私は勘違いからぁニヒヒ

 

 

あしあとあしあと

 

 

sunya石部にて、

潜在意識と言われる部分を読み取っていくに当たり、

念頭に置かねばならぬこと。

 

 

我々の感情の一部は、

教育や躾によって、

捻じ曲がってしまっている。

 

 

 

私の一例。

 

親の育て方により、

「自分は誰にでも出来ることしか出来ない人間なのだ」

と認識していた。

 

その結果、

私に出来ることが出来ない人に対して、

物凄く怒りが湧いていた。

 

 

誰にでも出来ることしか出来ない私に出来るのだから、

貴方にも出来るはずなのだ。

 

出来るようになろうという、

努力を怠っているだけなのだ。

 

努力を怠っておきながら、

他力を使おうなんて言語道断。

 

 

そんな具合にだ。

 

 

ここで重要なのが、

その怒りの本質は、

その人が出来ないのが許せないのではなく、

私は出来ないことを許されていない、

持って生まれた『快』『不快』を捻じ曲げて生きることを強要されていることへの怒りであるということ。

 

これは、

人の言葉から読み取ることは難しい。

 

けれども、

その人の潜在意識にはしっかりと刻まれている。

 

 

その結果、

本人の認識と、

読み取った内容に、

齟齬が生じることがまま起こる。

 

そこを気付かせることが出来るかどうかは、

読み取り手の技量にかかっている。

 

 

 

そして更に、

現実創造において重要なカギは、

この齟齬をなくすことにある。

 

現実創造においては、

持って生まれた『快』『不快』に応じた望みが叶う。

 

捻じ曲がった結果の感情にフォーカスしていても、

そこに応じた望みは叶わない。

 

 

私の場合、

「私は苦手なことでも出来なければならない。

誰にでも出来ることなのだから。」

という認識を手放した結果、

怒りを感じることもなくなった

 

「この人にとっては苦手なことなんだなぁ。」

そこに怒りは湧かない。

 

 

私が持って生まれた『快』『不快』に応じた望みというのは、

苦手とする対象物を避けることにある。

 

ここで、

「こんなことも出来ないこの人と関わるという『不快』を避けたい」

という望みを放ったとしても、

それは一向に叶わない。

 

それどころか、

その『不快』の本質は

「持って生まれた『快』『不快』を捻じ曲げられている」というところにあるので、

持って生まれた『快』を選択し『不快』を避けるという決断が出来るようになるまで、

似たような出来事が増えるという、

見た目には望みと全く逆の結果が起こることすらある。

 

 

 

自分が持って生まれた『快』『不快』に立ち返ることが、

非常に重要である。

 

そこんとこ、

お忘れなきようニヒヒ

 

 

あしあとあしあと