創作ダンスの集会に出てくるメンバーの人々が好きです。

仲間と呼ぶほどお互いを知らないのですが、それでもそこにいる時の彼らの「存在感」と「the way to carry themselves(自己の持ち方)」に静かな魅力を感じています。

お題が与えられて、インプロで舞を創作し、それを発表し合う。

その「自己を見せる」という行為に全くのhesitation(躊躇、ためらい)がない。

そしてアマチュア舞踏家アメリカ人に良く見受けられた「肥大した自尊心」もなく、ただそこに「在る」。

それが大変に気持ちが良いのです。




日本人、特に宇都宮人に多く見受けられるのは、自己を卑下する習慣。 本人は多分「謙遜」や「遠慮」のレベルでいるつもりでいるのだけど、それが身体全体で表現されてしまっている。だから、後ろへ後ろへと後退りになるし、へこへこした姿勢の悪さに繋がってしまうのが勿体無いのでした。

多くの人が巻き肩になっているから、真っ直ぐに堂々と立っているだけでも「態度のでかい人」みたいに思われてしまいそうです。

 

ジムのサウナの中で「あなた韓国人?」と韓国人女性から尋ねられました。

 

そういえばノルウェーの登山電車で乗り合わせた韓国人オッパたちからも「韓国人に見える」って言われたぜよ。爆笑

 

アメリカに長い間住んでたと告げたら納得してるようでしたが、ジムのおばさんたちから「あの新顔あなたの友達?」と尋ねられたと。

 

「彼女らはちょっと雰囲気違う人見たら、韓国人か中国人と決めつけるからね」と言ってましした。びっくり

でも、宇都宮人は礼儀正しいし相手のスペースも尊重するという良いところはたくさん在るのですよ!爆笑




この「謙遜」と「卑下」の境目、「自信」と「傲慢」の境目の塩梅を探すのが、私の長年のテーマであったかもしれません。

何故なら、自身が自己を確立できなかった為に、本物の自信がなかった為に、自分を大きく見せようと態度が大きくなってしまったり、当然として自信を持つべき時に必要以上に自己評価を貶めて卑下したりしてしまっていた過去の自分がいるからです。




長い鬱の時代を越え、リカバリーの反動で慢心の時期と痛みを味わい、他人軸で生きる必要性がなくなった自立した自分になった今、ようやく真っ直ぐ立っていられるようになったのかもしれません。

誰にも媚を売らずに孤立を恐れずして生きていられることも、ありのままの自分でいられる友人がいて、たまに貴重な時間をシェアできるからでしょう。

 

群れる必要がない。でも、同類の集いはある。それがちょうど良い感じになってきたと感じる今日この頃です。