中学生にとっての大きな目標である通信陸上大会とは?① | 中讃ミドルクラブログ

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陸上は楽しくありたい!が原則で,それでも本気で世界一のアスリート育成を目指す,うどん県骨付鶏市を拠点に活動中!陸上クラブの日常を書き綴ります。

通信大会=冬の練習の成果を出すときです。

毎年7月の第一土日は,香川県では中学通信陸上競技大会です。
中讃クラブからも,標準記録を突破して多くの人が出場します。
ぜひ自己新記録を出して,満足できる大会にしてもらえるよう,一年間の練習をがんばっています。

さて,この通信大会について少し説明しましょう。
この大会は何と57回目を迎える大変歴史のある大会です。
毎年7月末にある県総体よりも古い大会です。
実は昔の中学生にとっては,この大会こそが一番の大きな目標大会でした。
というのは,昔は中学生の全国大会というのがなかったからです。
私(けんさく)が子どもの頃は今ほどスポーツが盛んではありませんでした。
前にも言いましたが,陸上のテレビ放送などは,オリンピック,日本選手権くらいしかありません。
もちろんスポーツ少年団などもなく,子どもたちは着の身着のままで広場で野球の真似事をして,将来のスターを夢見ていました。
中学生も同じようなものです。
さすがに部活動がありますから,ユニフォームくらいはありますが,最大の目標は県総体です。
それ以上の大会は,正式にはありません。
何しろ文部省(現在の文部科学省)が,中学生は発育途上なので,本格的なスポーツ練習は望ましくないとしていた時代です。(今の小学生のような扱いです)
ですから泊まりがけの全国大会などはまかりならんというわけです。

しかし,そうはいっても現場の選手や指導者は燃えています。
何とか全国大会のようなものができないだろうかと知恵を出し合って作ったのが「全国放送陸上大会」です。
これは,日本中の都道府県で同じ日,同じ時刻に大会を行い,それをNHKがその放送網を使って集計を行い,ラジオでその様子を放送していました。
例えば「こちらは香川会場です。ただいま,男子100mで骨付鶏中の森田選手が10秒9の記録を出しました。」というと「こちらは北海道会場です。こちらでは札幌ラーメン中の本田選手が11秒0です。」「こちらは本部です。他の地区はどうですか?・・・となると今年の全国1位はうどん県骨付鶏中学校の森田選手ということになりました。」という具合に記録だけで全国の順位を決めていたのです。

乱暴な話ですね。
競技場も違えば,コンディションも全然違う中,記録だけで全国ランキングをつけるのですから。
ある会場は向かい風が2mも吹いているのに,別の会場では追い風がびゅんびゅん吹いているということもあるわけです。

私たちの香川県は,その意味では,昔からいかにしていい成績をあげるかを競っていましたから,いつでも追い風で走らせていました。
ですから今でも屋島競技場では,よくバックストレートで100mやハードルのレースをするでしょう。
でも他の県は,ほとんどそういうことはしていませんでした。
ですから,香川県の中学生は放送陸上では大活躍するのにインターハイになるとあまり活躍できなくなることが多かったのです。
当然ですね。
条件が違うのですから,放送陸上の順位そのものに「?」があるわけです。
ただ風がそんなに影響しない棒高跳びや走り高跳びなどは高校に入っても大活躍が続きました。
確かな実力があったわけです。
他にも理由はあります。
北海道や東北地方は当時そんなに陸上熱が高くなく,おまけに冬は寒くて練習どころではなかったですから,いわばぶっつけ本番で走っていたわけです。
そうした選手が高校ではさすがに本気で練習に取り組むわけですから,ぐんぐん伸びてきます。そういった背景もありました。

それはさておき,こうした大会が今から38年前まで続きました。
私が高校生の頃です。
その頃やっと時代は変わり,晴れて全国大会ができるようになったのです。
これで日本中の中学生が同じ場所で競走できるようになり,本当の日本一が決まるようになったわけです。

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けんさく代表とわたし(けんさくの弟子)とは15年ほど年代が違います。

わたしのころは,もう少し進んで,全国大会はありました。
しかし,その標準記録を出すための大会は7月下旬に一回だけ,香川県総体と通信陸上香川大会が一緒になった大会だけでした。
ただし,わたしは混成競技をメインとしていましたから,6月中旬の中長混成と2回のチャンスがありました。
そこで標準記録を大幅に切っていたために,ゆとりを持ってこの大会にのぞめました。
ところが,ゆとりを持ちすぎて大失敗…
全国大会標準記録は突破したものの,大幅に記録を落として優勝を逃してしまいました。
得点にして約80点近く落としたのですから,目も当てられません。

今振り返ると,このころに調整とかその他さまざまな要因は全く考えてなかったのが正直なところ。
学校対抗の得点を稼ぐために,3種競技B(砲丸投・走幅跳・400m),400m,4×200mリレーと出場しました。
当時リレーでも優勝争いをしていましたから,すべてに手を抜けません。
もちろん,全力で取り組みました。
その結果,400mが優勝,3種Bが2位となりましたが,リレーは混戦の末3位となり,四国大会出場まで逃してしまいました。
個人種目では全国大会出場を獲得していたものの,チームとして四国大会まで逃してしまったのは,非常に悔しく思っています。
当時,今の理論を確立できていたらとか,調整の仕方や効率の良い走り方を知っていたらと思うと悔しくて仕方がありません。

そして,この経験を通して,みなさんにこのようなお話もできるわけです。

それでは,また明日。