城〉(現茨城県下妻市)主〈多賀谷重経〉らが、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉方〈成田氏長〉が〈小田原城〉へ入城して留守の、武蔵〈忍城おし〉(現埼玉県行田市)代〈成田泰季〉を包囲し〈石田三成〉は、かつて亡き〈上杉謙信〉が本陣を構えた古墳〈丸墓山〉に〈大谷刑部〉は〈忍城=佐間口〉に布陣した日
更に1594年文禄3年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が自ら山城〈伏見指月城〉(現京都府京都市伏見区)の普請工事現場を視察した日。
更に1596年慶長元年に〈後陽成天皇ごようぜい〉皇后〈近衛前子〉に第三皇子〈政仁親王=後の後水尾天皇〉が誕生した日
更に1599年慶長4年に安芸〈広島城〉(現広島県広島市)主〈安芸中納言=毛利輝元〉養嗣子〈毛利秀元〉が、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉方にならぬ事を〈安国寺恵瓊〉に誓った日。
更に1611年慶長16年に、かつて〈武田信玄〉の側に仕え〈武藤喜兵衛〉として名を馳せ
〈織田信長〉や越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉や、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子や、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の間を渡りあいながら、天下人〈関白=豊臣秀吉〉をして「表裏卑怯者」と言わせ、徳川軍を信濃〈上田城〉(現長野県上田市)攻防戦
で、二度までも討ち敗った名将〈真田安房守昌幸〉が、難攻不落の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に再び入城して〈大御所=徳川家康〉相手に合戦
する事を夢見ながら
配流地の紀伊〈九度山〉(現和歌山県伊都郡九度山町)で死去した命日享年65歳
晩年〈真田昌幸〉は、次男〈真田信繁=幸村〉に〈大坂城〉への入城を願っていたが…それは、ついにかなわなかったのだった…
よって件の如し
恐々謹言水無月四日
太閤
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝も早朝起床
休日出勤でゴルフ接待
昨日の朝また駅前のコンビニで高校生時代から顔見知りだった大学4年生〈イケメンアイウラくん〉に遇い
またmonster差し入れ
駅に向かうと道端に落ちていた財布
を発見
中身は2万8千円程の現金と免許証に神奈川大学の学生証他カード類多数入ってたから駅前交番に届けたったぜィ
今日6月4日は1538年天文7年に南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈六角定頼〉軍が〈京極高延〉方の〈鎌刃城〉(現滋賀県米原市)を攻略した日

更に1541年天文10年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田信虎〉(武田信玄父)〈武田晴信=後の武田信玄〉父子が、信濃小県郡〈海野平の合戦
〉で〈海野棟綱〉らを撃破し〈躑躅ヶ崎館〉へ凱旋した日
しかし水面下では秘かに謀反が準備中であった…更に1558年永禄元年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈菅領=細川晴元〉軍が〈如意嶽〉へ出陣して
〈三好長逸〉軍と京都〈鹿ヶ谷〉で交戦した日更に1570年元亀元年に、南近江〈観音寺城〉主〈六角義賢入道承禎〉(六角定頼嫡男)〈六角義治〉父子が〈一向一揆衆=本願寺門徒衆〉を率いて〈笠原〉へ進軍し
〈長光寺城〉(現滋賀県近江八幡市)将〈柴田権六勝家〉を包囲し城内の水が底を尽く有り様となり
〈柴田勝家〉は水瓶に数日分残っていた水を家臣達に分け与え、覚悟を示すため僅かに残っていた水瓶をかち割り
城から〈六角〉方討って出て〈佐久間信盛〉らと共に〈野洲河原の合戦
〉で〈六角承禎〉方を撃退した日
その為人は猛将〈柴田勝家〉をして「瓶割り柴田」と讃えたのだった。更に1582年天正10年二日前の6月2日早暁、丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)を出陣した〈明智光秀〉率いる1万3千
の軍勢が、京都洛中西洞院〈本能寺〉(現京都府京都市中京区)に宿泊中の主君〈織田信長〉を、次いで〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に嫡男〈織田信忠〉を急襲し討った〈本能寺の変
〉から三日…〈明智光秀〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)や〈丹羽五郎左衛門長秀〉の〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)を奪取すべく、軍勢を東に向けたが
〈瀬田城〉(現滋賀県大津市)主〈山岡景隆〉が京都での変事を知り
明智軍の近江進撃を阻止すべく〈瀬田唐橋〉(現滋賀県大津市)を焼き落とした為
明智軍は〈
瀬田川
〉渡る事が困難となり
一旦本拠〈坂本城〉に帰還していたが…〈明智光秀〉は畿内諸大名の勧誘工作に専念し〈京極高次〉〈阿閉貞征〉〈山崎片家〉〈小川祐忠〉〈多賀常則〉らを味方にして
若狭〈小浜城〉主〈武田元明〉や、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉から援軍を派遣され
味方としていたのだった…一方、備中〈
高松城水責め
〉中の〈羽柴秀吉〉は、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈織田信長〉に援軍を要請していたが〈高松城〉救援の為、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉(毛利元就次男)備後〈新高山城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉(毛利元就三男)ら毛利来援軍と対峙しながら、主君〈織田信長〉着陣を待ちつつ、毛利方外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を呼んで、和議を図っていたのだった…〈毛利輝元〉と伯父〈吉川元春〉〈小早川隆景〉らは〈
高松城水責め
〉により戦況を覆せないまま〈織田信長〉の本隊が到着すれば
和睦どころか…3月甲斐〈新府城〉(現山梨県韮崎市)主〈武田勝頼〉同様
滅亡の危機と判断して
叔父〈小早川隆景〉〈安国寺恵瓊〉に和議を進めさせ〈羽柴秀吉〉の示した案に対して〈毛利輝元〉は
織田方に五ヶ国割譲を覚悟するのだった…そこへ3日夜
〈本能寺の変
〉を知った〈羽柴秀吉〉は驚愕し
急ぎ〈安国寺恵瓊〉を呼んで、亡君信長の横死を隠して
急ぎ和議交渉を行い、当初五ヶ国割譲案を備中・美作・伯耆三ヵ国のみの割譲でという譲歩案を示し
〈高松城〉将〈清水宗治〉を切腹させるというかたちで
和兵案を提示したが〈羽柴秀吉〉は、全軍直ちに亡君信長の弔い合戦
をすべく
畿内へと、とって返す事が優先課題だった…しかし
〈小早川隆景〉は、忠臣〈清水宗治〉の切腹だけは拒絶したかったが
〈安国寺恵瓊〉に説得され、織田政権との和睦を決断して
4日午前、毛利・羽柴両軍将士が遠望する中
〈高松城〉を囲む湖上
に舟を出させて、城将〈清水宗治〉が切腹して果てた日〈清水宗春〉の自刃を見届けた〈羽柴秀吉〉は人質として〈森重政=後の毛利重政〉〈森高政=後の毛利高政〉を〈毛利輝元〉も〈宍戸〉を双方が交換され和睦を締結し
〈羽柴秀吉〉は〈高松城〉の周囲の土累を破壊して水を抜いて周辺一帯を泥沼化させて、毛利方の追撃を不可能にしてから、播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)への撤退〈中国大返し〉を開始するのであった…その後、忠臣〈清水宗治〉自刃後の四日夕刻

紀伊〈雑賀衆=土橋平尉〉から〈本能寺の変
〉を知らされた
この変事に、毛利軍猛将〈吉川元春〉は〈羽柴秀吉〉の追撃を主張したが
〈小早川隆景〉は、亡き〈織田信長〉が追放した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立して
これ以上の果てしない織田政権との戦いに引き込まれて
毛利家を疲弊させる事の不利を兄〈吉川元春〉に説いて、畿内の情勢を見定める事でと押し留めたのだった更に四日和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)から〈伊賀越え〉を敢行した〈徳川家康〉は〈柘植つげ〉→〈四日市〉→〈那古=白子〉にて漁民の船
で伊勢湾
を越え
苦難の末にようやく三河〈大浜〉に上陸し〈岡崎城〉への帰還を果たした日。更に北陸越中では、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉方の越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)を落城させた〈柴田勝家〉率いる〈前田又左衛門利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈金森長近〉ら北陸方面軍に、京都での〈本能寺の変
〉の急報がもたらされ
〈柴田勝家〉は直ちに越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)へ向けて撤退し
〈前田利家〉は越中〈海老江〉より海路〈大境〉まで撤退し能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)へ
〈佐々成政〉は殿軍(しんがり)となり越中〈富山城〉(現富山県富山市)へ入城した日。更に1583年天正11年に〈山崎の合戦
〉続く〈賤ヶ岳の合戦
〉で大勝利した、山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が軍師〈黒田官兵衛孝高〉と重臣〈蜂須賀小六正勝〉〈浅野長吉=後の浅野長政〉らを従えて〈大坂城〉築城候補地、摂津大坂〈石山本願寺〉跡の地を検分した日。更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で〈石田治部少輔三成〉を総大将とする副将〈大谷刑部少輔吉継〉〈長束大蔵大輔正家〉ら豊臣軍と、常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義宣〉下野〈宇都宮城〉(現栃木県宇都宮市)主〈宇都宮国綱〉〈唐沢山城〉(現栃木県佐野市)主〈佐野房綱入道了伯〉下総〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉〈下妻城〉(現茨城県下妻市)主〈多賀谷重経〉らが、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉方〈成田氏長〉が〈小田原城〉へ入城して留守の、武蔵〈忍城おし〉(現埼玉県行田市)代〈成田泰季〉を包囲し〈石田三成〉は、かつて亡き〈上杉謙信〉が本陣を構えた古墳〈丸墓山〉に〈大谷刑部〉は〈忍城=佐間口〉に布陣した日
更に1594年文禄3年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が自ら山城〈伏見指月城〉(現京都府京都市伏見区)の普請工事現場を視察した日。
更に1596年慶長元年に〈後陽成天皇ごようぜい〉皇后〈近衛前子〉に第三皇子〈政仁親王=後の後水尾天皇〉が誕生した日

更に1599年慶長4年に安芸〈広島城〉(現広島県広島市)主〈安芸中納言=毛利輝元〉養嗣子〈毛利秀元〉が、豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉方にならぬ事を〈安国寺恵瓊〉に誓った日。
更に1611年慶長16年に、かつて〈武田信玄〉の側に仕え〈武藤喜兵衛〉として名を馳せ
〈織田信長〉や越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉や、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子や、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の間を渡りあいながら、天下人〈関白=豊臣秀吉〉をして「表裏卑怯者」と言わせ、徳川軍を信濃〈上田城〉(現長野県上田市)攻防戦
で、二度までも討ち敗った名将〈真田安房守昌幸〉が、難攻不落の〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に再び入城して〈大御所=徳川家康〉相手に合戦
する事を夢見ながら
配流地の紀伊〈九度山〉(現和歌山県伊都郡九度山町)で死去した命日享年65歳
晩年〈真田昌幸〉は、次男〈真田信繁=幸村〉に〈大坂城〉への入城を願っていたが…それは、ついにかなわなかったのだった…
よって件の如し

恐々謹言水無月四日
太閤

越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に反旗を翻した、越後〈村上城〉(現新潟県村上市)主〈本庄越前守繁長〉を支援し
越後へ侵攻せんとし〈大井弾正忠正忠=岩尾行範〉に出陣を命じた日。
京の都に向かうとしていたが
京都の徳川家御用商人〈茶屋四郎次郎清延〉から〈本能寺の変
上洛戦に備えさせたが〈住吉〉陣営には〈明智光秀〉の娘婿〈津田(織田)信澄〉(織田信長弟織田信勝嫡男)がいたのであった…
を送る外交戦を同時展開して〈明智光秀〉は〈安土城〉を占領すべく明智軍が近江に向かったが


〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉正室〈定恵院じょうけいいん〉(武田信玄姉)が病没した命日享年32歳
土居を乗り越え、木戸を打ち破って寺内に雪崩込む物音で目覚め











