6月9日にアジサイ観賞に訪れました千葉県成田市にあります「宗吾霊堂」。同寺では6月4日から25日までの間、「紫陽花まつり」が開催中で私も訪れたところです。

そしてこの寺院、「宗吾霊堂」という名称で知られていますが正式な名称は真言宗豊山派「東勝寺」。開創年代等については不詳ですが寺伝によれば桓武天皇の勅命により坂上田村麻呂が創建したとされているそうです。その後、同寺は度々の火災に見舞われ場所を転々としていたのですが、1622年に澄祐により現在の場所にて再興されたそうです。

しかしそれだけでは全国津々浦々にある真言宗豊山派の寺院となんら変わらず、本来であれば御本尊は大日如来及び真言宗の宗祖である空海(弘法大師)ということになるのですが、ただ一つ異なるのはこのお寺は実は義民・佐倉惣五郎が祀られていることから「東勝寺」ではなく「宗吾霊堂」としてその名は知れ渡り、また千葉県内における初詣の寺社として多くの参拝客を集めています。では義民・佐倉惣五郎とはどのようなお方であったのでしょうか。少し長い説明となりますが御一読頂ければ幸いに存じます。佐倉惣五郎(若しくは佐倉宗吾)の本名は木内惣五郎。名字・帯刀を許された佐倉領公津(現成田市台方)に住む名主でありました。そしてこの後、とある経緯を経て“「義民」と言えば佐倉惣五郎”と言われるほどの日本を代表する「義民」となるのですが、死後、惣五郎は「東勝寺」に祀られ寺院の名称自体も「宗吾霊堂」と呼ばれるようになりました。佐倉惣五郎から佐倉宗吾へと称されるその所以は住まいが佐倉藩領内佐倉城下の住人であったことと、後に己の失政を悔いた領主(藩主・堀田正信公)が“宗吾”と追諡(ついし)したことでその名が定着します。時は江戸時代の初頭、寛永から承応年間(1624~1655年)の出来事。殆どの期間、藩主は江戸在府のため国許を空けていたことから佐倉藩国家老による暴政と藩が繰り出す重税により領民たちの苦しみは極限に達し、そのため領民たちは他国領に逃れる者、路上にて餓死する者もあらわれ文字通り地獄絵の様相を呈するに至り、遂には百姓一揆も起こりました。この時、割元名主(同じ領主を持つ村全体を統括する名主のこと)であった惣五郎はこの窮状を何とかすべく領内の各名主らと相談。そのため先ずは地元の佐倉代官屋敷に、そこで埒があかぬため佐倉藩重役に減税の願いを出すのですがそれも相手にされず、それではと江戸に上り領主である堀田正信公上屋敷を訪れるのですが役人に追い返されます。そのため意を決して4代将軍、徳川家綱公の将軍家側用人・久世大和守広之公(後に下総国関宿藩主)に駕籠訴を行います。久世広之公は領民が重税に喘いでいることを理解はしたものの“佐倉藩領内の事に余は関与出来ず”として駕籠訴で提出された願書は7日後に差し戻されてしまったのです。しかし広之公は慈悲の方。当時は駕籠に居るお役人に対する直訴=駕籠訴は重罪であったにも関わらず広之公は惣五郎の所作を不問とします。久世大和守公への駕籠訴も実らなかったため、万策尽きた惣五郎は最後の手段として将軍家への直訴を決意したのですが、妻子に類が及んでは不憫であると承応元年(1652年)12月10日、この日は江戸表も大雪だったのですが江戸を立ち佐倉に戻ります。しかし惣五郎が江戸に出て久世広之公に駕籠訴をされた事実は国許の佐倉藩にも伝えられており、面目丸潰れの佐倉藩では惣五郎を捕縛すべく待ち構えます。江戸から佐倉に戻る道は現在の国道51号線「佐倉街道」が主要街道なのですが危険を察知していた惣五郎は裏街道である現在の国道464号線を利用。しかしこの街道を通ると惣五郎の自宅がありました公津近くには北総台地を東西に分けている印旛沼が広がっており、舟運がなければここを渡ることは出来ません。ですが惣五郎の帰宅を捕縛せんと憤っていた佐倉藩士は今か今かと惣五郎の帰りを待ちわび主要道の佐倉街道の監視を強めると共に、万一の裏街道利用も警戒。そのため渡し船を鎖でつないでしまい出航出来ないようにしました。しかしこの時渡し船の船頭、甚兵衛は惣五郎が印旛沼の袂に辿り着いた際に自分が罪に問われることを辞さず鎖を断ち切り渡し船を漕ぎいで、惣五郎を妻子の下に届けます。余談ですが甚兵衛が鎖を断ち切り渡し船を漕ぎいでたこの区間は今では前述の国道464号線「甚兵衛大橋」として印旛沼を挟み東西に分かれている北総地域を結ぶ重要な橋となっています。そしてこの後居宅に戻った惣五郎は家族に罪を及ぼさぬため妻に離縁状を、4人の子供達には勘当状を残し今生の別れの言葉を交わし雪の中を再び江戸へと、とって帰ります。承応元年12月20日、惣五郎は上野東叡山寛永寺に参拝に来た4代将軍・家綱公に直訴を決行。願書を受け入れた将軍は直ぐに佐倉藩主に命じ、漸く佐倉藩の領民は塗炭(とたん)の苦しみから救われたのでした。しかし将軍への直訴など天下の大罪、「直訴の罪」なる罪名で惣五郎は捉えられ佐倉藩に引き渡されます。藩内では一応取り調べはするものの、江戸在府の藩主に代わり藩を預かる国家老は自藩の内情を将軍様に告げ口されたことで怒り心頭、最初っから断罪に処すると決めておりその取り調べが形ばかりであったことは自明、さらには惣五郎の子孫を残さなくするため、勘当されたはずの4人の子供までもが捉えられ裁きを受けるのです。結果、惣五郎は磔の刑、4人の子供は打ち首の刑とされ承応2年(1653年)8月3日、公津ヶ原の刑場で執行されたのでした。なお刑の執行にあたり、子供4人の打ち首は惣五郎の血統を残さぬためであり、一番上の子供は男の子であったのですが、下3人は女の子。しかし女の子では“惣五郎の直接の血統を残させないため”では理由になりません。そのため佐倉藩内取り調べ処では惣五郎一家の戸籍に記載されている下3人の子供の性別をわざわざ男子に書き換えての執行だったのです。しかし処刑の際の惣五郎、自分は死ぬことになろうとも、身を賭して成し得た直訴により領民が救われたことを喜び感じ柔和な笑みを浮かべ磔にされ、矢で刺されたと記録にあります。そして公津ヶ原の刑場こそ、現に「宗吾霊堂」山門前にある佐倉宗吾父子のお墓となっているのでした。なお以上の説明は「宗吾霊堂」本堂内にて置かれている説明文を基に加筆したものでして、“もっと詳細に、わかり易く”ということであればやはりwiki様から説明して頂く方が宜しいのかも知れませんので一応、リンクさせて頂きます。

以下、「宗吾霊堂」とその周辺、さらに佐倉惣五郎の直訴の決意から刑死に至る一連の流れを等身大の人形66体と13の場面で再現されたジオラマ館「宗吾御一代記館」等も見学しましたので以下、綴りたく思います。

 

国道464号線に面した入り口に立つ三門 厄除け祈願のお寺としても知られています。また右側には“義民・宗吾様の菩提寺”とも書かれている通り、こちらは弘法大師を敬うというよりも佐倉惣五郎を祀るお寺としての性格がより強い寺院なのです。

三門から仁王門へと続く参道 この時間帯はまだ早かった(と言っても9時は過ぎていましたが)ので開店していませんでした。“参拝記念”的なお土産などが販売されていました。また右側にこんもりとした樹木が見えているところは…

そしてこここそが惣五郎及び4人の子供が埋葬されている墓所。承応2年(1653年)8月3日、まさにこの場所で惣五郎並びに子供4名に対する極刑が執行されたのです。「宗吾霊堂」と呼ばれる前の「東勝寺」、創建は古いながらも場所は近隣を転々としていましてこの地に移転してきたのが寛文2年(1662年)のこと。これ即ち惣五郎が処刑された9年後の事でして、当時ここには「公津ヶ原刑場」があっのです。惣五郎処刑から己の失政を悔いた佐倉藩主・堀田正信は木内惣五郎を悔やみ宗吾と追諡(ついし)し、ここに移転してきた「東勝寺」は惣五郎を祀る「宗吾霊堂」と相成ったのでした。

説明にある通り、ここに埋葬されているのは「公津ヶ原刑場」があったこの場所で刑を執行された惣五郎及び4人の子供たち。そう、ここには惣五郎の妻は埋葬されていないのです。リンクさせて頂きましたwiki様に記載されている内容や他の文献などには妻も一緒に処刑された、とあるものが殆どなのですが、刑死した子供4人を含む5体の御遺体が埋葬され、後に「宗吾霊堂」となった「東勝寺」による寺伝によれば妻は処刑されておりません。年端も行かぬ子ども4人が打ち首になりながら、大人である妻がなぜ処刑されなかったのかと言うと、まず子供を処刑したのは惣五郎の血筋を消し去るためであったこと。そして惣五郎から離縁状を渡されたにも関わらずこれに応ぜず気丈に振舞ったことで刑を減刑されたと伝えられています。なお惣五郎には処刑された4人以外に女のお子さんが二人いて、既に現在の茨城県稲敷郡に嫁いでいたため受難を免れ、父と幼い弟妹が処刑されたことを知った既に嫁いでいた娘の一人は離縁し公津に戻り、後に養子を迎えその方から現在に至るまで、惣五郎直系の血筋ではなくなったのですが代々、木内惣五郎家は続いているのです。佐倉惣五郎の家を継がれている方は現在17代目の方で御自宅はここから2㎞ほど離れた場所に実際にお住まいの方。家人の方にお願いすれば惣五郎の御位牌も礼拝させて頂けるそうです。

仁王門 惣五郎の325年忌の記念事業として昭和53年(1978年)に完成したものです。

両脇に居る二王尊は身の丈8尺8寸。鋳造され金箔を施された国内唯一の「金色仁王尊」とのことです。

仁王門を潜ると本堂が見えて参りました。

こちらが本堂 大正10年(1921年)に再建されたもので既に100年を経ましたので文化的価値も備わってきました。

こちらは宗吾霊350年祭記念事業により建立された奥の院。平成14年(2002年)創建ですのでまだ新しいです。

そして「宗吾御一代記館」開館は昭和42年(1967年) 等身大人形66体が、13の場面ごとに配されています。

入館料は700円ですが私はJAF割で500円で入館出来ました。また惣五郎に纏わる諸々が飾られています霊宝殿もこの入館券で入館できます。なお中でも、惣五郎の存在と持高を証明する名寄帳、惣五郎着用の袴と妻が使用していた鏡、惣五郎と子供4人の法号を記した過去帳など、貴重な資料なども修蔵されているようですがこちらは残念ながら一般公開はされていません。また350年祭記念事業の折、当時の首相でありました小泉純一郎元首相、地元・千葉県佐倉市(正確には印旛郡臼井町、後に佐倉市に併合)御出身の長島茂雄・読売巨人軍永久名誉監督など各界の著名人の方々から寄贈された「義」の一文字を書いた色紙等が現在展示されています。

それでは「宗吾御一代記館」、13場面の解説をさせて頂きます。こちらは領民に重税を課しながら酒席等で連日連夜に好き放題している佐倉藩国家老たちの放蕩の様子を描いたジオラマ(以下3枚同)当時の佐倉藩主・堀田正信公は慶安4年(1651年)、弱冠20歳で先代、正盛公の跡を継ぎ藩主となりました。因みに父、正盛公は3代将軍・徳川家光公が逝去したことで殉死したため急な藩主交代となったのです。また江戸勤めが多く、そのため実際の国の政治(まつりごと)は国家老の池浦主計(いけうらかずえ)が行っていました。しかし領主の留守をいいことに私利私欲に耽り奸臣らと共に連日連夜、贅沢三昧の限りを尽くし重税に苦しむ領民の困窮には顧みない日々が続いていたのです。

そこで、割元名主でありました木内惣五郎は困窮する領民の実情を書面にて佐倉藩にしたためます。が却下に…

こちらは辛酸をなめ尽くす当時の領民の暮らしの様子のジオラマ。他国領に逃れる者後を絶たず、しかし当てのない者は領内に留まらざるを得ず、路上で餓死する者なども現れる程の困窮ぶりだったそうです。

日増しに困窮する生活に耐えられない農民たちは佐倉藩に歎願を続けるものの、国家老と奸臣らによる悪政が改められることはなく、そのためいきりたった農民たちが結集し百姓一揆を起こそうとするも、急を聞きつけそこに参った惣五郎は代表者を選び藩に歎願することを説き百姓一揆を未然に防ぐのです。左端に居る、両手を広げている方が名字帯刀を許された割元名主の佐倉惣五郎、その人です。

しかし国許の佐倉藩にいくら歎願しようとも国家老と奸臣たちは己の贅沢三昧を改めることは全くありませんでした。そのため直接、藩内領民の窮状を藩主に伝えるべく惣五郎の他、佐倉藩内領民の名主たち5名が佐倉藩江戸屋敷を訪れ減免願いの門訴をしましたが藩邸内にすら入れて貰えず門前にて却下のジオラマです。

江戸藩邸を訪れ藩主に直接、願いを聞き入れてもらおうとしたものの門訴すら退けられた6名は更なる詮議を重ねます。

そして遂には当時、とても聡明・叡智を謳われていました将軍家側用人の久世大和守の登城を待ち受け願書を差し出します。しかし“佐倉藩内の事は佐倉藩内で”と筋道が異なるとしてこの願書も差し戻されます。しかし久世大和守の温情で「駕籠訴」は不問に。ですが願書が聞き入れられなかったことで領内の困窮改善は見込めず、万策尽きた惣五郎は最後の手段として将軍家への直訴を密かに決意するのでした。

将軍家への直訴を企てた惣五郎はこの時既に受刑(将軍への直訴は大罪で極刑を覚悟)を覚悟。しかしこのまま直訴を行ったのでは領内に残してきた妻子にも類が及ぶと危惧した惣五郎は一旦、領内に戻ることを決意します。しかし惣五郎ら6名の名主が佐倉藩江戸屋敷や、将軍側用人の久世大和守にまで願書を提出したことを国許の国家老らが知らぬことはなく、領内に戻ったところを捕縛しようと惣五郎の帰還を待ちます。江戸と佐倉とを行き来するには現在の国道51号線「佐倉街道」が使われることが普通なのですが、直訴を企て家族と離縁をするために一時的に領内に戻らんとする惣五郎、自身が国許の佐倉藩士に捉えられることを意識していたため敢えて主要道の「佐倉街道」ではなく、裏街道でありました現在の国道464号線のルートを歩きます。しかしこの裏街道を通った場合、どうしても印旛沼を通らなくてはならず、普段であれば両岸を繋ぐ渡し船が運航されているのですが、惣五郎の戻りを待つ国家老らは「佐倉街道」の監視を強めると共に、渡し船を利用させぬため鎖でつないでしまったのです。しかしこの渡し船を漕いでいる甚兵衛、罪人の惣五郎の往来に手を貸したとなれば自身も罪に問われることを承知の上で渡し船の鎖を断ち、惣五郎を対岸の公津(現在の成田市台方)まで届けました。この時の惣五郎と甚兵衛(左側の人物)の様子を再現したジオラマです。

折からの大雪と強風で湖面が大きく揺れる夜も深まったころ、甚兵衛は船を出し惣五郎を対岸まで運びます。

自宅に戻った惣五郎は妻と4人の子供を集め、これから起こるであろうことを説き、妻には離縁状を、子供達には勘当状を渡すも惣五郎の妻で、子でありたいと泣いて聞かず…

雪がしんしんとと降る真夜中、甚兵衛はもう二度とこの家には戻れぬとの覚悟をし家を出ます。追いすがる長男、この時12歳。

妻と、年端も行かぬ3人の子供は紛れもなき女の子。しかし後に惣五郎の罪を断じるに際し、惣五郎の直系血族を残すわけではない女の子までも死罪にするために戸籍をわざわざ「男子」に書き換えた上で極刑を執行したのでした。

そして再び江戸に舞い戻った惣五郎は遂に承応元年(1652年)12月10日、上野東叡山寛永寺に参拝に来たところの徳川4代将軍・家綱公に願書を出すことが成就、その時の口上は“恐れながら、佐倉領百姓総代名主・惣五郎、お願い申し上げます”と必死になり願書を差し出したそうです。この時、惣五郎が提出した願書は家綱公に付き添っていた後見役の保科正之公によりお取り扱いが図られたそう。保科正之公は初代の会津藩主ですから福島県を第2の故郷とする私にとりましてもとても大切なお方。2代将軍・徳川秀忠公の庶子(側室の子供)。秀忠公は大変な恐妻家で側室に子供を産ませたこと等が正室に露見したら大変なことになると恐れ、生まれたばかりの正之公を信州・高遠藩に預けます。ですので3代将軍家光公と保科正之公とは異母兄弟。そして正之公はとても聡明・叡智な方でありながら常に一歩下がって家光公に仕えていたため家光公からの信頼もとても厚く、その後の4代将軍・家綱公にも使えたお方。惣五郎が願書を以て願い出た時、正之公が帯同されていましたことが本当に良かったことだと思ったものです(例えば他の役人であれば将軍様への直訴などまかりならん、として訴えは聞き入れられず罪のみを問われてしまった可能性すらありました)なお、保科正之公は徳川将軍家への義理が大層篤く、“徳川将軍家には忠誠を尽くせ”とする「遺訓」を残しており、この遺訓が幕末の藩主・松平容保公の行動を縛る(後の15代将軍・徳川慶喜公(当時は将軍後見職)の“京都守護職を任ずる”を断ろうとしたところ、慶喜公から“会津藩祖、正之公の遺訓に背くのか”と糺されやむなく…これは1862年の事ですから正之公がこの場で惣五郎の願書を受領した210年後の時代になります)ことになるのはやるせない気持ちにもなります。しかし會津は惣五郎と同じく「義」を持ち続けた藩でもあり相通ずることを感じた私はとても嬉しく、誇らしく感じました。

4代将軍・家綱公に願書を聞き入れられ、幕閣から佐倉藩主・堀田正信公に領民の窮状を改めよとの命が下され漸く今で言うところの“二重課税”のような徴税が改められ、領民の暮らしは回復に向かうのです。そしてここまで佐倉藩領民の暮らし向きが悪くなったのは慶安4年(1651年)、弱冠20歳の正信公が藩主に就き、以降、殆どを江戸滞在としたことから国家老の池浦主計ら奸臣に好き放題にされた時から。最終的に惣五郎が将軍綱吉に直訴の願書を出せたのが承応元年(1652年)12月20日でしたが公が藩主に就任される前からも先の藩主・正盛公も江戸在府が多く、国許の政治は国家老に任せていましたから領民は重税に喘いでいたようです。それまでも何度も領民を宥め、なんとか税の軽減を求める等尽力していた惣五郎でしたが国を捨てる者、餓死する者多発の困窮と、これに対する藩の改めは全くなされず、意を決して領内の名主と共に将軍側用人であった久世大和守までに直訴をせざるを得なかったのが惣五郎の晩年のこと。目を覆いたくなる程の領民の窮状と放蕩三昧を尽くしていた佐倉藩内重鎮の姿が重なっていたのでした。その後、直訴の罪で捕らえられた惣五郎。将軍直訴は天下の大罪であるため自身の刑死は覚悟の上の行動だったのですが、その類を及ぼさぬために妻に離縁状を、子供には勘当状を出したにも関わらずこれを拒んだ妻子たち…。しかし刑を受けたのは惣五郎と4人の子供たち。妻は罪を免ぜられ、4人の子供たちは惣五郎の血統を残させぬための斬首の罪に。“惣五郎の血統”ということであれば下3人の女の子は断罪される必要がないにも関わらず、惣五郎の一族がこの後も世に残り続けることを恐れた佐倉藩国家老らは、わざわざ戸籍を「男子」に書き換えた上で極刑を執行したのでした。こちらは刑執行直前の惣五郎と子供たち5人の様子。ここは公津ヶ原刑場で、現在の「宗吾霊堂」仁王門手前にありますお墓があります場所だったのでした。刑を執行された時の惣五郎、享年42歳の生涯を閉じられたのです。執行時、刑場を取り囲んでいた領民からは泣き悲しむ人々の声、念仏が潮のように刑場に満ちていたそうです。

こちらは供養の踊りを表す13景目、最後のジオラマです。惣五郎の直訴から殿中評定の結果、“佐倉藩の政治は甚だ宜しからず”と断ぜられ、年貢米の割増や新規の諸税は廃止せよとの指示が下され領民の暮らし向きは回復します。佐倉藩領民らは惣五郎への大恩を忘れることはなく、刑が執行された忌日には墓前に集まり供養の御霊踊りを奉納し惣五郎の徳を称え追慕する習わしが今日に至るまで続いているのです。後に区切りの忌日には、佐倉藩主の堀田家から惣五郎改め宗吾の子孫に対し数々の施しを行っています。しかし私が不思議でならないのは、江戸在府の若き藩主はやむなしとして、藩主不在をいいことに放蕩三昧と贅沢の限りを尽くし領民には重税を課していた国家老や奸臣らはどのような罰を受けたのか、についての資料がないことが残念です。“佐倉藩の政治は甚だ宜しからず”と断じることが出来るのは将軍や幕閣らにしか出来ないことで、かような江戸幕府最高に近い幹部等からお咎めを受けたにも関わらず国家老が処罰されないということは考えにくい。当時の佐倉藩への処罰がどのようなものであったのか、これから少しずつ調べて行きたいと思いました。なお代々の佐倉藩主である堀田家は譜代大名として幕末期には「老中首座」をも務めた名家であり聡明な大名家であったものと信じています。なお惣五郎将軍直訴後の藩主・堀田正信公はその後、国許佐倉に無断で戻るなど幕法違反を問われ藩主をはく奪された上、身柄を地方大名に預けられ、しかし預入された地方でも問題を起こし地方を転々としていたそうです。後に4代将軍・家綱逝去の報を聞き殉死。これは父、正盛公が3代将軍・家光公の逝去により殉死したことと同じ道を歩むこととなりましたが名君であった父と比較し自身は藩主の座を追われ、父を越えられなかった内心の葛藤など、鬱屈した心理的な要因も感じられる殉死だったのでは、と感じました。

「宗吾霊堂」内には幾つもの石碑があるのですが、これなどは惣五郎と刑死した子供たちを今なお敬う句でもあります。

~人の世の 情を知るや佐倉の地 親子の絆 語り継がれし~

そして木内惣五郎の直訴に至るまでの経緯を取り上げた姿は「義民・佐倉惣五郎」として江戸の時代から現代に至りましても歌舞伎界では何度も繰り返し公演されているそうで、佐倉惣五郎を演じた歌舞伎役者さんらがこうして上演記念のお札を奉納されているのです。

なお今回、木内惣五郎の働きを解説させて頂きましたことに際し、本来であれば“惣五郎公”と「公」を付けて表記すべきところ、全て敬称を略させて頂きましたが、「義民・佐倉惣五郎」公、本当に素晴らしい方でありますことを改めてお伝えさせて頂きます。また今回のblogでは絵文字や私の第一人称を表す言葉などは一切、封印しましたことを申し添えます。

【おまけ】

境内には、今では街中で見かけることが少なくなりました緑色の公衆電話がありました。

三門脇の乾物などを扱っていた売店ではどじょうが売られていました。100g400円。「どぜう鍋」暫く、食べてないなぁ。