前回ご紹介した山納銀之助さんのYouTubeの語りは、興味深いことが盛りだくさんなのですが、その中でも時に気を引いたのが彼が生きてる時に聞いた声の話。
実はそれが臨死体験で彼の人生を客観視してた時に、自分が事故に会う時に思わず「危ねえから(まっすぐ)突っ込め!」と叫んでしまったけれど、それはその時に脳裏に響いた声だった、ということです。
その話は22:47あたりで話しています。
「ひすいこたろうの名言セラピー」には同じタイトルの別なエピソードがあり、それは木内鶴彦さんという方のお話です。
この方もまるで同じようなストーリーを持っていて、臨死体験で自分を客観的に眺めて「危ない!」と声をかけてしまっていたけれど、その声も生きているときに聞こえた声だったと語ってるのですよね。(5:42のところです)
この二つのエピソードを観て自分自身にも似たような経験があることに気づきました。
凄く昔のことなのだけれど、ある人をすっかり信用していた時にいきなり「やめなさい、やめなさい!あの人と会うのはやめなさい!」と、すっごく大きな声が脳裏に響いたことがあって驚いたことがあるのです。
それでよくよく考えてみたら、その人に利用されているだけなのだと理解し会うことをやめたのですけれど、あの時の声の大きさは尋常ではありませんでした。
私は昔から国を跨ぐような移動があったりバンジージャンプをするような行動を取るときには、必ず「内なる声」というガイドを経験してきました。
それは自分で悩んで考えた末の行動というのではなく、ある時突然アイデアが落ちてきて、それが腑に落ちるというか腹でわかるというか、逆らいようのない確信ある決断になるのです。
時々自分がある場所に閉じ込められているような身動きできないような不便さも感じたりしていて、親友にも「そんなあなたが何故にして行動を起こさずここに留まっているのか」というように責められることがあっても「内なる声がしない。時期ではない」と言い返していた私がいました。
でも、時が熟すると確実なタイミングで「今だ」ということが分かり、スカイダイビングをするような行動を起こしたのでした。
この二人のYouTuberさんの動画を観てると、もしかしたら私が思っているハイヤーセルフというのは、この肉体が終わった後の人生を再度リヴューしている自身なのだな、と納得したりするのです。
それでなくとも「一粒で2度美味しいグリコ」みたいな体験が大好きで、デジャブー感覚も頻繁に経験する私は、こうやって時々ブログを再度読み直して自分の人生経験を楽しむのと同様、死後も「もう一度地球体験見直しまーす」とかやって、アバターを愛しんでいるのかも知れません。
一通り見終わったら、その時初めて「ではもう一回地球ゲームやるし」って言ってどこかのお母さんを選ぶのかも知れませんね。
ブッダは「人生は苦である」として、「生・老・病・死」の四苦(しく)を示したけれど、まさしくその通りなのであります。
死(肉体の外の意識)は時空から解放されたそれは何事も可能な自由さだけれど、なんでも思い通りになるそれはとても退屈なのだそう。
「そんなことない。そっちの方が楽しそう!」と思うのは3次元の私たちだけれど、「何の敵や障害がないスーパーマリオってめちゃくちゃ退屈です。ただ歩いてたらゴールするマリオってやりたいですか?」という木内鶴彦さんの経験のYouTube(9:42あたりから話してます)に、なるほど確かにそうだよね?っていう妙な納得感あり。
確かに人生悩みはつきもので、何の苦労なく育った人はそれさえも「周りの人みたいに悩みもない。これで良いのか」と罪悪感に囚われるそれが悩みなんて話はよくあるものですから。
もう何もできなくなった死ぬことを待つだけのような老人に「人生で何が楽しかったか」を聞いてもいまいちはっきりしないけれど、「辛かった、苦しかったことは?」と尋ねると、それは目を生き生きと輝かせて語るのだそうです。それを乗り越えてきた自分の人生の意味があったことを実感しているのですね。
そう思ったら、これからどんなモヤモヤがあったとて、なんだか大したことないように思えるし、辛い悲しいことがあったら、その心の痛みさえ十分に味わい尽くそうと思えるではありませんか。
そして「美味しい」もまたこの地球ゲームの醍醐味!
残された時間を、五感をフルに使って思いっきり感情、感覚豊かに経験して味わっていきます!