ずっと書こうと思っていて1年以上が過ぎた。今しか書けない(もうこの年齢になってもこんなことを書いている…)ことを書く。
竹澤汀(たけざわ みぎわ)、彼女のソロアルバム『身から出た唄』というに収録されている『ミッシェル』という曲を中心に論じる。
まず、竹澤汀とは、シンガーソングライターであり、Goosehouseというグループ出身である。Goosehouseについては、いまさら説明不要であろう。ユーチューバー的な活動を通して人気を博した音楽グループで、ソニー・ミュージックのPlayYou.Houseという(グループ)活動がその前身になる。素人さが魅力のひとつとも考えられている節があるが、個人的には、非常に素質ある実力派が揃っているグループだと思う。卒業メンバーには、関取花、神田莉緒香などがいる。現役のメンバーの一人でボーカルの竹渕慶の歌声は、ドリカムの吉田美和を彷彿とさせる現代版歌姫だ。そんな中で2017年にGoosehouseを卒業した竹澤汀もまた非凡な魅力を放つ。
竹澤汀は、現代版「渋谷系」の女子アーティストである。
若い人たちにとっては、「渋谷系」という言葉など、なんの意味も持たないかもしれないが、それでもあえて、竹澤汀を「渋谷系」という括りで語ろう。
「渋谷系」という言葉は1990年頃に流行った概念で、「ナヨっとした」特徴を帯びたファッション性の高いアーティスト達を指す都市型志向の音楽でありファッションムーブメントの総体であった。ORIGINAL LOVE、フリッパーズ・ギター(小沢健二、コーネリアスの小山田圭吾)、ピチカート・ファイヴ、カジヒデキ、L⇔Rなどに代表されるジャンルであり、今日、この流れを汲む人を挙げるなら、中田ヤスタカまでをも包摂できるかもしれない。
渋谷系が人気を博した時代背景には、女性が社会的・日常的・性的に「強く」なり始めたことがある。このような女性の積極化の流れに比すると、「渋谷系」とは男性の在り方のアンチテーゼであったとも解釈できる。その証拠に、渋谷系ミュージシャンの特徴は、「オタク」や「草食系男子」のイメージと整合する。それまでのロックンロールやハードロック、国内におけるバンドブームなどが終焉を迎え発生した一派が、「渋谷系」であったと一般的には説明されるようだが、これが意味するところは、古典的な肉体的マッチョな男性像の終焉だったのだともいえよう。
さて、このように考えると「渋谷系」とは、本来は「男性」を形容するための独占的な言葉ではなかったのだが、実際には、小沢健二らに形付けられた「ひょろっとした、ひ弱で頭でっかちな音楽の志向」という印象が強く、「草食系男子」が奏でる音楽である事に気づくだろう。と言うのも、この時代の渋谷系の「女子」といえば、「ガングロ」「アムラー」「ブルセラ」に代表されるイメージが想起するように、女性たちは自由かつ肉食的パワフルに渋谷センター街を練り歩いていたからだ。明らかに、渋谷系「男子」と異なる印象を放っていた。こう考えると、渋谷系「男子」と「女子」は対極関係にあったともいえる。
何が言いたいのかというと、ここで、竹澤汀を渋谷系「女子」アーティストと形容した時に、そのニュアンスが正しく伝わるのだろうかという疑念である。少なくとも、アムラー的な渋谷系女子と例えたいのではない。むろん渋谷系がすべて「男子」であったわけではなく、ピチカート・ファイヴの野宮真貴は「女子」であった。しかし野宮真貴のイメージは、中田ヤスタカつながりで言えば、Capsuleの「こしじまとしこ」や彼がプロデュースするグループ「Perfume」の3人に近い印象だ。つまり、渋谷系の女子アーティストと言ってしまうと、間違った印象を与えかねない。
私が伝えたい渋谷系女子アーティスト像とは、当時の男性にあったイメージの女性バージョン、すなわち、ナヨっとした「女子」であり、渋谷系を正しく再解釈した上での「草食系女子」のようなアーティストということになる。(古典的な女性的フェミニンさと一線を画する点に注意されたい。)これが、竹澤汀というアーティストなのである。
ちなみに、竹澤汀は、小沢健二と小山田圭吾が通った和光中学の系列の和光大学を卒業している。大学では美術を勉強していたらしい。「和光中学・大学」つながりだけを根拠に「渋谷系」に括りたくはないが、見逃せない事実であることも付け加えておく。
『ミッシェル』とは「並行世界」の「幽霊」であり、竹澤汀は、その「片割れ時」を歌い上げている。
では本題に入る。竹澤汀が歌う『ミッシェル』という曲は、2枚目のソロアルバム『身から出た唄』の2曲目に収録されている。この曲の魅力は、まず垢抜けたリズムにある。汀サウンドは、全体的にアコギ1本での弾き語りで、良くも悪くも「暗い」印象が多い中、この曲はアップテンポで明るいイメージを醸し出している。歌い上げる音域も高めを狙っており、本人的にはすこし背伸びして出す霞む声が、とても清々しい。で、その背伸びする姿勢が、自分の閉じ込められた殻を破るかのような演出となり、この曲の歌詞の世界観とマッチする。
歌詞を要約すると「旅にでたい、ニューヨークに行きたい、狭い世界を飛び出したい、このままでは私は真っ黒な空が降ってきて…マインドコントロールされてしまう、ねえミッシェル、ここから(私を)助け出して…」という主人公の叫びとなる。実際に竹澤汀氏が大学時代にNY旅行に行ったことがベースとなっているとか、ミッシェルとは一体誰なのか、そういった真偽はともかくとして、この唄の魅力は、軽快なリズムに乗って繰り広げられる本人の単なる「叫び」だけでなく、その域を脱した「並行する世界」の「幽霊」という世界観を予感させるメッセージ性にあるのだ。
では、「並行する世界」とは何か。これは、最近の流行りのテーマで、大ヒット映画、新海誠監督の『君の名は』の中でも中心的に描かれている。主人公の瀧くんと三葉が過ごした時間は3年間のズレのある「並行する世界」であった。また渋谷系つながりで言えば、2016年に久々のシングルをリリースした小沢健二の『流動体について』も、「並行世界」を歌っている。リアルライフで小沢健二がNYへ行き、NYから羽田に戻った東京の風景と心境の変化を歌っている。歌詞にあるように、「もしも間違いに気がつくことができなかったのなら、並行する世界の僕は、どこらへんで暮らしているのかな」となる。
さて、我々は、日々の生活の中で、様々な 選択と決断をしながら生きているわけである。ある事を選べば、別の事が選択が出来なくなる。また、ある事を選んだけど本当は別の事がしたかったと後悔することもある。私のように年齢を重ねると、「もしも、あの時・・・」などと特定の事柄について想像してみるだけで、涙が溢れることもしばしある。このように、「並行する世界」とは、我々が選択しなかった方の世界、ということなのだ。
では、「幽霊」はというと、その選択しなかった方の世界を生きる人や自分なのだ。「幽霊」は我々の想像する世界に出現する。それはイマジナリーの物でありながらも、多くの時に、現実を生きる我々の思考に影響を与える。なぜなら、幽霊は我々が現実に選択しなかった世界を生きていたはずのリアリティであるからである。「幽霊」とは、現実世界をつきまとっているのだ(東浩紀のデリダ的「幽霊」)。
この幽霊は、普段は、個人の想像の世界の中にだけ、一過性的に出現するので、現実には見えないし、他の人に見えないものである。しかし、それがエクリチュール、つまり書記言語化されると、自己の中の幽霊が「他者」に認識され、他者に対しても反復的に幽霊が出現(再解釈)されうることになる。
これを、ある種の文学性/芸術性とするならば、竹澤汀の『ミッシェル』は、繊細なまでに自身の葛藤の幽霊化に成功しているだろう。この曲で描かれる主人公は、今まさに、選択すべき事(ニューヨークに行きたいという事)に直面し、なかなか一歩が踏み出せずいる状況において、すでにその選択肢の側を生きているミッシェル(並行する世界の幽霊)に助けを求めるという設定である。これが表現的に優れている点は、一般的に我々がよくやるように、過ぎ去った過去を回顧するのではなく、未来の世界の自分(の幽霊)に助けを求めるという点だ。ナイーブな未来志向とそのポジティブが魅力なのだと思う。これが、私的に考える「渋谷系」の底力でもある。
新海誠監督の『君の名は』の中で、三葉から見えた瀧くんは、並行世界を生きる幽霊であった。そして2人が唯一が現実で出会えた瞬間は「片割れ時(黄昏時)」でしかなかった。このパワフルなモーメントこそが、未来の幽霊との現実との接点を創り出す瞬間である。竹澤汀の『ミッシェル』は、まさにこの「片割れ時」を呼び出せる唄なのである。この曲を聴いている者に、未来の自分(幽霊)とのコミュニケーションを実現してくれるのだ。 少なくとも、私はこの曲をききながら未来の自分との対話をすることができた。
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旅に出るんだ
自由に見えた君だって きっと楽だったわけじゃない
目を閉じたなら
いつでもそこにはニューヨークの朝が来る
真っ黒な空が降ってきて 私を染めてしまう前に
乗っ取られそうな心
マインドコントロールに終止符を
狭い世界を飛び出して やるせない夜が来たとしても
千のわがままみ一つの残らず したがって
ねえミッシェル ここから助け出して欲しい
ねえ君のめちゃくちゃな色で今すぐに
竹澤汀『ミッシェル』より
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2017年8月20日
山岡洋一先生のお墓参りに行かねばと考えながら…
山田優

