ここ数年、愛読書の雑誌として「一個人」があります。
結構おっさんぽいかも・・・なんて思いながらも
読むと凄く面白い。
なかでも、チラチラよく繰り返しで読むのが「論語」特集。
漢文って素晴らしいなあ・・・って年をとってから思ったのですが
どうやら、実際の中国語で読むと、韻をなどもふんであり
耳にも美しいそうです。
訳すと魅力半減といいながらも、素人の私にも
毎回感動を与えてくれます。
学生時代に教科書で習った箇所もありますが、それは
氷山の一角にも満たなくて、昔の教育だったら、
優秀な方はすらすらと、何も見なくても口に出ていたはず。
私も含め、ホント脳みその使い方を怠ってしまってます。
教科書もどれも薄いもんなあ。
昔から現代まで、文士や歴史的有名人に愛されてきた
「論語」ですが、名もない人々(私のような)にも
良くも悪くも教えてくれます。
最近のエピソードですが、私は歴史好きの友人に、よく
史跡や、歴史上の有名人のお墓参りや終焉の地、生家
に連れていかれます。
私は個人的に自分がお世話になった人や先祖の墓参りや
ご挨拶回りもままならないのに、有名人や会ったことも
見たこともない、史実で尊敬したり好んでいる人を
せっせと回るのは如何なものかとぶーたれてました。
その友達には、ただの墓嫌いと思われてますが、
にゃんころさんに、死んだ人はみんな神様だから
誰にお礼を言っても大丈夫と思うよ。
といわれ、目からウロコが落ちました。
にゃんころさんデケー!
私はなんてちっぽけな人間なんだろって、自分にイヤ気が
さしました。
ところが、論語では(雑誌の解釈ですが)、我が家の祖先でもない
神や霊魂を祭るのは本来なすべきことではないといいます。
行動の基準は神や利害ではなく、仁であり義でなければならない
という心情からでした。
もともと、私はこのような考えを持っていたのですが、
そんなことにも固執しない、私なりの価値を見出すべきだと
にゃんころさんに教えて貰った気がします。
まだまだ、論語の本質を悟るには生涯を通しても辿りつけない
かもしれないけど、その時々の状況に応じて味わい、楽しんで
いきたいと思いました。
