先生は、六年になった最初の日、自己紹介の後でこう言った。
浅野京子先生「わたしはね、子どものころ、人前で話すのが、大の苦手だったんです。初めは黒板の前に立つだけで声がふるえて
いたんだけど、少しずつ慣れてきて、そうしたら、楽しくなってきたの。話して、みんなに聞いてもらうのが。そんなわけで、みなさんに
も、前に出てしゃべる機会をもってほしいと思います。テーマは何でもいいので、友達に聞いてほしいことや、楽しかったできごとなどを
スピーチしてください。」
そして、その次の週から毎週火曜と金曜の帰りの会で、順番にスピーチをすることになった。
ほかの人たちは、サッカーの試合に出たことや、自転車に乗って魚つりに行ったことや、大好きなひいばあちゃんのことなどを
話していた。
話したいことは、なかなか思いつかなかったが、家族の中でわたしといちばん気が合う、「どんぐり」という名まえの犬のことを書いた。
でも、読み返してみると、どんぐりのかわいさや、元気さや、性格のよさがうまく書けていないので、自分でもがっかりした。こんなのを
読むより、教室に連れてきて、みんなに見せたほうがずっとわかりやすい。
理香のなぐさめは役にたたなかった。わたしは一日中、帰りの会の時間が来なければいいのに、と思ったり、いっそのこと早く
終わらせてしまいたいと思ったり、とにかくずっと、もやもやして過ごしていた。それでも時間はいつもどおり過ぎ、あたりまえだが、
帰りの会の時間になった。京子先生が、にこにこ顔で、
京子先生「今日は、小林月美さんね。よろしくお願いします。みんな拍手しましょう。」
と、のんびり言った。先生は、スピーチの前と後の拍手はとても大切だと信じている。
理香は拍手の合間に、握った右手の親指を立てて、ゴーサインを出している。「がんばれ。早くね。」と言っているんだと思う。
月美「わたしの家には、どんぐりという名まえの犬がいます。」
「聞こえません!」
大きな声がわたしのスピーチをさえぎった。いちばん後ろの席の柴山健太だ。みんながいっせいに後ろを振り返った。柴山はみんな
の視線を集めてもう一度、
柴山健太
「聞こえませんでした。」
と言った。みんなの視線は、今度はわたしに注がれた。はずかしさで顔が熱くなった。
月美「わたしの家には、どんぐりという名まえの犬がいます。『変わった名まえだね。』とよく言われます。」
健太「すいません。聞こえないので、もう一回、初めからやってください。」
また柴山だ。どうだ、という顔でふんぞり返っている。みんなが、ざわざわしだした。おもしろそうにしている男子。小声で文句を言って
いる女子。理香は机の中の本をかばんに入れ、帰るしたくをしている。助け舟を期待して船影を見ると、京子先生は、口もとを
きゅっと結び、優しい目でわたしを見つめている。(しっかりね。)という目だ。
月美「わたしの家には・・・・・・。」
健太「き、こ、え、ま、せぇん。」
いやがらせだ、と思った。みんなの前でこんなにはじをかかせて、何か楽しい?わたしは柴山をにらみつけた。柴山もわたしを
んらみ返してきた。その意地の悪い目つきに、わたしの悔しさは頂点に達してしまった。あいつをにらむ目に涙がうかぶ。ここで泣く
のは絶対にいやだ、と思うのに、悔し涙はかってにこぼれ落ちる。
「女を泣かせるなよ。」と男子。
「柴山、最低。」と女子。
「先生、わたし、塾に送れちゃうんですけど。」
さわぎだしたみんなを前に、先生は静かな調子で話しだした。
京子先生「柴山君のしっかり聞きたいという気持ちもわかるけれど、『聞こえない、聞こえない。』って言われると、ますます話せなく
なってしまうのよね。用のある人もいるので、今日のところはここまでにしましょう。小林さんには、運動会明けの火曜日に、もう一度
挑戦してもらいます。みんなも話す人が話しやすいような、温かい雰囲気を作ってあげてね。」
京子先生は、だれ一人悪者にせず、どなり声一つあげずに、この騒動をまとめた。でも、柴山をしかってくれなかったので、わたし
にはもの足りなかった。あいつはもう一度わたしをにらむと、かばんを持って教室を出ていった。私はしばらく、そこから動けなかった。
ぺしゃんこになったみたいで、気持ちのやり場がなかった。わたしはまっすぐ家に帰る気になれず、駅を回って、商店街を通って少し
遠回りをして帰ることにした。いい天気だ。午後の太陽がきらきらしている。風はすっきりと冷たくて、ナンキンハゼの並木をさらさら
とゆらしている。少し先の八百屋の店先に、ぴかぴかの赤いリンゴが並べられている。もう秋だな、と思う。もうすぐ修学旅行だと思う。
そして思い出してしまった。二日目の自由行動班が、柴山健太と同じだった。あいつの意地の悪い顔がうかんでくる。
「聞こえません。」としつこく言う声が、頭の中にがんがん響く。さっきまでなんとなくぺしゃんこだった気分は、急に腹立たしい気分に
変わった。しつこくて、にくらしくて、最低だ。わたしは、歩道をどんどんふみ鳴らして歩いた。あんなやつ大きらい。人にはじかかせて
楽しむなんて最低。ばかみたい。陰険。わたしは夢中になって、思いつくかぎりの悪い言葉をあいつに浴びせた。心の中で。
そのとき、わたしの習字道具が八百屋のリンゴの山に当たったのだ。その手ごたえに、はっとして立ち止まった。
月美「あ、だめ。」
わたしは習字道具を引っこめ、落ちていくリンゴを手で受け止めようと駆け寄った。一瞬のできごとのはずなのに、その一瞬はとても
長く、音もなく、映画のスローモーションのシーンを見ているようだった。
次の瞬間、受けそこねたリンゴたちはアスファルトの歩道にごとごとと落ちた。そして、転がっていった。まるで小さな子が駆けっこを
するみたいに、いっせいに。商店街はゆるやかな下り坂になっていたのだ。真っ赤に光るリンゴが転がっていくのを目の前にして、
わたしの体はなぜか、そこを一歩も動けなかった。頭だけが働き、もう何もかもだめ、台なしだと思った。あたりにリンゴのいい香り
がただよう中で、わたしは、ほんとうにばかみたいに、ただ立っていることしかできなかった。
歩いていた人たちは足を止め、リンゴを拾いだした。おばさん、おばあさん、孫を連れたおじいさん、セーラー服の女の子もいた。
セーラー服のお姉さんは、拾った分をまず、八百屋のおばさんにわたして、かごを借りて出てきた。リンゴを手にした通行人の人たち
が、そのかごにリンゴを納めた。お姉さんは、一人一人に「あ、り、が、と、う。」と言い、みんなも笑顔で立ち去っていった。
「今度から気をつけるんだよ。」と言っていく人もいた。お姉さんは小さく頭を下げた。わたしは、そのとき、走っていって
「落としたのはわたしです。」と言わなくてはいけなかった。でも、一つも拾うことができなかったわたしは、駆け寄ることが
できなかった。うそをつくつもりはなかったのだ。もしだれかが「落としたの、あなたでしょう。」と言ってきたら、「そうです。ごめんなさい
と言えたと思う。でも、そのときは、わたしは自分から言えなかった。
お姉さんはリンゴのかごを八百屋のおばさんに返し、ちいさくおじぎをして坂を下りていった。おばさんにしかられることはなかった。
逆に、おばさんはおじさんにしかられていた。
「だいたい、おまえ、道のほうに商品を出しすぎなんだ。もうちょっとひかえて並べてくれよ、まったく。」
「今日のは、いいリンゴだったから、つい、うれしくてね。」
おばさんは、明るい調子で言った。
「うれしくったって、むだが多くちゃかなわんぞ。」
二人は、リンゴとナシとダイコンを少し後ろのほうに並べ直すと、奥に入っていった。
何事もなかったように、いつもの人通りにもどった。わたしは、だれにも気づかれることなく、最初から最後までそこにいた。
透明人間になってしまったような、不安な気持ちになった。途中からでも、拾うのを手伝えばよかった。拾えなくても、せめて謝れば
よかった。お礼を言えばよかった。
あのお姉さんは、不思議な、ひと文字ひと文字をくぎるような話し方で、「ありがとう。」と言っていた。外国の人か、それとも話すのが
不自由な人かもしれない。その人が、拾ってくれたみんなにお礼を言っていたのに、わたしは黙って見ていたのだ。ばかみたいに
つっ立って。なんていやな子なんだろう。公開の気持ちでおしつぶされそうになりながら、かすかなリンゴの香りの中で、そのまま
長い間、立ちつくしていた。バスが何本も通り、秋の夕暮れのけはいがやってくるまで。
次の日、学校が終わるおと、わたしはまず八百屋のおばさんに謝りにいった。ゆうべ、おふろの中で、きちんと謝る決心をしたのだ。
店先にはだれもいなくて、昨日のとおりに、少しひかえて果物や野菜が並べてある。
月美「あの、すみません。」
八百屋のおばさん「はい、いらっしゃい。何にしましょう。」
月美「買い物じゃなくて、謝りにきたんです。昨日、リンゴ落としたの、わたしなんです。ごめんなさい。」
おばさん「ああ、昨日のね、わざわざそれを言いにきてくれたの?そう、正直でいい子だね。」
月美「わたし、ちっともいい子なんかじゃないんです。勇気がなくて、すぐに謝れなかったし。わたしのかわりにリンゴを拾ってくれた
お姉さんにも謝らなきゃいけないけないんですけど、ここで待ってたら会えますか?」
おばさん「あの子なら、毎日、すぐそこからバスに乗って帰っていくんだよ。ほら、そこの床屋さんの前のバス停ね。」
月美「よかった。ありがとうございます。」
おばさん「あのこも感心な子だよ。ほら、神社の近くの何とかっていう、耳の不自由な子の学校に行ってるんだけど、朝、わたしが
店の準備してると、必ず『おはようございます。』って通っていくんだよ。いろいろ苦労があると思うけど、りっぱな子だね。」
月美「ありがとうございました。待ってみます。」
おばさん「そうだ、ちょっと手伝ってほしいんだけど、たのめる?」
月美「はい。」
おばさんは店の奥に入っていき、わたしもついていった。奥のドアを開けると、あまずっぱい、いい香りがした。
おばさん「昨日のリンゴでジャムを煮たんでね。ちょっと味みる?手、出して。」
わたしの手のひらに、ジャムをひとさじ落としてくれた。まだほんのり温かいジャムは、リンゴの香りがたっぷりで、あまくて、
おいしかった。
月美「おいしいです。とっても。」
おばさん「そう、よかった。じゃあ、そこのびんにつめるからね。」
ふきんの上に、ジャムのびんがたくさんふせてある。大きななべから、小さななべおたまでジャムをつめた。こぼさないよう、
びんの回りがべたべたしないようにつめるのは難しかった。わたしが一つつめ終わって見ると、おばさんはもう四つ終わっていた。
大きななべいっぱいのリンゴジャムは、十八個のびんにおさまった。
おばさん「ご苦労さま。はい、これおみやげね。こっちはバス停のあの子の分。」
きれいでおいしいジャムのびんを二つ持たせてくれた。わたしは謝りにきたのに申しわけなくて、でもそれ以上にうれしい気持ちで
いっぱいで、おばさんに何度もお礼を言い、バス停に向かった。
耳が不自由ということだったが、どうやって謝ろう。ジェスチャーで通じるだろうか、いや、通じなければ紙に書いてもいい、とにかく
謝って・・・・・・・・・・・・・・・続く