生い立ち(まとめ・トップリンク用) | 置かれた場所で咲くんやで!元JW2世の前向き備忘録

記事が多くなってきたので、自己紹介まとめとして、10年以上昔に書いていたものを保存記事にします。
過去記事と重なっている部分が多い上に長文ですので、
以前からフォローしてくださっている方は読み飛ばしてくださいませ。

牛しっぽ牛からだ牛からだ牛からだ牛からだ牛からだ牛からだ牛あたま

☆生い立ち
 

父、母は、私が産まれた時から信者でした。
兄と姉は、小学校入学時くらいから母に連れられて集会へ。
当時別居状態にあり、借金を山ほどこしらえていた父が戻ってきた時、何でも母に償いたいと言う気持ちから研究に応じ、やがて「進化と創造の本」で以前から疑問に思っていた進化論を科学的に(私はそうは思わないんですが)否定された事から、やがて献身へと至りました。
そうして私が産まれます。
ですから、ある意味私が産まれたのはJWのおかげと言っていいかもしれません。

その後何年間かは、全時間の仕事を持ちながら補助開拓をする奉仕の僕の父のもと、模範的な神権家族として重宝されていました。
でも、家庭をないがしろにしてまで奉仕に走る父と母は、思春期の難しい時期にあり、ムチ全盛期にあって感情面のケアができていなかった兄と姉にまで気が回りませんでした。
引越しして新しい会衆に移ったのをきっかけに、やがて姉は学校にも集会にも行かなくなり、私が三歳の頃家をひとりで出て行きました。
兄は反抗期で、おぼろげながら殴りあいのケンカをしていたのを覚えています。
新しい会衆もぼろぼろで、長老同志の権力争いとイジメと若者の風紀の乱れがものすごかったそうです。
幸いなことに、私はそれに全く気づかず、新しい長老が必要で入ってきて大改革を行っても、なぜそうなったのかちんぷんかんぷんでした。
いや、気づいていたらもっと早く組織を出ていたかもしれません。
越してきた時、私は生後半年でした。
そこから排斥になるまで、私のJW人生はこの会衆で過ぎてゆきました。

☆幼少時の思い出

家は貧乏でしたので、母は毎日やりくりに大変苦労していました。
でも、奉仕の帰りに二人で野草をつんだり、パン屋さんを回って耳をもらったり、お弁当を作って庭で食べたり、庭のコンフリーをてんぷらにしたりと、貧乏を楽しんでいた感じがあったので、つらいと言う事は感じませんでした。
幼稚園には信仰上の理由と経済的な理由の両方から行きませんでしたが、その代わりに習い事は好きなだけさせてくれていたと思います。

JWの子供としては、よくしゃべり、人懐こく、賛美の歌を大声で歌い、毎回注解し、おむつの取れない頃からパンフレットを持って証言し、遊びと言えば伝道ごっこ。
お漏らししながら証言を続けていて家の人に苦笑されていました(笑)
母と聖書の替え歌を作っては一緒に歌っていました。
ムチは、それなりにはされたと思いますが、明らかに父がやらされてる感満載でやってましたので、感情的になることもなく、ごくごく普通の範囲内だったんじゃないかと思います。
兄はその頃できたJWの親友といつも遊びに行っていて家におらず、私はほぼ一人っ子でした。
そのため家族からも周りからもちやほやされ、わがままいっぱいで出しゃばりな子供に育ちました。

そんな恵まれた幼少時代のあと、就学時代に入ります。

☆小学校へ

引越しして学区が変わり、馴染みのない子ばかりの学校へ通うこととなりました。
それまで私は同年代と言えば男の子、それ以外はお姉ちゃん達とばっかり遊んでもらってましたから、友達の作り方がわからず。
でも、それまでは、年齢の割りに利発だったことでちやほやされていたので、きっとここでもそうすればいいに違いない。と、とことん出しゃばり、自分の能力をいかに見てもらうかに全力を注ぎました。

その結果、友達はできず。
また、ワガママで、我慢することを知らない性格が、学校での当番や助け合いに如実に影響してきました。
段々仲間はずれになってゆくのを、なぜだろう、何が悪いんだろうと必死になって考えていました。
でも、ここで自分の性格の悪さに気づいていたら良かったのですが、JWの基準だけはしっかりと守っていた私は、会衆では「模範的な子」扱い。
そうです、JWの基準に沿っている子が一番正しいんです。
私が浮いているのも、きっとそのせい。
そう思って、ますます熱心に神権活動に取り組みます。
両親も、成績もよく霊的な我が子に何も注意しませんでした。
本当のキリスト教の精神を何も学んでいなくても、JWでとがめられることはなかったんですね。

小学校二年で神権宣教学校。
四年生で伝道者。
会衆の中では一番でした。
それゆえに、お母さん方の比較対象になり、急かされた他の2世たちの面白くない気持ちを買うことになります。
それに気づいても、いまさら目立ちたがりの性格を変える事はできませんでした。
誉められることが私の原動力だったからです。
その性格は今でも変わりません。
人に認めてもらわなければ意味がないと、つい考えてしまいます。
見られているところだけ、頑張る。
それがやがて、裏表ある生活につながっていきました。

☆バプテスマ

小学校4年の冬、兄が集会に行かなくなりました。
開拓をするために始めた仕事が忙しくなり、逆に集会に来れなくなったのです。
それまで若者の筆頭だった兄が来なくなり、やがて職場に近いところに引越して行くと、我が家は暗い雰囲気に飲み込まれてゆきました。
子供心に、私が頑張らなければと思ったのでしょう。
誰に急かされるでもなく、一人で長老のところに行って、献身したいと伝えました。
ちょうどその頃、ぼろぼろだった会衆を立て直しに、栄えあるMTS卒業生の長老が二人入って来ました。
そして古参長老は次々に特権を降り、あるいは異動になり、昔の我が家を知る長老はほとんどいなくなりました。
兄が頑張っていたことを知る人もおらず、不活発になり世の人と付き合って結婚していた兄は、悔い改めていたにも関わらず排斥になりました。
そんなごたごたの中、私は兄の排斥の発表の直前にバプテスマを受けます。
小学校5年の冬でした。

その頃、好きな子が学校にいました。
付き合うなんて小学生ですから当然考えないもんですが、恋愛は無理とはなからJW基準で考えていた私にとって、JWだからできないんだ。と、欲求不満ばかりが募っていきました。
隠れて「りぼん」や「なかよし」を読むようになり、同じJW家庭でも漫画や友達付き合いに寛容だった他の家庭をうらやましく思うようになりました。

JWだから、恋愛ができない。
JWだから、友達ができない。
JWだから、好きな服が着られない。

ほんとは自分の容姿や性格やセンスのせいなのに、認められなかったのです。
でも一方で、こんな誘惑の試練に耐えている私ってすごい、と、自己陶酔に陥っていました。
そんなゆがんだ性格の子供がいじめられるようになるまで時間はかかりません。
6年生になった時、クラスのほぼ全員から敵視され、呼び出されると言う日々が続きました。
私は不登校になりました。
でもこのとき親は何も言わず、黙って優しくしてくれました。
模範的じゃない私もちゃんと受け入れてくれるんだと思ったのを覚えています。

だけど、染み付いたゆがんだ性格は直りませんでした。
いじめられた経験を、会衆で話すように求められました。それも、JWとしての基準を守ったからだ、と言う風に。
自分でもそう思いたかったので、事実を曲げて話しました。
でも、本当はそうじゃないことは分かっています。
私はそんな模範的な人間じゃない。
JWであることをやめたら、全く価値のない人間なんだ。
そう、薄々感じるようになりました。

そして、中学校に入ります。

☆中学校へ

中学一年のクラスで、初めて会衆の子と同じクラスになりました。
会衆では一番仲のよかった子だったので、ほっとしました。
が、彼女と自分の違いに気づいて今度は悶々とし始めました。
彼女は学年でも相当な人気者で、友達作りに苦労したことがありませんでした。
話題にも事欠かず、私はとんと疎かったテレビや音楽情報が豊富でした。
片親が未信者だった環境のおかげもあったでしょうが、同じ二世としてここまで社会への適応性に差が見られる比較対象もいなかったと思います。
彼女に告白するメッセンジャーに自分がなったりすることが何度も続き、いやおうなしに卑屈になって行くのを感じていました。
なんとか自尊心を保つには、良い成績を取り、更に会衆内で模範的になるぐらいしか思いつきませんでした。

そうして中二。
彼女とクラスが別れ、私は自分で友達を作らなければならなくなりました。
どうしたら普通に友達になれるんだろう…。
私はもう、普通になろうとしても追いつくには相当距離があることを実感していましたから、必死に自分が会話のペースを作り、人とは一風変わった趣味を持つことで立場を確立しようと努めました。
最初は上手く行きました。
でも、なぜか途中から、どんどん歯車が狂っていくのを感じました。
話題が出てこない。
笑えない。
みんな、私の陰口を言っている気がする。
実際にいじめられたわけではないのに、本当に学校に行くのが辛くなりました。
このパターンはその後数年続きました。
今でもそうですが、最初は友達になるのに全く苦労しないのです。
自分からしゃべりかけて、ベースを作る。
そこそこしゃべれる間柄になる。
…でも、それ以上は発展せず、むしろ気まずくなっていく。
で、焦っていらんことをして、関係が壊れる。
なんでか、今でも正直理由は分かりません(^-^;
ただ、当時と違うのは、少数ながら友情が発展してゆく友達ができたと言う事です。親友と呼べるかは分からないけども。

中三。
またまた好きな人ができました。
今回は今までと違い、自分を変えようと試みました。
栄養学を勉強して毎日ランニングに励み、10キロのダイエットに成功し、当時まだ珍しかった縮毛矯正をあて、スカート丈をひざ上にしました。
毎日手作りのおやつをお弁当と一緒に持参して、好きな人を巻き込んでみんなで食べました。
それまでただのブスとしか思われていなかったのを、ある程度女の子扱いされる程度まで持っていけたと思いました。
更に勉強を頑張り、校内一位の成績を取りました。
やればできるやん。と、思いました。

でも、また友人関係に行き詰まり、原因不明の欝が襲ってきて、

私は声が出なくなりました。
不登校一ヶ月。
学校推薦は決まっていたからいいものの、なんでこんなに自分は弱いんだろうと思いました。
やっぱり変わりきれていなかった自分に気づきました。

今度こそ。今度こそ変わる。
幸い進学先の高専には、母校の生徒は誰一人進学していませんでした。
そして、女性少数と言う環境。

私には今考えるとかなり恥ずかしい願望があり、それが無意味に劣等感を産んでいたのですが、
JWとして試練に耐える、と言うもののなかに必ず出てくるのが、「異性からの誘惑」でした。
だって、出てきますよね?若い人は尋ねるとか、大会の経験とか、つきまとわれて困ったって言う人の話が必ず。
私はそんな魅力的な(笑)誘惑に遭ったためしがなかったので、せめてそんな誘惑に遭わせてくれ、そしたらことごとくフってやる!!と言う願望をメラメラ抱いてました(笑)
そんでもって大会で経験として語ってやるんだ!!と思ってたわけです。なんか、ヒトとして最悪ですね( ̄∀ ̄;

だから高専を選びました(少なくとも40%くらいはソレが動機です)

この頃、もう既に裏表を使い分けることに罪悪感を感じなくなっていました。
しかも、世のヒトに対して誇張された遊びまくるイメージを持っていたため、
自分の考える「普通」とは、正直かなりぶっ飛んでいた訳ですね。
で、高専に入って、その誇大妄想だらけの「普通」を目指す訳です。

☆高専時代1

高専に入学した時、予想以上に友達ができやすく、予想以上に男友達が増えることにびっくりしました。
また、ひとつ上のJWの先輩と入学前に知り合ったこともあり、
その先輩が入っていた部活に入ったりして、夏まではあっと言う間に過ぎてゆきました。
ここでJWとしてカルチャーショックだったのは、高専のJW達が非常に自由だったこと。
他の会衆にどんどん遊びに行き、クラスメイトにもどんどん証言する代わりに世の交わりもどんどん参加する。
発言もユニークで、出版物に載っているようなセリフをほとんど言わない。
自分の考えとして確立されている感じがしました。
そして、男女の垣根らしきものがほとんどありませんでした。
二人きりになったり、メールをしたりするのも、ほぼ当たり前。ただし恋愛抜き。
「異性」を絶えず意識して来た私にとっては、なかなか慣れない事でした。
なので、余計に焦りました。
私はJWだから世に順応できないんじゃない、性格や行動のせいだ、と気づかされたからです。

それでどうしたら普通の子らしく、高校生活を謳歌できるかと言う事にこだわるようになっていたので、まずはモテることからだ!と勘違いし、どんどん男友達を増やし、携帯を持ち、一日60通以上のメールをやり取りしました。
そのうち頻繁にやり取りする相手が定まってきて、好奇心から一人と付き合うようになりました。
JWとしてやっていく気はありましたし、あくまでも危なくなったらやめるつもりでいました。
同級生の他の二世の子も、既にバプ済みでしたが、メル友を作り、遊びに行っているのを知っていたので、特別なことだとは思いませんでした。
ただ、親に知られないように、それだけを考えていました。

ところがひょんな事でバレてしまい、そんなに好きでもなかったので、あっさりと別れを承諾しました。
それをきっかけにかどうかは分かりませんが、その頃から例の友人関係のトラウマが再発して、また友達と上手く行かなくなってきました。
しかし、今回は少し事情が違いました。
周りが過剰反応しなくなっていたのです。
何もなかったように接してくれる他の友達に支えられ、今度は沈み込むことなく、なんとかその時期を乗り越えることができました。
また、その頃から、私はモヤモヤした気持ちを詩にして吐き出す事を始めました。
詩にすることで、モヤモヤを整理することができ、また前向きに持っていく事ができるような気がしたのです。
友達にも取り立てて言えない、家族には増して言うわけには行かない、でも、私にとっての真実を、こっそり隠せる場所ができたことは、とても助けになりました。
その習慣は自分が表と裏に別れなければ生きていけなかった時代中、ずっと続きました。

「裏」は、相変わらず部活動の場所を広げ、恋することをやめませんでした。
夢見ていたようにモテモテと言う訳には行かない事を悟ったものの、相変わらずのオトコ好きな振る舞いはやめられませんでした。
それがピークに達したのが、学生会に入ってからでした。
JWにとってのタブー、生徒会活動。
学生会は厳密には生徒会ではないのですが、それにほぼ足を突っ込み、良心などあってないようなものでした。
毎日男ばっかりの会室に入り浸り、下ネタ三昧。
付き合うまでは行かなかったものの、危ない橋を何度も渡りました。

そして学祭。
文化局で一緒になった、一目惚れしてしまった先輩に近づきたくて、その先輩のやっていたバンドのボーカルに立候補しました。
ロックなんて初めてで、大音量の中マイクに声が通らなくて、音楽を楽しむなんてほぼ不可能だったけど、それでも幸せでした。
学生会と、バンドと、さらに合唱部でも一緒だったので、
最初一目惚れしたときからレベルが違いすぎて付きあうなんてありえないと思い込んでいたのが、いつのまにか現実になってしまいました。
産まれて初めて、本気で好きになった人から好かれると言う体験に舞い上がり、
そしてこのとき初めてJWをやめてもいいかもと思いました。
JWが間違っていると確信があったわけではありませんでしたが、
人間がいかに環境に左右されるかを身をもって知り、JWに打ち込めばJWが正しいと感じるし、世にどっぷり浸かればJWが間違っていると感じるし、
ならば自分が幸せと感じるように生きたらいいじゃないか。と思った訳です。

☆高専時代2

ところが間抜けなもので、これもやっぱりバレてしまい、今度は私がゴネたので審理委員会一歩手前まで行きました。
この時点で、今まで模範的とみなされていた私の評価はガタ落ちしました。
集会で他の子に話しかけようもんなら長老の目線が飛んで来るし(笑)
でも、JWの友達やお姉さん姉妹たちが涙ながらに残ってほしい、ほんとにあなたが必要なんだと言ってくれるのを目にし、
また未成年の自分に親に逆らうことはやっぱり難しいと判断し、結局、別れたことにしてこっそり付き合いを続けることにしました。
が、そんなこそこそした付き合いは高校生にとっては辛く、ほぼ自然消滅的に別れることになりました。
あんなにお互い好きだったのに、恋愛ってこんなもんか…と、
恋愛にもJW人生にも嫌気がさしていました。

その頃、お兄ちゃんのように慕っていた男友達が、失恋をいたわってくれるかのような感じで、一緒に飲もうや(注:未成年です)と言ってきました。
恋愛大好きだった割りに世間に免疫のなかった私はひょいひょい付いていき、そしてそれが上辺だったことを知りました。
最後の一線こそ守ったものの、恋愛感情抜きの性的な触れ合いを知り、それに嫌悪感を感じるどころかのめりこみそうな自分に気づいて、人間としてもJWとしても根底から揺らいでゆくのを感じていました。

そんな、自分が何をやっているのかわからないような時間がしばらく過ぎた頃、会衆の中で一番気が合ったお姉さん姉妹が、自分の友達のJW宅へ旅行に連れて行ってくれました。
そこで目にしたのは、JW人生が楽しくてたまらなくて、毎日がエホバと旦那さんラブ!で生きている姉妹でした。
私もこんな風になりたい。
こんな人、JWにいたんだ。
私はそこで180度転換して、JWとして生きる事を決めました。
ある意味、その時点で私は1世だったと思います。
でも、家族ゆえに嫌々ながらとどまっている自分に、JWである意味が欲しいと願っていたからかもしれません。
ただ、そこで「裏」はできる限りやめよう、と思いました。
でも、ありきたりのJWになりたくはない。
キラキラ輝いて、どんな人でもそばに寄りたくなるような、そんな人になりたいからJWとして生きる。
一通り恋愛もして、長続きする友達もできて、自分がようやく世でもやっていけると言う自信がついたせいもありました。
本当に好きな、打ち込めるものもできていました。
合唱に、パグ。
笑われそうだけど、しんどかった時代に私を一番支えてくれたのは、大きなパグのぬいぐるみでした。そして、たくさんの愛らしいパグの写真達。
その二つは今でもずっと大好きです。
自己と言うものが確立された今、世でもやっていけるけど、JWでやっていく。そう思っていました。

そこからは、まず環境を変えようとしました。
世の中にどっぷりつかっていたら、また恋愛に行ってしまう。
だったら、早く世から抜け出せばいい。
…と、安易な考えですが、5年制だった高専を3年でやめることにしました。
これは今でも後悔しているようなしていないような…
その時点では本当に一生懸命だったから、その時の自分は嫌いじゃないですし。
詩もそんな事ばっかり書いてました。
あの時のキラキラオーラは本物だったと思います。

そして一年の休学期間を経た後、退学しました。

でも、休学期間に新たな疑問が湧いてきてもいました。
学校の友達も一生の友達だと感じるのに、壁を作らないといけなくなってきていた事に違和感を感じていました。
ハルマゲドンって、ほんとに正しいの??
私が高専で身につけたのは、
「みんな違って、みんないい」
事。
違いを認めること。
なのにエホバはハルマゲドンで自分の基準に合わない人を切り捨てると言う。
きっと、これはJWの解釈が違っているんだ。
ほんとはJWの教理って、あいまいなものなんだ。
エホバはいると思うけど、大切なのは精神であって、JWの基準じゃない。
善意から行動する人は全て神にとって貴重なはずだ。

ようやくそのことに気づきました。
でも、JWとして生きることで、創造主と両親への感謝を示したいと思っていたので、たとえJWが間違っていたとしても今の自分に影響はない。と、そのままJWとして生きる事を決めました。
ただ、この基準を他の人に押し付けることのないように、それだけは意識するようになりました。
自分が幸せな姿を見て、周りの人が、神が喜んでくれればそれでいい。
そう言う考え方になっていった事は、後になってJWを抜けた時にとても役立ちました。

こうして精神的に満たされ、JWとして順調街道を歩み始めたかに見えたのですが、第二の転換期が訪れます。

☆体調を崩す

第二の転換期はアトピーでした。

ストレスが原因。つまりは働きすぎ。
社会人として自立した上でJWを選択していると思い込んでいた私にとって、大きな衝撃でした。
そして、フリーターとしてJW人生を生きていくことの難しさを知りました。
無責任に大学進学をあきらめさせるやり方に正直腹が立ちました。
私はいいんです。あきらめた訳じゃないから。
でも、会衆の他の子がすごく長老から圧力を受けているのを見て、とても違和感を覚えました。

でも他の会衆はそうでもない様子。
そりゃ、色んな人がいるよね。
仕方ないさ、私は私なりにやってけばいい。
私は、私が納得したことしかやらない。

でも、そう思ったことで気づいてしまいました。
組織の独特な言い回しを。
絶好調だった時には見えなかったけど、
自分はできていないと思わせる真綿で締めるような言い回しを。

聖書に書いてないのに、なぜ強要するような言い方をするのか。

そのせいでうつ気味の母がもっと苦しんでいる。
そこまで考えなくていいのに。
でも、私はJWとしての立場からは何も言えない。
JWじゃなくたって、良い意図で出来る限り善行を積んでいる人は皆神の前に価値があると私は信じていたので、
「この組織、なんだかおかしい。」
と思いつつも、
一度自分が選んだ道をそう簡単に捨てることはできないと、しがみついていました。

でも、組織が弱いものの面倒を見ているようで実は全く見ていないことを知ったので、私は応戦に出るべく通信制の短大へ入ることにしました。
自分でなんとか自立の術をつかまなければと思ったので。
注解や伝道では独善的にならぬよう、また弱い立場の人を傷つけないよう配慮し、聖書に書いてあること以上は言わないように気をつけました。
そして、友達と過ごす時間を純粋に楽しむようにしました。

やがて更にショックな出来事が起こります。
一番の友達が排斥になりました。
理由は不道徳ですが、それよりショックだったのは、彼女が漏らした長老団や巡回監督への不満。
大会のインタビューで、経験を歪曲して話させられたこと。
牧羊で、見かけしか見てくれない、あきらかに決め付けたものの言い方。(彼女は牧羊の時点で不道徳を犯していなかったのに)

黒幕は分かっていました。
MTS出身の主催監督です。
確かに話はうまかったですが、聖書や出版物の言葉を自分流に捻じ曲げるし、人の好き嫌いは激しいし。
何より奥さんが最悪。
40過ぎてるのにキャピキャピしながら人の悪口や傷つける言葉を平気で吐く。
それも容姿や結婚に関することまで。お前、人のこといえるのかよって言う体型なのに(笑)
旦那は可愛いのか放任状態。
何度キレそうになったか分かりません。

ま、そんな人もいる。
仕方ない。人間だものね。
でも、これでますますはっきりしました。
JWだから救われる、なんて思ってるのは大間違い。
他の人を見下げるのも大間違い。
でも、そう言う考えをなんとか出そうとすると、ますますにらまれるのを感じていました。

それでもJWを離れようとは思っていませんでした。
一度宣言したことを変えるのは、周りにも自分にも失礼だと思ったから。
私のせいで迷惑をこうむっている人がいるならともかく、
私は正しく生きている。だから大丈夫。
なんとかそう思い続けていました。
でも、正直抜ける方法があればすぐにでも抜けられる状態でした。
目線はほぼ「世の人」だったと思います。
外から見て自分の行動がおかしくないか、そればかりずっと意識していましたから。

でも、元JWのサイトにはほぼ足を踏み入れませんでした。
というのは、その当時サイトにはかなり攻撃的なものが多く、なるほどと言うものもありましたが感情に流されて偏った見方をしている人が多いなぁと思い、
一度見たあとはJWにいる間中思い出すこともありませんでした。
抜けてから、やっと自分の気持ちの整理のためにのぞきはじめたくらいです。
もし抜けるなら、自分の見た事、感じた事にしっかり基づいて判断を下したい。人に影響されて決めたくない。
そう無意識に思っていたせいもあります。

そして、今の旦那に出会いました。
そこから先は一直線。

☆旦那との出会いから排斥まで

「世の人」「JW」と隔てる無意味さを感じていた私は、親に気を使って明言はしていなかったものの、高専時代の友人と付き合い続けていました。
ただ、自分が恋愛にのめりこみがちだと言うことは知っていたので、好きにならないよう気をつけてはいました。火遊びはしていましたが…

が、同窓会で、編入生という事情から同じクラスなのに今まで顔を合わせた事のなかった現旦那と出会います。
なんとなく、この人と結婚するなと思いました。そして告白されました。
友人が皆進学・就職していく中、JWとして生きていくなら自分にはこの先恋愛できる相手は恐らく現れないだろうと思っていました。
JWの中での結婚はよほど運がよくない限り無理だと思っていました。
こんな特殊な宗教観を持ち、体の弱い自分を経済的にも精神的にも支えられる、そんな相手はJWには恐らくいないだろう。
女の最後の意地で、この人にかけてみよう。

そう思って気を許したが最後、二ヶ月後には付き合っていました。JWを離れる事はその時点で決めていました。

しかし色々な問題がありました。
まず、アトピーが慢性化し、普通の社会人としての生活が不可能になっていたこと。
次に、そのような私を見て特に母が落ち込み、アトピー治療に多額の金銭をつぎ込んでいてくれたこと(早く治って開拓できたらいいねと言いながらです)
そして当時の私の職業、家庭教師の生徒の中に、JW家庭の子供が含まれていたこと。

以上のような事から、すぐに離れるのは無理でした。
まず体を治し、資金をため、そして言わなければ。
その間疑われないようにするためのアリバイも必要でした。

会う頻度や電話を減らせば恋愛はすぐ壊れてしまうと思っていましたし、おまけに遠距離恋愛だったので、電話はすぐにウィルコムに変えました。
そしてアトピー治療も兼ねて、自由に電話できるよう一人で九州へ湯治に向かいました。
良心上補助はもう無理だと思ったので、友達に便乗して一時的な必要の奉仕を申し込み、会衆のイベントに欠かさず参加するようにしました。
仕事を序々に変え、長時間、一日集中して働ける職場に移りました。
また離れて住む姉に協力してもらい、滞在口実を作ってはアリバイ作りに励みました。

その内にいわゆる不道徳も犯したわけですが、全く良心に痛みを覚えない自分に逆にびっくりしました。
好奇心やスムーズに離れるための口実作りと言う気持ちもありましたが、「愛し合う」と言う言葉がぴったりだと感動し、聖書の基準に沿っていなくても、これは必要な事だったんだと思えました。

こうして順調に見えたかのような計画的な裏表生活でしたが、半年ほど経った頃にまたバレてしまいます。
でも、もう引っ込みませんでした。
期待し、信頼して自由にさせてくれていた両親には本当に悪いと思いました。でも、それだけでした。
即座に長老、家庭教師先のJWの子供、仲の良かった姉妹たちに謝罪の手紙を書き、自分はもうJWとしてやっていけないことを伝えました。

審理委員会では、自分のしたこと、またそれが罪だと知っている事を淡々と述べました。
それでも神に対する良心は痛んでいないこと、親や友人を傷つけたことに関しては本当に申し訳なく思っていることを伝えました。

あっさりしたものでした。
黒幕長老が涙をこぼしたことにはびっくりしましたが、
ほんの10分ほどの話し合いの後、排斥が決定しました。

家族の辛そうな顔を見ているのが耐えられなくて、ひたすら仕事に打ち込みました。
母がうつ病になったりして、この頃が一番つらい時期でした。
旦那が近くに転勤してくれたのがまだ支えでした。

でも、両親はこんな事があっても、私を突き放すことはありませんでした。
確かに落ち込んでいましたが、私を愛せなくなった様子は全くありませんでした。
完全な孤独を予期していた私にとって、本当にありがたい事でした。
一緒に公の場で食事ができない、これだけは今も守っていますが、それ以外は今までと変わりませんでした。
一人暮らし、結婚、妊娠、そのたびに支えてくれ、小言を言いながらも、娘の幸せを願い、祝福してくれているのが伝わってきました。

どんなになっても親は親。
家族の絆より強いものはない。
JWとの教義とは異なる事実が真実だと、身をもって初めて実感しました。
私がほとんどトラウマなく離れられたのは、条件付ではない愛をふんだんに注いでくれていた両親のおかげです。
だからこそ旦那の気持ちも素直に信じられたし、子供を授かっても愛せると思えた。
本当に恵まれていると思います。





まだもやもやすることはあるけれど、とりあえず今が幸せだと言えるようになるまでの記録は以上です。
長文お付き合いいただきありがとうございました。