こんにちは、伊達誠です。
今回は昔話をします。
私の生い立ちについての話です。
私が物心付いた時、我が家は千葉県の鎌ケ谷市という所にありました。
我が家の間取りは2K。
畳の狭い部屋2つと、これも狭い台所と、ぼっちゃんトイレがあるだけ。
もちろん風呂無しの、長屋住まいでした。
ちなみに、銭湯がすぐ近くにあったので、そんなに不便さは感じませんでした。
家に風呂はあるけど、たまに銭湯を味わいたいという銭湯通いは、非日常を味わっているのだと思います。
それに対して、家に風呂の無い家族の銭湯通いは、単なる日常でしかありません。
なので子供の頃の私は、何の感慨も無く、富士山の絵を見ながら、広い浴槽に入っていました。
家が貧乏だったんですね。
父親が病弱な人で、収入が少なかったんですね。
父親は、よく体調を崩して、会社を休んでいました。
あと父親が残業したのを、私は見たことがありません。
父親は毎日、6時になったら帰宅する人でした。
私の子供の頃は、労働者の月給は現金支給でした。
毎月25日になると、父親が母親に薄い給料袋を手渡します。
母親は私が見ている前で、無造作に給料袋をハサミで開けて、一万円札の数を数え出すのです。
母親の手は、毎月18回で止まります。
母親は給料袋をオデコに当てて、「ご苦労様でした」とつぶやくのでした。
そして、18枚の一万円札の中から2枚を抜いて、父親に無言で手渡します。
その2枚の一万円札は、父親の1ヶ月の小遣いです。
父親は、何とか55歳くらいまで働きました。
でも、全身の筋肉が無くなる、原因不明の難病に犯されます。
私が、大学を卒業する頃の話です。
それにしても、よく私を大学に行かせてくれましたね。
しかも私立の大学で、アパートでの一人暮らしまでさせてくれました。
当時は、母親がパートに出ていたとは言え、大感謝しなくてはなりませんね。
大学生の時、私もかなりバイトしましたが、仕送りと学費の支払いをしてくれた両親には、感謝感謝です。
私は小学生の頃から、「我が家は貧乏ではないか」と、何となく気付いていました。
でも、そのことを強く実感したのは、大学生になって一人暮らしをしてからですね。
大学生になってすぐに、私は同じ大学の同級生の女の子に告白されて、付き合い始めました。
あっという間に、私のアパートと彼女の住む家を行き来する仲になりました。
横浜の彼女の住む家に行って、もうビックリ。
ガレージに止まっている3台の車のうち、一番ショボい車が、3000CCの真っ白なクラウン。
そのクラウンには初心者マークが付いていて、私の彼女の通学用の車でした。
家に上がったら、白亜の大御殿。
まるで、お城のよう。
父親がオーナー会社の社長で、自宅が横浜の一等地の彼女の家には、本当に何でもありました。
その彼女の家に行った時が、人生初のカルチャーショックでした。
ちなみにその彼女とは、3ヶ月くらいで別れました。
お金に対する価値観が、あまりにも違い過ぎました。
当然の結末ですね。
その時、私は学びました。
顔がちょっと可愛くて、胸が少し豊かでも、価値観が合わない女性とは、長続きしないんだなと・・・。
19の春の、ほろ苦い思い出です。
私が大学生の時は、勉強よりも生活が大変でした。
時には、仕送りの日までの生活費が足らずに、サークルの先輩に1万円を借りたことも、何回かありました。
今日のご飯を食べるお金が無いという経験をすると、身にしみるんですよね。
お金の有り難さが。
そんな経験を二十歳の頃したので、お金の無駄遣いや、平気で借金をする方とは、親友にはなれないですね。
若い頃に経験したことは、私の価値観として、今でも残っています。
多分、死ぬまで、私の価値観は変わらないと思います。
今回は、昔話に付き合っていただいて、ありがとうございました。