週一の《熊本ー大阪》通いも
2ヶ月半が経過
昨夜の学びは
『子育て、部下育ての心理学』
我が子であろうと
部下であろうと
相手を
尊重、尊敬する事の大切さ
(=´∀`)人(´∀`=)
出来ていなかった過去の自分
メンタルで学んで
気付かされました
今は
そんな過去の自分も
愛おしく
毎日が
穏やかで
自分を好きになる事を
教えて貰いました
(〃ω〃)
【3分で読める感動する話】
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「おやじの背中」
東井義雄(教育者)
『致知』1986年4月号掲載
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扇風機の心棒ではないですが、男というものは、
自分の生きざまで、狂わしてはならないものを
子どもに示していくということにつきます。
男の言葉は、お母さんに比べて表現力がまずいだけに、
生きざまがことばになるときは、
逆に迫力になって子どもに伝わります。
その一つの手だてとして、
子どもと痛みを共有するというあり方があります。
私の愛読書の中に、東北の鈴木道太さんの
『叱ってよいときわるいとき』という一冊があります。
その中に、あるPTAの會長さんの述懐が出てきました。
「私の長男は俊夫といって、今、高校三年生ですが、
その子がたしか小學校三年か、四年のときです。
粉雪がちらつく寒い夕方でした。
私が外出から帰ってきたら、家內が仏壇の上に
五、六百円ほどの小銭を上げておいた中から、
二百円程の買い食いをしたというのです。
ちょうど出先で面白くないことがあって、
むしゃくしゃしていた時、家內から、
「お父さん俊夫がね……」
と買い食いの話を聞かされたものですから、
私も思わずカッとなって、
「俊夫、來い。
いいか、お前のやったことがどれほど悪いことか、
お父さんが教えてやるからな。
いいか、お前に今から五杯、水をかける」
といってしまいました。
なにしろ零度に近い寒い頃でしたから、
家內はびっくりして、
「お父さん、そんなことをしたら、俊夫は死んでしまいます」
泣いて止めるのですが、私は聞きません。
無理やりに服をぬがせて、
パンツ一枚にしてしまいました。
「しかしお前が悪いことをしたのは、
お前が悪いだけではない。
そういう悪い奴に育てたお父さんにも責任がある。
だからお父さんも今から水を五杯かぶる」
私もパンツ一枚になって、子どもを抱いて外に出ました。
池の氷を割って、まず私が
バケツに五杯水をかぶりましたが、
まるで心臓がとまるような冷たさです。
ところが私がザザーッと
水をかぶっている目の前で、
その冷たい水のしぶきが子どもの
身體にはねかえるのですが、
目に涙をタラタラ流しながら、
そのとばっちりを避けようともせず、
ぶるぶる震えている息子を見たとき、
このときほどこの息子は俺の息子なんだと、
実感を持って胸にせまってきたことはありませんでした。
平常トランプをしたり、
キャッチボールをしたりしして遊んでいるときも、
これは私の息子なんだと
考えていたことに変わりありませんが、
私のバケツの水しぶきが
自分の身體にはね返ってくるのに、
それを避けようともせず、逃げようともせず、
涙を流して、じっと私をみつめている息子を見たとき、
これはおれの血を分けたおれの大事な息子なんだと、
心の底から感じたことです。
それから心を鬼にして、三杯水をかけたら、
息子はすくんでしまいました。
後の二杯は半分ぐらいにして、
數だけは約束通り五杯かぶせると、
私は息子を橫抱きにかかえて風呂場にかけ込みました。
そして、乾いたタオルでゴシゴシと
息子の身體をこすったのですが、
そうすると息子も脇のタオルで私の腹をこすってくれるのです。
私は思わず息子を抱いて男泣きに泣いてしまいました。
それから俊夫は間違っても自分のお金でないものには
投げておいても手をふれない子どもになってくれました」
この厳しさをお母さんにお願いするのは殘酷というものです。
お母さんはやっぱり、
「お父さん、そんなことをしたら、
あの子は死んでしまいます」
と泣いて止める役割がお母さんでしょう。
この厳しさを子どもに屆けるのは、
つらくてもお父さんにしかできません。
そうしなければ、扇風機の芯はばらけてしまいます。
「いくらまわされても針は天極を指す」
これは今は亡き詩人・高村光太郎のことばですが、
狂わせてはならない一點だけは、命を賭けても守り抜くし、
守りぬかせるおやじの生きざまを示したのが、
このことばではないかと感じています。

