というタイトルでブログを書き始めたのが2009年のこと。
「欲しかったものは全部手に入ってる」ということに今更のように気づいたある日、急にそれをシェアしたくて記事を書き始めました。
それまでは鬱で今まで辛く生きてきた分の「毒だし」をしていたので自分のラッキーな現状が見えていなかったけれど、ロンダ・バーンの「ザ・シークレット(2007年出版)」を見たときに「あぁああ、これ今までやってきたことだ!」と驚いたものです。
実際アメリカのイベントで「Law of Attraction」という講義を聞いた時も最初はイマイチピンとこなかったのが、ウエイン・ダイアー先生の本を読んだりしているうちに、「意図することでの現実化」を時間をかけて少しずつ理解してきてました。
ちなみに彼の講演を聞きに行ったときに知ったのですが、彼と私の誕生日は同じ日です!
始まりは本当に純粋なる思いから。
20代前半の貧乏時代。強い憧れを持ってただただ夜寝付く前に海外に飛び立つ飛行機の中の自分をビジュアライズしてました。そしたらそれは実現しました。ビジョンがあまりにも強かったために、もう既に経験してたような感じで新鮮さは薄かったですけれど。
30歳。海外から日本に戻ったは良いけどお金も彼氏もない私に欲しいものができました。その「憧れ」のブツの写真をノートに貼り出して、密かに眺めていた日々。
欲しい車、大きなイエローラブと外国の家で生活すること、ウエディングドレス、洗練されたファッション、あしながおじさん的な存在。それほど多くはなかったけれど、その当時の生活からは全くとして別世界の手が届きそうもない憧れのものです。が、手に入りました。
40代。今までの自分から理想の女性に変身。デミムーアになって若い恋人を持つこと。それも叶っちゃってましたよね。
素敵なドレス。「こんなデザインの服、着る機会ないし」と思っても先に買ってしまう。そしたら、カタログに乗っていたのと同じようなロケーションの場所に出かけている自分が後から実現しました。
「男とパーキング運はあるの」としつこく言ってたらそうなるし、究極には「お金は湧いて出てくるもの」と自然に思えたらそうなってる。
「ビジョンボード」と呼ばれるものを作ると、本当に願いが直ぐに叶うというのはどうやら本当のようです。そこに純粋なる想いとブロックを外すパーミッションがあればよし。
そして「ないない、まだ叶わない。欲しい欲しい」という執着を外し、一度クリアーなエナジーを宇宙に送ったら、それを忘れることも重要みたいです。
願いの現実化にはそれに伴って発生する「弊害」もありまして、物事全てには光が当たる華やかな部分があれば、それに必ずつく影の部分もある。それをも理解して何が欲しいのかを考慮することも必要です。
そうすると、意外にも欲しいかもとか思っていたものが本当は欲しくないものだと分かることも結構あります。
大概に誰か華やかな他人を羨む時って、そこについてくる影の部分なんて見えていないものですけれどね。
なんでこんなこと書いてるかというと、先日溜め込んだファイルの整理をしていたときに、保存してあった文書を発見して驚愕したからです。
そのファイルには「理想の男性」というタイトルがつけられていて、なんとそこに「私は運命の男性に出逢います。その男性は〜」という言葉の後に、32項目の詳細が箇条書きで書かれていました。
そういえば、いつだったかだいぶ昔にふと思いついて書いたことだけはなんとなく覚えているな、という感じなのですが、つい最近までその存在をすっかり忘れていたのです。
そう、「一度ぼんやりしたものを書き出してみよう」と思ってやって、それ以来見直すこともしてなかったのです。
読んでみて愕然としましたよ。なんとそこにルシウスが描かれていたのです。
32項目のうちドンピシャに当たるのが22項目。ちょっと違うけれど性質的にほぼほぼ当たってるのが8項目。全く当てはまらない事実はたったの2項目。って、凄くね?
そして、今思い出せばその時にぼんやりと想像していた人物像は、まさしく去年一緒に旅行していた時に感じたルシウスそのものでした。正直、めっちゃ驚きましたよ。だから急に恋に落ちたのね!
何故「去年のルシウス」かというと、もちろんパーフェクトな人間なんていませんから、今年スペインでちょっと違う面、いわゆる影の部分も見たということで。
アプリとかの条件で吟味して選んだものではなく、旅の最中にオーガニックに出会った人。しかもその時には無茶なボロ自転車の長距離冒険旅行をしていた彼だったからボロボロだったし、第一印象では全くそんな雰囲気など感じられなかったのです。
今更のような驚きと確信。
本当に欲しいものがあれば意識の使い方でこのように現実化するのだなぁという再認識でしたが、今の自分の中にあるフラストレーションと言えば、そう分かってはいるけれど、もう本当に欲しいものなんて既に手に入ってるからもうないということ。(モノはいらない。欲しいのは自由!)
多分「受容」も養われてきた部分も強いと思うし、表面的な華やかなものも「影」の部分が容易に想像できるし。
手に入れてしまえば「なんで私、こんなの欲しかったんだろう?」なんて結構思うものです。もちろん、なかったから「それを経験したかった」ということに過ぎないのですがね。