俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は無駄な残業の後、急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣するも
エー
えー
Aa~
休館日ヤン
致し方ナッシブルで散発して盟友〈イケメン桜王子〉の次なる聖誕祭に向けてたまたまAグッズ発見したから
とりまゲッツ
今日6月7日は1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈箕輪城=福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を総攻撃した日
更に1500年明応9年に〈応仁の乱
〉で京都洛中は焼け野原と化して
中断していた〈祇園祭〉が復活した日。
更に1556年弘治2年この頃、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉の弟〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田安房守秀俊〉が家臣に〈角田新五郎〉の謀叛により自害させられた為
〈織田信長〉は弟〈織田喜六郎秀孝〉誤射殺害事件で出奔中の叔父〈織田孫十郎信次〉(織田信秀弟)を赦免して再び〈守山城〉主とした日
更に1561年永禄4年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉政虎=後の上杉謙信〉による、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子攻めで
難攻不落の〈小田原城〉を攻めあぐねていた〈上杉政虎〉の背後を牽制すべく「相甲駿三国同盟」を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子を支援すべく
北信濃〈割ヶ嶽城〉(現長野県上水内郡信濃町)将〈高梨政頼〉を攻撃して攻略した日
!
更に1578年天正6年3月に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が急死し
謙信の跡目をめぐり、二人の養子〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)と〈上杉景虎〉(北条氏康七男)が越後を二分した〈御館の乱
おたてのらん〉で、当初〈上杉景虎〉方が〈前関東菅領=山内上杉憲政〉(上杉謙信養父)と実家である、相模〈小田原城〉主の兄〈北条氏政〉(北条氏康次男)の支援を得て、北条氏と同盟関係の甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉らが〈上杉景虎〉方となり優勢であったが…
〈上杉景勝〉の家老〈直江兼続〉が、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)将〈春日弾正虎綱=高坂弾正昌信〉を介して、上杉領上野の割譲と多額の黄金を譲渡する事と併せて〈武田勝頼〉の妹〈菊姫〉を〈上杉景勝〉の正室として輿入れさせ
姻戚関係を締結させるということで見事〈武田勝頼〉を中立化させる事に成功し和睦した日で
〈上杉景勝〉と〈武田勝頼〉の同盟は
かつて〈上杉謙信〉と〈武田信玄〉以来永年の仇敵同士が初めて和睦同盟する事で、この武田との同盟により〈上杉景勝〉〈直江兼続〉は絶体絶命の危機を回避し
〈武田勝頼〉は西から迫る〈織田信長〉と南からは〈徳川家康〉の侵攻
に対して北の越後から脅威を減らす事が出来たのだった。
〈武田勝頼〉としては義兄〈北条氏政〉が、越後への出陣を要請をしておきながら、自らは〈小田原城〉から出陣しようとしない〈北条氏政〉への不審と、仮に〈上杉景虎〉方となり〈上杉景勝〉を滅ぼしてしまえば…〈武田勝頼〉は北の越後と南の〈北条氏政〉に周囲を取り巻かれる形となり、もしも北条氏が裏切れば…武田家は絶体絶命の危機に陥ると判断しての〈上杉景勝〉方との和睦を選択したのだった…
しかし!この〈武田勝頼〉の選択が、後に更なる窮地へと追いやる結果になるのである…
更に1582年天正10年6月2日の〈本能寺の変
〉で〈前右大臣=織田信長〉を討った〈明智日向守光秀〉は5日信長の居城〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)に入城し
その〈安土城〉に朝廷からの「勅使ちょくし」(正親町天皇からの使者)としてかねてから親交をもつ、京都〈吉田神社〉神官〈吉田兼見〉が近江に下向して〈誠仁親王まさひとしんのう〉から、京の都の守護を任せると命じられた日で、これにより〈明智光秀〉は朝廷から官軍と見なされていたのであった…
〈本能寺の変
〉を直前に控えた頃〈前右大臣信長〉は生前〈正親町天皇〉に帝位を、皇子〈誠仁親王〉に譲位する様に〈上奏じょうそう〉しており、元来
天皇の退位は、朝廷の先決事項であり
武家であり〈征夷大将軍〉でもない〈前右大臣信長〉から帝位の譲位を進言される筋合いなど無用であった
更に〈前右大臣信長〉は朝廷が定める元号(げんごう)や〈暦こよみ〉の制定についても、口をはさんでくる不埒な厄介者として思われていた矢先の〈本能寺の変
〉であり
勤皇家であり〈尊皇そんのう〉家であった〈明智光秀〉を唆した(そそのかした)可能性=朝廷黒幕説が云われてきたのだ果たして真意や如何に…
京都〈吉田神社〉神官〈吉田兼見〉や、朝廷の〈武家伝奏ぶけてんそう〉公家〈勧修寺晴豊かじゅうじはれとよ〉や〈太閤=近衛前久〉等は〈本能寺の変
〉後に〈織田信長〉の死を祝うかの如く酒盛り
していたのだった…
果たして朝廷は〈明智光秀〉を動かしたのか…
その頃〈前右大臣信長〉の北陸方面軍を率いる織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は、北陸方面軍〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈金森長近〉らを率いて「天下布武」のもと、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉方の最前線拠点、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)城将〈中条景泰〉らが80日余に及ぶ頑強な籠城戦
の末3日に落城させ
4日から上杉方〈松倉城〉(現富山県魚津市)を包囲していたが7日京都での〈本能寺の変
〉を知らせる急報が〈柴田勝家〉本陣に到着し
直ちに越中〈松倉城〉〈魚津城〉から越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)への撤退を開始し
与力〈佐々成政〉を〈上杉景勝〉の反撃への抑えとして、越中〈富山城〉(現富山県富山市)に〈前田利家〉を能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)に〈佐久間盛政〉を加賀〈尾山城〉(現石川県金沢市)た残して越前〈北ノ庄城〉へと撤退を開始した日
同じ日、備中〈高松城水責め
〉だった〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、備前〈沼城〉(現岡山県)を早朝発って
〈中国大返し〉を敢行して
未明に播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)へ帰還した日
同じ日〈本能寺の変
〉の注進が、甲斐〈古府中〉(現山梨県甲府市)の〈河尻秀隆〉のもとに到着した日
更に1586年天正14年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)が正室〈菊姫=後の大儀院〉(武田信玄女・武田勝頼妹)や執政家老〈直江兼続〉〈お船の方〉(直江景綱息女)を伴い京都に初上洛して
洛中六条〈本圀寺〉に宿所とした日
更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
〈島津征伐
〉で、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久入道龍伯斎〉の降伏を受けて、筑前〈箱崎〉に凱旋し
九州国分の仕置きを決定した日。
筑前・筑後に肥前2郡を〈小早川隆景〉に〈小早川秀包〉(毛利元就九男)に筑後3郡を、軍師〈黒田官兵衛孝高〉には豊前6郡を与え〈立花統虎=後の立花宗茂〉に筑後〈柳川城〉(現福岡県柳川市)を〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)に豊後を安堵し、豊前〈小倉城〉(現福岡県北九州市)を〈毛利勝信=毛利吉成〉に肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺政家〉(龍造寺隆信嫡男)や〈松浦鎮信〉〈大村喜前〉(大村純忠嫡男)〈有馬晴信〉〈宇久純玄〉〈深堀純賢=後の鍋島茂宅〉らは旧領を安堵され
肥前高来郡〈諌早〉の〈西郷信尚〉は改易されて〈龍造寺家晴〉に与えられ
〈関白秀吉〉は筑前〈博多〉の大商人〈神屋宗湛かみやそうたん〉〈島井宗室しまいそうしつ〉らと茶会を開催されて、荒廃した〈博多〉の検分を嘆願された日。
同じ日〈本能寺の変
〉の混乱時に和泉〈堺〉から〈徳川家康〉と行動を共にしたが、伊賀へ向かう途中、山城で土一揆に襲撃され殺害された
亡き〈穴山信君入道梅雪〉(武田信玄娘婿)の庶子〈勝千代=武田信治〉が病没した命日享年16歳
その為〈穴山武田氏〉は断絶し
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈駿河大納言=徳川家康〉は、後に〈穴山武田氏〉を五男〈武田信吉〉に継がしたのだった。
更に1589年天正17年に6月5日陸奥会津〈磐梯山〉山麓〈摺上原の合戦
〉で出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉に敗退した
陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主で〈芦名義広〉(佐竹義重次男)を救援すべく
常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉〈佐竹義宣〉父子が遅過ぎる援軍に出陣した日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の〈成田氏長〉が〈小田原城〉に入城して留守中の、武蔵〈忍城〉(現埼玉県大里郡寄居町)将〈成田泰季〉を包囲した〈石田治部少輔三成〉を総大将として〈大谷刑部少輔吉継〉〈長束大蔵大輔正家〉らが〈忍城〉への水責めを計画し
約1週間で延長28キロにおよぶ〈石田堤〉を築いて〈
荒川
〉〈
利根川
〉の水を引き入れ〈忍城水責め
〉を開始した日。
同じ日、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)を〈駿河大納言家康〉を先鋒とした〈清州大納言=織田信雄〉〈麒麟児=蒲生氏郷〉(織田信長娘婿)〈福島正則〉連合軍
は包囲し
〈駿河大納言家康〉は、かつて駿河
〈駿府城〉主〈今川義元〉の人質生活を送っていた頃、同じく人質として〈駿府〉に来ていた幼なじみだった〈北条氏規〉に、兄〈北条氏政〉(北条氏康次男)〈北条氏直〉(徳川家康婿婿)父子に〈関白秀吉〉への降伏・臣従を説得するよう申し入れた日。
更に1592年天正20年に〈豊臣秀勝〉が「参議」「従四位下」に昇進〈岐阜宰相〉と呼ばれ
〈豊臣秀保〉(大和大納言豊臣秀長養嗣子)が「従三位」「中納言」に任じられ〈大和中納言〉と呼ばれるようになった日。
更に1616年元和2年に亡き〈大御所=徳川家康〉の側近で、武蔵〈江戸城〉(現皇居)の〈二代将軍=徳川秀忠〉付の老中として〈江戸幕府〉初期の幕政を担った〈本多佐渡守正信〉が死去した命日享年79歳
〈本多正信〉は若い頃鷹匠であったとされ、三河〈岡崎城〉主〈徳川家康〉に背いて〈三河一向一揆衆〉に加担して、一揆鎮圧後、三河を出奔したが…〈大久保忠世〉を介して帰参し〈徳川家康〉の側近となるも…幕閣内部の勢力争い〈大久保長安事件〉後、恩人〈大久保忠世〉の嫡男〈大久保忠隣〉を失脚させたとされ〈大御所家康〉死去すると家督を嫡男〈本多上野介正純〉に譲り〈大御所家康〉の後を追うように死去したのだった…
〈二代将軍秀忠〉は父〈大御所家康〉没後〈駿府城〉と〈江戸城〉の「二元政治」体制を解体し〈二代将軍秀忠〉の下に一元化され、幕閣は〈駿府〉派閥の〈本多正純〉らから〈将軍秀忠〉側近の〈土井利勝〉〈酒井忠世〉〈青山忠俊〉〈内藤清次〉〈永井尚政〉や小姓組番頭〈井上正就〉〈板倉重宗〉らが固め〈本多正純〉は〈本多正信〉亡き後2万石を加増されたが、次第に幕閣での地位を奪われ追いやられていったのだった…
よって件の如し
恐々謹言水無月七日
太閤



参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日は無駄な残業の後、急ぎ帰還して体育館JYM鍛練に出陣するも
エー
えー
Aa~
休館日ヤン
致し方ナッシブルで散発して盟友〈イケメン桜王子〉の次なる聖誕祭に向けてたまたまAグッズ発見したから
とりまゲッツ
今日6月7日は1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈箕輪城=福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を総攻撃した日

更に1500年明応9年に〈応仁の乱
〉で京都洛中は焼け野原と化して
中断していた〈祇園祭〉が復活した日。更に1556年弘治2年この頃、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉の弟〈守山城〉(現愛知県名古屋市守山区)主〈織田安房守秀俊〉が家臣に〈角田新五郎〉の謀叛により自害させられた為
〈織田信長〉は弟〈織田喜六郎秀孝〉誤射殺害事件で出奔中の叔父〈織田孫十郎信次〉(織田信秀弟)を赦免して再び〈守山城〉主とした日更に1561年永禄4年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉政虎=後の上杉謙信〉による、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子攻めで
難攻不落の〈小田原城〉を攻めあぐねていた〈上杉政虎〉の背後を牽制すべく「相甲駿三国同盟」を結ぶ、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉が〈北条氏康〉〈北条氏政〉父子を支援すべく
北信濃〈割ヶ嶽城〉(現長野県上水内郡信濃町)将〈高梨政頼〉を攻撃して攻略した日
!更に1578年天正6年3月に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が急死し
謙信の跡目をめぐり、二人の養子〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)と〈上杉景虎〉(北条氏康七男)が越後を二分した〈御館の乱
おたてのらん〉で、当初〈上杉景虎〉方が〈前関東菅領=山内上杉憲政〉(上杉謙信養父)と実家である、相模〈小田原城〉主の兄〈北条氏政〉(北条氏康次男)の支援を得て、北条氏と同盟関係の甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉らが〈上杉景虎〉方となり優勢であったが…〈上杉景勝〉の家老〈直江兼続〉が、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)将〈春日弾正虎綱=高坂弾正昌信〉を介して、上杉領上野の割譲と多額の黄金を譲渡する事と併せて〈武田勝頼〉の妹〈菊姫〉を〈上杉景勝〉の正室として輿入れさせ
姻戚関係を締結させるということで見事〈武田勝頼〉を中立化させる事に成功し和睦した日で
〈上杉景勝〉と〈武田勝頼〉の同盟は
かつて〈上杉謙信〉と〈武田信玄〉以来永年の仇敵同士が初めて和睦同盟する事で、この武田との同盟により〈上杉景勝〉〈直江兼続〉は絶体絶命の危機を回避し
〈武田勝頼〉は西から迫る〈織田信長〉と南からは〈徳川家康〉の侵攻
に対して北の越後から脅威を減らす事が出来たのだった。〈武田勝頼〉としては義兄〈北条氏政〉が、越後への出陣を要請をしておきながら、自らは〈小田原城〉から出陣しようとしない〈北条氏政〉への不審と、仮に〈上杉景虎〉方となり〈上杉景勝〉を滅ぼしてしまえば…〈武田勝頼〉は北の越後と南の〈北条氏政〉に周囲を取り巻かれる形となり、もしも北条氏が裏切れば…武田家は絶体絶命の危機に陥ると判断しての〈上杉景勝〉方との和睦を選択したのだった…
しかし!この〈武田勝頼〉の選択が、後に更なる窮地へと追いやる結果になるのである…
更に1582年天正10年6月2日の〈本能寺の変
〉で〈前右大臣=織田信長〉を討った〈明智日向守光秀〉は5日信長の居城〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)に入城し
その〈安土城〉に朝廷からの「勅使ちょくし」(正親町天皇からの使者)としてかねてから親交をもつ、京都〈吉田神社〉神官〈吉田兼見〉が近江に下向して〈誠仁親王まさひとしんのう〉から、京の都の守護を任せると命じられた日で、これにより〈明智光秀〉は朝廷から官軍と見なされていたのであった…〈本能寺の変
〉を直前に控えた頃〈前右大臣信長〉は生前〈正親町天皇〉に帝位を、皇子〈誠仁親王〉に譲位する様に〈上奏じょうそう〉しており、元来
天皇の退位は、朝廷の先決事項であり
武家であり〈征夷大将軍〉でもない〈前右大臣信長〉から帝位の譲位を進言される筋合いなど無用であった
更に〈前右大臣信長〉は朝廷が定める元号(げんごう)や〈暦こよみ〉の制定についても、口をはさんでくる不埒な厄介者として思われていた矢先の〈本能寺の変
〉であり
勤皇家であり〈尊皇そんのう〉家であった〈明智光秀〉を唆した(そそのかした)可能性=朝廷黒幕説が云われてきたのだ果たして真意や如何に…京都〈吉田神社〉神官〈吉田兼見〉や、朝廷の〈武家伝奏ぶけてんそう〉公家〈勧修寺晴豊かじゅうじはれとよ〉や〈太閤=近衛前久〉等は〈本能寺の変
〉後に〈織田信長〉の死を祝うかの如く酒盛り
していたのだった…果たして朝廷は〈明智光秀〉を動かしたのか…
その頃〈前右大臣信長〉の北陸方面軍を率いる織田家筆頭家老〈柴田修理亮勝家〉は、北陸方面軍〈鬼玄蕃=佐久間盛政〉〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉〈不破光治〉〈金森長近〉らを率いて「天下布武」のもと、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉方の最前線拠点、越中〈魚津城〉(現富山県魚津市)城将〈中条景泰〉らが80日余に及ぶ頑強な籠城戦
の末3日に落城させ
4日から上杉方〈松倉城〉(現富山県魚津市)を包囲していたが7日京都での〈本能寺の変
〉を知らせる急報が〈柴田勝家〉本陣に到着し
直ちに越中〈松倉城〉〈魚津城〉から越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)への撤退を開始し
与力〈佐々成政〉を〈上杉景勝〉の反撃への抑えとして、越中〈富山城〉(現富山県富山市)に〈前田利家〉を能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)に〈佐久間盛政〉を加賀〈尾山城〉(現石川県金沢市)た残して越前〈北ノ庄城〉へと撤退を開始した日

同じ日、備中〈高松城水責め
〉だった〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、備前〈沼城〉(現岡山県)を早朝発って
〈中国大返し〉を敢行して
未明に播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)へ帰還した日
同じ日〈本能寺の変
〉の注進が、甲斐〈古府中〉(現山梨県甲府市)の〈河尻秀隆〉のもとに到着した日更に1586年天正14年に越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)が正室〈菊姫=後の大儀院〉(武田信玄女・武田勝頼妹)や執政家老〈直江兼続〉〈お船の方〉(直江景綱息女)を伴い京都に初上洛して
洛中六条〈本圀寺〉に宿所とした日更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による
〈島津征伐
〉で、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久入道龍伯斎〉の降伏を受けて、筑前〈箱崎〉に凱旋し
九州国分の仕置きを決定した日。筑前・筑後に肥前2郡を〈小早川隆景〉に〈小早川秀包〉(毛利元就九男)に筑後3郡を、軍師〈黒田官兵衛孝高〉には豊前6郡を与え〈立花統虎=後の立花宗茂〉に筑後〈柳川城〉(現福岡県柳川市)を〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)に豊後を安堵し、豊前〈小倉城〉(現福岡県北九州市)を〈毛利勝信=毛利吉成〉に肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺政家〉(龍造寺隆信嫡男)や〈松浦鎮信〉〈大村喜前〉(大村純忠嫡男)〈有馬晴信〉〈宇久純玄〉〈深堀純賢=後の鍋島茂宅〉らは旧領を安堵され
肥前高来郡〈諌早〉の〈西郷信尚〉は改易されて〈龍造寺家晴〉に与えられ
〈関白秀吉〉は筑前〈博多〉の大商人〈神屋宗湛かみやそうたん〉〈島井宗室しまいそうしつ〉らと茶会を開催されて、荒廃した〈博多〉の検分を嘆願された日。同じ日〈本能寺の変
〉の混乱時に和泉〈堺〉から〈徳川家康〉と行動を共にしたが、伊賀へ向かう途中、山城で土一揆に襲撃され殺害された
亡き〈穴山信君入道梅雪〉(武田信玄娘婿)の庶子〈勝千代=武田信治〉が病没した命日享年16歳
その為〈穴山武田氏〉は断絶し
駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈駿河大納言=徳川家康〉は、後に〈穴山武田氏〉を五男〈武田信吉〉に継がしたのだった。更に1589年天正17年に6月5日陸奥会津〈磐梯山〉山麓〈摺上原の合戦
〉で出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈独眼竜=伊達政宗〉に敗退した
陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主で〈芦名義広〉(佐竹義重次男)を救援すべく
常陸〈太田城〉(現茨城県常陸太田市)主〈佐竹義重〉〈佐竹義宣〉父子が遅過ぎる援軍に出陣した日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の〈成田氏長〉が〈小田原城〉に入城して留守中の、武蔵〈忍城〉(現埼玉県大里郡寄居町)将〈成田泰季〉を包囲した〈石田治部少輔三成〉を総大将として〈大谷刑部少輔吉継〉〈長束大蔵大輔正家〉らが〈忍城〉への水責めを計画し
約1週間で延長28キロにおよぶ〈石田堤〉を築いて〈
荒川
〉〈
利根川
〉の水を引き入れ〈忍城水責め
〉を開始した日。同じ日、伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)を〈駿河大納言家康〉を先鋒とした〈清州大納言=織田信雄〉〈麒麟児=蒲生氏郷〉(織田信長娘婿)〈福島正則〉連合軍
は包囲し
〈駿河大納言家康〉は、かつて駿河
〈駿府城〉主〈今川義元〉の人質生活を送っていた頃、同じく人質として〈駿府〉に来ていた幼なじみだった〈北条氏規〉に、兄〈北条氏政〉(北条氏康次男)〈北条氏直〉(徳川家康婿婿)父子に〈関白秀吉〉への降伏・臣従を説得するよう申し入れた日。更に1592年天正20年に〈豊臣秀勝〉が「参議」「従四位下」に昇進〈岐阜宰相〉と呼ばれ
〈豊臣秀保〉(大和大納言豊臣秀長養嗣子)が「従三位」「中納言」に任じられ〈大和中納言〉と呼ばれるようになった日。更に1616年元和2年に亡き〈大御所=徳川家康〉の側近で、武蔵〈江戸城〉(現皇居)の〈二代将軍=徳川秀忠〉付の老中として〈江戸幕府〉初期の幕政を担った〈本多佐渡守正信〉が死去した命日享年79歳

〈本多正信〉は若い頃鷹匠であったとされ、三河〈岡崎城〉主〈徳川家康〉に背いて〈三河一向一揆衆〉に加担して、一揆鎮圧後、三河を出奔したが…〈大久保忠世〉を介して帰参し〈徳川家康〉の側近となるも…幕閣内部の勢力争い〈大久保長安事件〉後、恩人〈大久保忠世〉の嫡男〈大久保忠隣〉を失脚させたとされ〈大御所家康〉死去すると家督を嫡男〈本多上野介正純〉に譲り〈大御所家康〉の後を追うように死去したのだった…
〈二代将軍秀忠〉は父〈大御所家康〉没後〈駿府城〉と〈江戸城〉の「二元政治」体制を解体し〈二代将軍秀忠〉の下に一元化され、幕閣は〈駿府〉派閥の〈本多正純〉らから〈将軍秀忠〉側近の〈土井利勝〉〈酒井忠世〉〈青山忠俊〉〈内藤清次〉〈永井尚政〉や小姓組番頭〈井上正就〉〈板倉重宗〉らが固め〈本多正純〉は〈本多正信〉亡き後2万石を加増されたが、次第に幕閣での地位を奪われ追いやられていったのだった…
よって件の如し

恐々謹言水無月七日
太閤



致し方ナッシブルで
軽くオッパイしておいとま仕り申してセレブ帰還したら駅前の違うコンビニで〈イケメンアイウラくん〉が夜勤で居たからmonster差し入れたぜィ
に、主君〈織田信長〉の横死をいち早く知って
五大老の一人〈会津中納言=上杉景勝〉の家老〈直江山城守兼続〉からの返書「直江状
」が5月3日に届き、主君〈上杉景勝〉の再びの上洛を拒否したばかりか
した〈内府家康〉は、諸大名に上杉討伐の軍備を命じ
近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)では〈石田治部少輔三成〉が挙兵を画策していたのだった…












今日は「機動戦士ガンダム・ククルスドアンの島」観に江戸表に出陣
後盟友〈イケメン元取締役桜王子〉のたこ焼きたこ王子が五周年だから俺
早目に帰還して体育館JYM鍛練に出陣
備中・美作・伯耆三ヵ国を織田方に割譲させて〈高松城〉将〈清水宗治〉を切腹させるというかたちで和睦した〈羽柴秀吉〉は、直ちに亡君信長の弔い合戦
前年10月〈関白秀吉〉に臣下の礼をとっていた〈芦名義広〉を滅ぼした〈伊達政宗〉に〈関白秀吉〉は激怒
