俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も残業だったから体育館JYM鍛練には間に合わず
致し方ナッシブルでドラッグストア行ってきたぜィ
今日6月1日は1536年天文5年に〈比叡山=延暦寺〉〈東寺〉が〈比叡山=東塔・西塔・〉内の集会において〈法華門徒衆〉討伐を奏して、近江からの兵糧・物資等の京都洛中への搬入を停止させるべく京都七口を押さえることが決定された日。
更に1537年天文6年に亡き〈松平清康〉の代から松平家三代の譜代家臣〈大久保新八郎忠俊〉〈大久保甚四郎忠員〉〈大久保弥三郎忠久〉らが
西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)を攻撃して〈岡崎城=本丸〉の〈石川兄弟〉を討って
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉の元に在った〈松平千代丸=後の松平広忠〉に使者を遣わし三河帰還を促した日
更に1539年天文8年に摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉17歳が三好軍4千を率いて京都へ上洛した日
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉家臣〈今井相模守信甫〉が率いる武田軍が
信濃諏訪郡代〈上原城〉(現長野県茅野市)将〈板垣駿河守信方〉の加勢を得て
伊那郡〈竜ヶ崎城〉(現長野県上伊那郡辰野町)を攻略した日
更に1547年天文16年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が分国法「甲州法度」26ヶ条を制定公布した日。
〈武田晴信〉は同盟国である隣国、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉と、義元の亡父〈今川氏親〉父子が制定した分国法「今川仮名目録」「今川仮名目録追加」を参考に
分国法「甲州法度之次第」57ヵ条を制定し
甲斐・信濃の領国支配にあたって土地・売買・貸借・租税・訴訟に関する条項を定め「喧嘩両成敗」法度によって、自らも裁かれる事等も盛り込まれていたのだった…
つまり〈武田信玄〉は、法の前では主君も家臣・領民も平等であるという事を、内外に喧伝したのであった
更に1560年永禄3年に5月19日〈桶狭間の合戦
〉で討死した総大将〈今川義元〉の首級を〈織田信長〉から受け取った〈岡部元信〉は、尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)を出て
〈伊賀衆〉〈甲賀衆〉75人で夜
亡君〈今川義元〉の弔い合戦
として、織田方の三河〈刈屋城〉(現愛知県刈谷市)将〈水野藤九郎信近〉を攻めて討ち取った日
更に1564年永禄7年この頃、西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)方、東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)主〈大原資良=小原鎮実〉への攻撃を開始した日で
〈大原資良〉は〈今川氏真〉からの援軍が
遠江〈曳馬城ひくま=後の浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈飯尾豊前守連竜〉の謀反により
急遽〈曳馬城〉攻めに廻されたことから
〈吉田城〉は今川軍の援軍も無いまま、孤立無援で〈松平元康〉軍を迎撃し
〈松平元康〉は〈吉田城〉の守りが堅く攻めあぐんだことから兵糧責めに転じて9ヶ月の籠城戦の末に和議を結んで開城させ〈松平元康〉は重臣〈酒井忠次〉を城主に任じたのだった。
更に1568年永禄11年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に織田家嫡男〈織田奇妙丸=後の織田信忠〉と〈武田信玄〉六女〈松姫〉との婚約を祝して家臣〈秋山伯耆守信友=秋山虎繁〉を使者として派遣したのだった
更に1569年永禄12年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、上杉家家臣で謀反して北条方に寝返った、上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)将〈北条丹後守高広〉の赦免を要請した日で〈上杉輝虎〉は「越相同盟」にあたって〈北条高広〉を許して〈北条氏政〉を助けるよう命じた日。
更に1570年元亀元年この頃、三河〈岡崎城〉主〈徳川家康〉が遠江〈曳馬城〉へ移り「曳馬」は「馬が退く」=敗北につながるとして縁起が悪いとして荘園〈浜松荘〉に因み〈浜松城〉と改名して〈岡崎城〉を嫡男〈松平竹千代=後の松平信康〉を城主とし
正室〈築山御前=瀬名〉(今川義元姪)は〈岡崎城=築山御殿〉に残り、夫〈徳川家康〉とは別居となったのだった…
更に1577年天正5年に越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉の第17次関東出兵に対して、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が「相甲同盟」により出兵要請された件について、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)へ、相模〈小田原城〉主の義兄〈北条氏政〉の出陣に呼応して信濃から上野へ出陣すると伝えた日。
更に1579年天正7年に近江〈坂本城〉(現滋賀県大津市)丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)主〈明智日向守光秀〉軍が
反旗を翻した、丹波〈八上城〉(現兵庫県篠山市)主〈波多野秀治〉〈波多野秀尚〉〈波多野秀香〉三兄弟を攻めあぐんでいたが…城内の兵糧が尽きて
調略により城兵の助命と引き換えに〈波多野秀治〉〈波多野秀尚〉〈波多野秀香〉兄弟を捕らえて〈明智光秀〉に差し出し〈八上城〉を攻略した日。
この〈八上城〉には〈明智光秀〉の母親が人質となり入城していたが…〈明智光秀〉が〈波多野秀治〉に和議を申し入れて、近江〈安土城〉に〈織田信長〉から本領安堵の朱印状を受ける為〈安土城〉に伺候したところを〈織田信長〉の命令で捕らえられ斬首され
〈八上城〉で人質となっていた〈明智光秀〉の母親は報復に〈波多野〉家臣に磔刑に処せられたとされる…が事実ではないとされる…
更に1582年天正10年に天下統一を目前にする〈前右大臣=織田信長〉が、京都洛中西洞院〈本能寺〉で、筑前〈博多〉の大商人〈島井宗室しまいそうしつ〉や〈神谷宗湛かみやそうたん〉そして公卿〈太閤=近衛前久〉らを招いて38種の数々の秘蔵の名茶道具を、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)から運ばせ披露し茶会を催した日
この頃〈前右大臣信長〉は、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉を討伐し、同時平行で、土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉をも攻めようとし、更に九州平定をも視野に入れていたと思われ、急速に筑前〈博多〉の〈島井宗室〉や〈神谷宗湛〉ら、大商人達への接近をはかっていた為、京や和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)の〈堺=会合衆えごうしゅう〉の商人達は
焦りの色を隠せなかったのだった…
その夜
〈前右大臣信長〉を、嫡男〈秋田城介=織田信忠〉と〈京都奉行=村井貞勝〉らが〈本能寺〉(現京都府京都市中京区)を訪れた後〈織田信長〉は囲碁の名人〈本因坊算砂ほんいんぼうさんさ〉と〈本能寺=利玄〉の対局後、自らも囲碁を楽しみ
就寝したのだった
一方〈前右大臣信長〉から、備中〈
高松城水責め
〉中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の援軍を命じられた〈明智日向守光秀〉が、丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)で重臣〈斎藤内蔵助利三〉(春日局父親)〈明智左馬助秀満〉(明智光秀娘婿)〈溝尾勝兵衛茂朝〉〈藤田伝五行政〉らに〈前右大臣信長〉への謀叛を打ち明けて談合の上1万3千の軍勢を率いて〈亀山城〉を出陣し
夜半
〈老の坂おいのさか〉を越えて〈沓掛〉に差し掛かった〈明智光秀〉は
中国道へと向かう道とは逆の、京へ方向を転回し
運命の〈本能寺〉に向かって進軍を開始し
時代は戦国日本の長い日を迎えるのであった…
一方、和泉〈堺〉見物に訪れていた〈徳川家康〉〈穴山信君入道梅雪〉らの徳川主従一行は〈堺会合衆えごうしゅう〉の商人〈今井宗久〉や〈津田宗及〉らの茶会に招かれ、その夜
〈堺奉行=松井友閑〉邸で接待饗応
を受けていたのだった
同じ日〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉による、備中〈
高松城水責め
〉中の〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉に、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の外交僧〈安国寺恵瓊〉が近江〈安土城〉を〈前右大臣=織田信長〉が毛利討伐に出陣して
京都に向かったと知り
毛利方に無断で〈高松城〉に入り〈清水宗治〉と面会し自刃を促した日。
更に1586年天正14年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉が家臣〈吉弘統幸〉に、父親〈大友義鎮入道宗麟〉が摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)へ登城して天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見しm(__)m薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉の大友領侵攻を訴え出て、救援要請に対して〈関白秀吉〉から出された「九州国分」案につき御検使を派遣するとの事で迎えの支度を命じた日。
更に1600年慶長5年に豊臣家五大老、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉重臣〈直江山城守兼続〉指揮のもと領内に築城中の〈神指城こうざし〉(現福島県会津若松市)が、ほぼ完成した日。
更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で大勝した豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が〈佐渡金山〉を直轄とし、諸国の銀山・金山を天領とした日。
同じ日「徳川四天王」の一人、上総〈大多喜城〉(現千葉県)主〈本多平八郎忠勝〉が〈関ヶ原の合戦
〉の論功行賞により伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)に入城した日
更に1602年慶長7年に亡き天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した山城〈伏見木幡山城城〉(現京都府京都市伏見区)は〈太閤秀吉〉亡き後、豊臣家筆頭大老〈内大臣=徳川家康〉が入城して執政にあたっていたが1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉の前哨戦
で、西軍〈石田三成〉方の五大老〈備前中納言=宇喜多秀家〉〈金吾中納言=小早川秀秋〉〈島津維新入道義弘〉らの総攻めにより
東軍〈内府家康〉家臣〈鳥居彦右衛門元忠〉守備の山城〈伏見木幡山城〉は落城してしまっていたが…その〈伏見木幡山城〉再建修築を〈藤堂高虎〉を普請奉行として諸大名に命じた日

更に1604年慶長9年に四年前天下分け目〈関ヶ原の合戦
〉で西軍総大将となり〈内府家康〉に大敗し
安芸〈広島城〉(現広島県広島市)から長門・周防へ転封された〈安芸中納言=毛利輝元〉が、長門〈萩〉に〈指月城〉(現山口県萩市)築城を開始した日。
〈毛利輝元〉は、天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の遺命により、豊臣家五大老の一人となっていたが、天下を簒奪しようと動き出した、大老筆頭〈内府家康〉と〈石田三成〉〈安国寺恵瓊〉らに西軍総大将に擁立されて1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、東軍総大将〈内府家康〉と雌雄を決するも
〈石田三成〉ら西軍が大敗を期して
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に在って、美濃〈関ヶ原〉に出馬しなかった〈安芸中納言輝元〉は
戦後東軍に内通していた毛利一門の〈吉川広家〉(吉川元春次男)必死の折衝によって
改易を免れて〈内府家康〉の命令で中国地方8ヶ国112万石から長門・周防37万石に大幅削減され
亡き〈毛利元就〉以来、毛利家譜代の家臣達の多くが毛利家を去っていったのだった…
しかし〈毛利輝元〉は、長門・周防の新田開発や産業を奨励して、散っていった生活に困窮していた毛利家家臣を気遣い
毛利家への帰参を申し入れていたのであった
そして〈毛利輝元〉は徳川幕府に、本城築城を願い出て
長門の内で〈山口高嶺・防府桑山・萩指月〉の三ヶ所を候補地としたが、徳川幕府から許認可されたのが、最も不便で辺境の地〈萩〉で、築城を開始したのだった。
以後、長州藩主毛利家は、歴代藩主の代替わりに際して幕末まで…毎年挙兵を念頭に置いて
仮想軍議が開かれていたという…
よって件の如し
恐々謹言水無月朔日
太閤





参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日も残業だったから体育館JYM鍛練には間に合わず
致し方ナッシブルでドラッグストア行ってきたぜィ
今日6月1日は1536年天文5年に〈比叡山=延暦寺〉〈東寺〉が〈比叡山=東塔・西塔・〉内の集会において〈法華門徒衆〉討伐を奏して、近江からの兵糧・物資等の京都洛中への搬入を停止させるべく京都七口を押さえることが決定された日。
更に1537年天文6年に亡き〈松平清康〉の代から松平家三代の譜代家臣〈大久保新八郎忠俊〉〈大久保甚四郎忠員〉〈大久保弥三郎忠久〉らが
西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)を攻撃して〈岡崎城=本丸〉の〈石川兄弟〉を討って
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉の元に在った〈松平千代丸=後の松平広忠〉に使者を遣わし三河帰還を促した日更に1539年天文8年に摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好範長=後の三好長慶〉17歳が三好軍4千を率いて京都へ上洛した日

更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉家臣〈今井相模守信甫〉が率いる武田軍が
信濃諏訪郡代〈上原城〉(現長野県茅野市)将〈板垣駿河守信方〉の加勢を得て
伊那郡〈竜ヶ崎城〉(現長野県上伊那郡辰野町)を攻略した日
更に1547年天文16年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が分国法「甲州法度」26ヶ条を制定公布した日。
〈武田晴信〉は同盟国である隣国、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉と、義元の亡父〈今川氏親〉父子が制定した分国法「今川仮名目録」「今川仮名目録追加」を参考に
分国法「甲州法度之次第」57ヵ条を制定し
甲斐・信濃の領国支配にあたって土地・売買・貸借・租税・訴訟に関する条項を定め「喧嘩両成敗」法度によって、自らも裁かれる事等も盛り込まれていたのだった…つまり〈武田信玄〉は、法の前では主君も家臣・領民も平等であるという事を、内外に喧伝したのであった
更に1560年永禄3年に5月19日〈桶狭間の合戦
〉で討死した総大将〈今川義元〉の首級を〈織田信長〉から受け取った〈岡部元信〉は、尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)を出て
〈伊賀衆〉〈甲賀衆〉75人で夜
亡君〈今川義元〉の弔い合戦
として、織田方の三河〈刈屋城〉(現愛知県刈谷市)将〈水野藤九郎信近〉を攻めて討ち取った日
更に1564年永禄7年この頃、西三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈松平元康=後の徳川家康〉が、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)方、東三河〈吉田城〉(現愛知県豊橋市)主〈大原資良=小原鎮実〉への攻撃を開始した日で
〈大原資良〉は〈今川氏真〉からの援軍が
遠江〈曳馬城ひくま=後の浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈飯尾豊前守連竜〉の謀反により
急遽〈曳馬城〉攻めに廻されたことから
〈吉田城〉は今川軍の援軍も無いまま、孤立無援で〈松平元康〉軍を迎撃し
〈松平元康〉は〈吉田城〉の守りが堅く攻めあぐんだことから兵糧責めに転じて9ヶ月の籠城戦の末に和議を結んで開城させ〈松平元康〉は重臣〈酒井忠次〉を城主に任じたのだった。更に1568年永禄11年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に織田家嫡男〈織田奇妙丸=後の織田信忠〉と〈武田信玄〉六女〈松姫〉との婚約を祝して家臣〈秋山伯耆守信友=秋山虎繁〉を使者として派遣したのだった
更に1569年永禄12年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、上杉家家臣で謀反して北条方に寝返った、上野〈厩橋城〉(現群馬県前橋市)将〈北条丹後守高広〉の赦免を要請した日で〈上杉輝虎〉は「越相同盟」にあたって〈北条高広〉を許して〈北条氏政〉を助けるよう命じた日。
更に1570年元亀元年この頃、三河〈岡崎城〉主〈徳川家康〉が遠江〈曳馬城〉へ移り「曳馬」は「馬が退く」=敗北につながるとして縁起が悪いとして荘園〈浜松荘〉に因み〈浜松城〉と改名して〈岡崎城〉を嫡男〈松平竹千代=後の松平信康〉を城主とし
正室〈築山御前=瀬名〉(今川義元姪)は〈岡崎城=築山御殿〉に残り、夫〈徳川家康〉とは別居となったのだった…更に1577年天正5年に越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉の第17次関東出兵に対して、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が「相甲同盟」により出兵要請された件について、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)へ、相模〈小田原城〉主の義兄〈北条氏政〉の出陣に呼応して信濃から上野へ出陣すると伝えた日。
更に1579年天正7年に近江〈坂本城〉(現滋賀県大津市)丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)主〈明智日向守光秀〉軍が
反旗を翻した、丹波〈八上城〉(現兵庫県篠山市)主〈波多野秀治〉〈波多野秀尚〉〈波多野秀香〉三兄弟を攻めあぐんでいたが…城内の兵糧が尽きて
調略により城兵の助命と引き換えに〈波多野秀治〉〈波多野秀尚〉〈波多野秀香〉兄弟を捕らえて〈明智光秀〉に差し出し〈八上城〉を攻略した日。この〈八上城〉には〈明智光秀〉の母親が人質となり入城していたが…〈明智光秀〉が〈波多野秀治〉に和議を申し入れて、近江〈安土城〉に〈織田信長〉から本領安堵の朱印状を受ける為〈安土城〉に伺候したところを〈織田信長〉の命令で捕らえられ斬首され
〈八上城〉で人質となっていた〈明智光秀〉の母親は報復に〈波多野〉家臣に磔刑に処せられたとされる…が事実ではないとされる…更に1582年天正10年に天下統一を目前にする〈前右大臣=織田信長〉が、京都洛中西洞院〈本能寺〉で、筑前〈博多〉の大商人〈島井宗室しまいそうしつ〉や〈神谷宗湛かみやそうたん〉そして公卿〈太閤=近衛前久〉らを招いて38種の数々の秘蔵の名茶道具を、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)から運ばせ披露し茶会を催した日

この頃〈前右大臣信長〉は、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉を討伐し、同時平行で、土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉をも攻めようとし、更に九州平定をも視野に入れていたと思われ、急速に筑前〈博多〉の〈島井宗室〉や〈神谷宗湛〉ら、大商人達への接近をはかっていた為、京や和泉〈堺〉(現大阪府大阪市堺区)の〈堺=会合衆えごうしゅう〉の商人達は
焦りの色を隠せなかったのだった…その夜

〈前右大臣信長〉を、嫡男〈秋田城介=織田信忠〉と〈京都奉行=村井貞勝〉らが〈本能寺〉(現京都府京都市中京区)を訪れた後〈織田信長〉は囲碁の名人〈本因坊算砂ほんいんぼうさんさ〉と〈本能寺=利玄〉の対局後、自らも囲碁を楽しみ
就寝したのだった
一方〈前右大臣信長〉から、備中〈
高松城水責め
〉中の〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の援軍を命じられた〈明智日向守光秀〉が、丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)で重臣〈斎藤内蔵助利三〉(春日局父親)〈明智左馬助秀満〉(明智光秀娘婿)〈溝尾勝兵衛茂朝〉〈藤田伝五行政〉らに〈前右大臣信長〉への謀叛を打ち明けて談合の上1万3千の軍勢を率いて〈亀山城〉を出陣し
夜半
〈老の坂おいのさか〉を越えて〈沓掛〉に差し掛かった〈明智光秀〉は
中国道へと向かう道とは逆の、京へ方向を転回し
運命の〈本能寺〉に向かって進軍を開始し
時代は戦国日本の長い日を迎えるのであった…一方、和泉〈堺〉見物に訪れていた〈徳川家康〉〈穴山信君入道梅雪〉らの徳川主従一行は〈堺会合衆えごうしゅう〉の商人〈今井宗久〉や〈津田宗及〉らの茶会に招かれ、その夜

〈堺奉行=松井友閑〉邸で接待饗応
を受けていたのだった同じ日〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉による、備中〈
高松城水責め
〉中の〈高松城〉(現岡山県岡山市北区)主〈清水宗治〉に、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の外交僧〈安国寺恵瓊〉が近江〈安土城〉を〈前右大臣=織田信長〉が毛利討伐に出陣して
京都に向かったと知り
毛利方に無断で〈高松城〉に入り〈清水宗治〉と面会し自刃を促した日。更に1586年天正14年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義統〉が家臣〈吉弘統幸〉に、父親〈大友義鎮入道宗麟〉が摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)へ登城して天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見しm(__)m薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉の大友領侵攻を訴え出て、救援要請に対して〈関白秀吉〉から出された「九州国分」案につき御検使を派遣するとの事で迎えの支度を命じた日。
更に1600年慶長5年に豊臣家五大老、陸奥会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主〈会津中納言=上杉景勝〉重臣〈直江山城守兼続〉指揮のもと領内に築城中の〈神指城こうざし〉(現福島県会津若松市)が、ほぼ完成した日。
更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で大勝した豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉が〈佐渡金山〉を直轄とし、諸国の銀山・金山を天領とした日。同じ日「徳川四天王」の一人、上総〈大多喜城〉(現千葉県)主〈本多平八郎忠勝〉が〈関ヶ原の合戦
〉の論功行賞により伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)に入城した日
更に1602年慶長7年に亡き天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した山城〈伏見木幡山城城〉(現京都府京都市伏見区)は〈太閤秀吉〉亡き後、豊臣家筆頭大老〈内大臣=徳川家康〉が入城して執政にあたっていたが1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉の前哨戦
で、西軍〈石田三成〉方の五大老〈備前中納言=宇喜多秀家〉〈金吾中納言=小早川秀秋〉〈島津維新入道義弘〉らの総攻めにより
東軍〈内府家康〉家臣〈鳥居彦右衛門元忠〉守備の山城〈伏見木幡山城〉は落城してしまっていたが…その〈伏見木幡山城〉再建修築を〈藤堂高虎〉を普請奉行として諸大名に命じた日

更に1604年慶長9年に四年前天下分け目〈関ヶ原の合戦
〉で西軍総大将となり〈内府家康〉に大敗し
安芸〈広島城〉(現広島県広島市)から長門・周防へ転封された〈安芸中納言=毛利輝元〉が、長門〈萩〉に〈指月城〉(現山口県萩市)築城を開始した日。〈毛利輝元〉は、天下人〈太閤=豊臣秀吉〉の遺命により、豊臣家五大老の一人となっていたが、天下を簒奪しようと動き出した、大老筆頭〈内府家康〉と〈石田三成〉〈安国寺恵瓊〉らに西軍総大将に擁立されて1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、東軍総大将〈内府家康〉と雌雄を決するも
〈石田三成〉ら西軍が大敗を期して
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に在って、美濃〈関ヶ原〉に出馬しなかった〈安芸中納言輝元〉は
戦後東軍に内通していた毛利一門の〈吉川広家〉(吉川元春次男)必死の折衝によって
改易を免れて〈内府家康〉の命令で中国地方8ヶ国112万石から長門・周防37万石に大幅削減され
亡き〈毛利元就〉以来、毛利家譜代の家臣達の多くが毛利家を去っていったのだった…しかし〈毛利輝元〉は、長門・周防の新田開発や産業を奨励して、散っていった生活に困窮していた毛利家家臣を気遣い
毛利家への帰参を申し入れていたのであった
そして〈毛利輝元〉は徳川幕府に、本城築城を願い出て
長門の内で〈山口高嶺・防府桑山・萩指月〉の三ヶ所を候補地としたが、徳川幕府から許認可されたのが、最も不便で辺境の地〈萩〉で、築城を開始したのだった。以後、長州藩主毛利家は、歴代藩主の代替わりに際して幕末まで…毎年挙兵を念頭に置いて
仮想軍議が開かれていたという…よって件の如し

恐々謹言水無月朔日
太閤





45分間しか時間ナッシブルで
京都から越後へ下向して来た〈関白=近衛前嗣〉は〈上杉政虎〉が関東へ出陣中とのことで〈春日山城〉から〈三国峠〉を越えて、上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)まで赴き〈上杉政虎〉が不在と知るや


各5setづつ各計160回づつ+腹直筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ㌔負荷5set計160回+ラスト2.1キロ鍛練仕り申したぜィ
から船
で逃亡し行方をくらました日。