「でも、その歳でその体型保ってるって凄いことですよ。何やってるんですか?」
そう、驚愕の口調で男は尋ねます。
確かに宇都宮の周りを歩いている年配の女性を見ていても、痩せていても全体的にメリハリがないかまたはもっと肉付きが良いとか、出しているエネルギーが違うのはなんとなくわかります。
でも、姿勢が悪くなったって言われたものな。きっとこれから老化が一気に進んでいくのに違いありません。
私:「ダンス、やってたんです。プロじゃないですよ。でも結構長い間。もう今は踊ってないですけれどね」
男:「なんだ、そうかぁ!あぁ、そう言われれば理解できるなぁ。どう?じゃあ、ここで音楽流すからそこで踊ってみてよ」
私:「やめてください。しませんよ。恥ずかしい」
私:「..... 照れが出るからね、キマらないんですよ。恥ずかしいなんて思う心があるから極められないんだな」
そうだ。ダンサーだったらここで平気で踊るんだ。
植物園で友人に回ってみろと言われた時のことを思い出しました。
あの時、おもむろにそう言われて、はぁ?はいはい、なんて始めた時。
「ひどい、そうじゃなくてさ。もっと可愛くちゃんとやってよ」
そう彼女に言われて3度テイクがあったけれど、真剣にもやらなかった私だし「〇〇子はすんごく可愛く回ったんだけどな」と彼女が呟いたことにまたもやっとしました。
◯◯子は私も前回チラッとあったことがある友人が仲良くしている女性で、誕生日のシーウッドで映えの画像の取り合いをしてる時から、友人は私にイラついていました。
友:「全部不細工に撮れてる。◯◯子だったらいつも可愛い奇跡の一枚撮ってくれるのに」
私:「アートの才能なくてすみません」
友:「相手のために上手に可愛く撮ってあげようっていう気持ちがないでしょ。どーでもいいと思って撮ってるからだよ」
そうは言われても、そこまで蔑ろに面倒に思いながら撮ってるわけではありません。老眼でスマホの画面がよく見えないっていうこともあるんですよね。あとはもちろん、構図の取り方とかはやっぱりセンスだとは思うのだけど。
そう、そう言う友人が何かと◯◯子と比べるのにもやもやしてて、おまけに「やらされてやっていた」動画だったのだけれど、それでもそのあがりを見て「こんな動きしかできないのか私は」と思ったのも事実。
私:「ダンス好きなくせにね、私、三半規管弱いんですよ。回転が上手にできなくて、だからヘタレダンサーだったんです」
男:「おぉ、それは致命的だなぁ!」
先日も海亀ツアーでスノーケリングを1時間ほどした後、自覚はなかったのに海酔いしてて浅瀬に来て立ち上がろうとしたら全く立てませんでして、しばらくみっともなくジタバタしてた私だったことにも驚いたのでした。
私:「情熱はそこそこあるんですが、極められなくて何事も中途半端なんですよ。人生の挫折感めっちゃあります」
男:「そうですか。 分かりますよ。すごく良く分かりますね... 」
分かります? 分かるんだ?
私たちのこの歳って、若い時に感じていた挫折感とはまた違った種類のもの持ってると思います。
若かったら「まだチャンスあるよ!頑張って!」って励ますことができるけど、自分たちにはもうそのエネルギーは残っていない。ただその情熱を綺麗に燃焼しきれなかった、くすぶった燃えかすをどう始末しようと持て余しているだけ。
たとえ対象はなんであれ、私たちには奥底にあるそれの、そういう共感っていうのはあるのだと思います。