「腰の遊び時間」に慣れてきた頃、今度は「身体の声を聞く」という新しいエクササイズが渡された。


まず、部屋の中を走り回る。合図が入ると、パッとその場に立ち止まる。

止まったその瞬間から、エクササイズの本番が始まる。


静止した身体の内側で、何かがざわめくのを感じ、耳を澄ます――自分の身体が次に何をしたいのかを、聞くのだ。


この部屋のどこにいたい? 真ん中? それとも壁際? 身体はどこへ向かいたい?

どこかの筋肉がじわっと動き出したり、無意識に重心が移動したりする。

その微細な感覚を信じて任せてみると、気づかないうちに腕を揺らしていたり、足が跳ねるような動きをしたくなったりする。

まるで子どもが夢中になって遊ぶような無邪気さで、身体がやりたいことをどんどん試していく。


大事なのは、自分の判断を一度脇に置くこと。

「この動きは変じゃないか」「人からどう見えるか」なんていう思考は、この時間には必要ない。

むしろ、そうした判断が顔を出した瞬間に、身体の自由は急に鈍ってしまう。

「違うな」と感じたらすぐにやめて、また新しい欲求を探す。


時には、「えっ、今そんな動きしたいの?」と、自分でも驚くような瞬間が訪れることもある。

奇妙な形で腕を動かしたくなったり、大きな声で吠えたくなったりもする。

頭では「意味不明」と思っても、実際にやってみると、なぜか身体は「ああ、これだった」と満たされていく。


馬に乗っている感覚に、少し似ているかもしれない。(馬に乗ったことはないけれど)

もちろん、手綱は自分でしっかり握っている。だから怪我をしたり、誰かを傷つけたりすることはない。

でも、それ以外の部分では、身体という馬がのびのびと走るのを見守り、共に風を感じるような快感がある。


このエクササイズでは、他者との関わりは基本的にない。誰かと話すことも、触れることもない。

けれど、それでも、他の人の動きや息づかいが、確かに空間の中にある。

ある人の動きに引きずられるように、自分の身体の欲求の方向が変わることもある。

誰かの踏んだ床の音や、風を切るような手の動きに、身体の内部がざわつき、別の動きを誘われる瞬間がある。


頭の声は「もう身体がやりたいことなんてないよ」と思っていても、身体はおそらく、永遠にやりたいことを探究し続けるだろう。

わたしたちが生きている限り、感覚もまた生きていて、絶えず反応し続けているからだ。


舞台を観ていて、「あの人、なんだか活き活きしてるなぁ」と感じることがある。

それは、演技の上手い下手というよりも、その人の身体が、その瞬間の衝動に嘘なく乗っていればいるほど、観客はそれを敏感に察知し、どこかで惹かれてしまうのだ。


演出家に「もっと活き活きと演じてくれ!」と怒鳴られたことのある俳優は、少なくないと思う。

だが、その“活き活き”は、気合いやテンションの問題ではない。

むしろもっと根本的な、身体が衝動に正直に反応できるかどうか、ということなのだと思う。

だとしたら、その“活き活き”とした身体は、訓練によって培うことができる。

もちろん、一日でお手軽簡単にできるようになるようなものではないけれど。

頑張って“活き活き”と見せようとするのではなく、自然とあふれ出してくるように自分でコントロールできる技術なのだ。


わたしたちが日々見過ごしている「身体」というもうひとつの言語。

「身体の声を聞く」エクササイズは、その言語を思い出し、静かに対話を始めるための、大切なひとときだ。