銭湯通いは「非日常」ではなく単なる「日常」でした | うつ病で精神障がい者だけど前向きに生きてやる!

うつ病で精神障がい者だけど前向きに生きてやる!

精神障がい者なのに働いてるのが奇跡?のうつ病伊達誠です。うつ病の辛い気持ちを分かってほしいので、正直な気持ち書いていきます。

●銭湯通いは「非日常」ではなく単なる「日常」でした


こんにちは、伊達誠です。

今回は昔話をします。

私の生い立ちについての話です。


私が物心付いた時、我が家は千葉県の鎌ケ谷市という所にありました。

我が家の間取りは2K。


畳の狭い部屋2つと、これも狭い台所と、ぼっちゃんトイレがあるだけ。

もちろん風呂無しの、長屋住まいでした。

ちなみに、銭湯がすぐ近くにあったので、そんなに不便さは感じませんでした。


家に風呂はあるけど、たまに銭湯を味わいたいという銭湯通いは、非日常を味わっているのだと思います。

それに対して、家に風呂の無い家族の銭湯通いは、単なる日常でしかありません。

なので子供の頃の私は、何の感慨も無く、富士山の絵を見ながら、広い浴槽に入っていました。


家が貧乏だったんですね。

父親が病弱な人で、収入が少なかったんですね。


父親は、よく体調を崩して、会社を休んでいました。

あと父親が残業したのを、私は見たことがありません。

父親は毎日、6時になったら帰宅する人でした。


私の子供の頃は、労働者の月給は現金支給でした。

毎月25日になると、父親が母親に薄い給料袋を手渡します。


母親は私が見ている前で、無造作に給料袋をハサミで開けて、一万円札の数を数え出すのです。

母親の手は、毎月18回で止まります。


母親は給料袋をオデコに当てて、「ご苦労様でした」とつぶやくのでした。

そして、18枚の一万円札の中から2枚を抜いて、父親に無言で手渡します。

その2枚の一万円札は、父親の1ヶ月の小遣いです。


父親は、何とか55歳くらいまで働きました。

でも、全身の筋肉が無くなる、原因不明の難病に犯されます。

私が、大学を卒業する頃の話です。


それにしても、よく私を大学に行かせてくれましたね。

しかも私立の大学で、アパートでの一人暮らしまでさせてくれました。


当時は、母親がパートに出ていたとは言え、大感謝しなくてはなりませんね。

大学生の時、私もかなりバイトしましたが、仕送りと学費の支払いをしてくれた両親には、感謝感謝です。


私は小学生の頃から、「我が家は貧乏ではないか」と、何となく気付いていました。

でも、そのことを強く実感したのは、大学生になって一人暮らしをしてからですね。


大学生になってすぐに、私は同じ大学の同級生の女の子に告白されて、付き合い始めました。

あっという間に、私のアパートと彼女の住む家を行き来する仲になりました。


横浜の彼女の住む家に行って、もうビックリ。

ガレージに止まっている3台の車のうち、一番ショボい車が、3000CCの真っ白なクラウン。

そのクラウンには初心者マークが付いていて、私の彼女の通学用の車でした。


家に上がったら、白亜の大御殿。

まるで、お城のよう。


父親がオーナー会社の社長で、自宅が横浜の一等地の彼女の家には、本当に何でもありました。

その彼女の家に行った時が、人生初のカルチャーショックでした。


ちなみにその彼女とは、3ヶ月くらいで別れました。

お金に対する価値観が、あまりにも違い過ぎました。

当然の結末ですね。


その時、私は学びました。

顔がちょっと可愛くて、胸が少し豊かでも、価値観が合わない女性とは、長続きしないんだなと・・・。

19の春の、ほろ苦い思い出です。


私が大学生の時は、勉強よりも生活が大変でした。

時には、仕送りの日までの生活費が足らずに、サークルの先輩に1万円を借りたことも、何回かありました。


今日のご飯を食べるお金が無いという経験をすると、身にしみるんですよね。

お金の有り難さが。


そんな経験を二十歳の頃したので、お金の無駄遣いや、平気で借金をする方とは、親友にはなれないですね。

若い頃に経験したことは、私の価値観として、今でも残っています。

多分、死ぬまで、私の価値観は変わらないと思います。


今回は、昔話に付き合っていただいて、ありがとうございました。