うつむいて、ゆっくりと歩いている人を見かけたら、

その人はきっと、落ち込んでいるのだろうと私たちは思う。

逆に、背筋を伸ばして軽やかに歩いている人を見れば、きっと気分が良いのだろう、何か嬉しいことがあったのかもしれない、と想像する。


言葉を交わさずとも、歩き方や姿勢からその人の「物語」を読み取ろうとするのが私たちだ。


その印象を形づくる大きな要素の一つが、「リズム」である。


同じ行動でも、リズム――動きの速さや間の取り方――が変わるだけで、観客が受け取る感情や物語は大きく変わってくる。


演技の上達には、「リズムを自在に扱えること」がひとつの大きな鍵になる。だからこそ、リズムに関するトレーニングは俳優には欠かせない。


研修所の中心的な授業「声と演技」では、よく空間の中を歩いた。

歩く速さを通常の2倍、4倍、あるいは半分、4分の1に落としてみたり、

普段歩いているのスピードを「3」と仮定して、「1」から「5」まで段階的に変化させながら歩いたり。


ただ歩くリズムを変えただけで、身体の内面の景色が、じわりと姿を変えていくのが面白かった。

何かを演じようとか、感情を出そうなんて思っていないのに、リズムが「1」になると、まるで暗がりを手探りで進むような感覚が生まれるし、「5」になると、何かに追われているような焦燥が勝手に湧いてくる。


こんなエクササイズもあった。


まずスペースの中央に椅子を置き、その上に折りたたまれた白い紙を置く。

基本の動作は、遠くから紙を見つめるところから始まり、椅子に近づいてその横で立ち止まり、紙を手に取って椅子に腰かけ、紙を広げて読み、再び折りたたんで立ち上がり、紙を椅子の上に戻してからその場を去る、という一連の流れである。


そこに「リズム」の変化を加える。たとえば、足早に歩いてきてゆっくりと座る、慎重に近づいたかと思えば勢いよく紙を広げる、あるいは紙を読み終えて長く沈黙した後、急に立ち上がって素早く退場する、といった具合に、各アクションごとに速度や「間」の取り方を自由に変化させることで、同じ動作でもまったく異なる感情や物語の気配が立ち上がってくるのを体験する。


感情を伝えるには顔の表情や手ぶりが大事だと思われがちだ。

驚きを表すとき、目を大きく見開いて眉をぐっと持ち上げ、両手を大きく開いたり、悲しみを伝えたいときは、口元を歪め、唇をかすかに震わせ、身体全体を縮こめたりする。


けれども、リズムで驚きを表すなら、一瞬の静止と、その直後の急激な動きが考えられる。

たとえば、何かに気づいて身体がピタリと止まり、次の瞬間に素早く振り返る――その「間」と「加速」が、驚きの衝撃を生む。


演じる側が、何かを表現しようと意図していなくても、ピタリと静止したあとに素早く動くだけで、呼吸が自然と変化し、身体の内側に揺れが生まれる。その揺れが、外から見ると「感情が動いている」ように見えるのだ。

意識して感情を作るのではなく、リズムの変化が感情の波を引き出してくれる。


演技は「感情表現」ではなく、「行動(act)」である。


ひとつの行動でも、それをどんなリズムの中で起こすかによって、身体の内側に生まれる感覚はまるで違ってくる。

ゆっくりと、あるいは急に、ためらいながら、あるいは勢いよく――リズムが変わるたびに、内面の景色もまた変わる。


その俳優の内側の変化が本物であればあるほど、観客の心もまた確かに反応する。

舞台と客席とのなんとも言えない深い繋がりを感じるたことがある人もいるのではないだろうか。


これはただ偶然に起きた神秘的な体験ではなく、「ミラー神経細胞(ミラーニューロン)」という神経の働きで説明が出来る。

誰かの動作や表情を見ると、自分がそれを実際に経験しているかのように、脳の中で同じ部位が反応するという仕組みだ。


これは、観客が演技を「身体全体で受け取るもの」だという証である。


俳優の演技が観客の神経に共鳴したとき、演劇はもはや単なる見せ物ではなく、「体験」となる。

その体験を生み出すための最も根源的なツールは、他でもない──俳優自身の「身体」である。


観客にこの「体験」を届けるために、

俳優はリズムを意識し、それを自在に扱える身体を育てていかなければならない。

リズムこそが、観客の想像力に火を灯し、物語の世界へと誘う鍵なのである。





「どう思われたいかを優先して生きてきたから、自分がどうしたいかをいつの間にか忘れてしまっていたんだ」

これは研修所1年目、マイズナーの特別授業を終えて書いた日記に書いてあった言葉だ。


マイズナーテクニックというのは、

今、日本でも演技のテクニックとしてはかなり知られたものになっているのではないだろうか。


マイズナーテクニックは、アメリカの演出家サンフォード・マイズナーによって確立された演技法である。

その核心にあるのは、「いまこの瞬間を生きる」こと。


「何を感じたのか」「どう反応したのか」——

その瞬間に芽生えた衝動を逃さず、行動へとつなげていくために、

“リピテション”と呼ばれる訓練を重ねる。

相手の言葉やふるまいを繰り返しながら、相手の「揺れ」を敏感にとらえ、応答していく。


わたしが学んだクラスでは、“リピテション”に入る前に、普段なかなか出せない感情を思いきり表に出す、というワークを行った。


わたしたちは日常の社会生活を送る中で、感情を表に出すことをほとんど禁じられている。

そのため、いつもニコニコと笑顔の仮面をつけたり、相手から自分を守るために不機嫌な仮面をかぶったりしている。

ほかにも、あらゆる仮面——ペルソナ——を身につけて、わたしたちは日々を生きている。


感情を解放するこのワークは、そうした仮面を一枚ずつ剥がして、本来の自分に立ち返るためのエクササイズだ。


ただし注意が必要なのは、「演技=感情表現」という先入観に引っ張られすぎないこと。

感情を思いきり出せると、つい「お芝居できてる気がする〜!」と錯覚してしまいやすい。


かく言うわたし自身が、まさにその罠にはまっていたし、正直なところ、今でも感情がワッとあふれ出ると、それだけで「演じている気」になって、つい自己満足してしまうことがある。


けれど、このワークを終えたあとは、自分の中で滞っていた導管がすっと通ったような感覚があり、自然と意識が外へ向かいやすくなる。

その「開かれた」状態で、“リピテション”に入っていくのだ。


わたしが人生で初めて、「自分の奥深い真実とつながりながら、相手と心から交流できた」と感じた瞬間——

それは、このマイズナーの“リピテション”の中で訪れた。

「生きてる!」という喜びが全身を駆け巡り、これまで感じたことのないような自由が、からだ中に満ちていった。


な、なんだこれ!と思う同時に、

「出来た!」とも思った。

それが大きな間違いで、次のターンの“リピテション”ではてんでダメだった。


あのとき感じた、全身を駆け巡るような喜びも自由さもどこへやら。

ただ混乱したまま、言葉を繰り返し叫ぶだけだった。


「え?あれ? できたと思ってたのに、なんで急にできなくなっちゃったんだろう……」

「いや、わたしのせいじゃない。相手のせいだ。」

「リピテションの相手が悪いんだ。あの人がちゃんとしてないから、わたしもできないんだ」


そんなふうに、自分がうまくいかない理由を、すべて相手のせいにして、出来ない自分から目をそらそうとした。


約10日間の集中講座を終えて、

演じることの喜びに出会えたと同時に、それを毎回確実に起こすことの難しさを痛感した。


けれど、わたしの中で最も強く残ったのは、冒頭にも書いたように——

「自分が何をしたいのか」を封じ込めて生きてきた、そんな自分自身への発見だった。


今でも、あのときの体験を思い出すと、

「自分の本音に触れること」が演技の出発点なのだと、改めて思い出させてくれるのだった。




研修所を修了した後、所属事務所の紹介で「演劇虎の穴」と呼ばれるワークショップに定期的に参加することになった。

その名の通り、非常に――いや、かなり、相当厳しいワークショップだった。


最初に投げかけられたのは、こんな問いだった。

「演じるって、あなたにとって何をすることか、言ってみろ。」


答えられなかった。

恥ずかしくて、苦し紛れにそれっぽい言葉を口にしたのを覚えている。

「相手を見て、相手から影響されることが演技です」――そんなふうに。


すぐさま返ってきた。

「それはどうやってやるんだ?」


「え……だから、相手をよく見て……その、影響を受けて……」


「だから、それをどうやってやるんだ。」


2年ほど通ったそのワークショップは、こうした禅問答のようなやりとりの連続だった。

だが、こんなにも真剣に「演技とは何か」を自問したことは、それまで一度もなかったように思う。


研修所では3年間、メソッドを学び、実習公演にも立たせてもらった。

だからこそ、知らず知らずのうちに「わかったつもり」「できている気」でいた。

このワークショップでは、そんな自分の傲慢さと徹底的に向き合わされることになった。


そこで教わった「演じること」の定義は、

**「生きた流れを、やり続けること」**だった。


自分の内側にある「生きた流れ」を見つけ出し、

演技中であっても、それを意図的に、絶やすことなく続けていく。


人は誰しも、常に何かを「感じて反応している」。

スマートフォンが震えれば、無意識にポケットに手を伸ばす。

鼻がかゆければ掻く。

こんなふうに、日々小さな衝動に突き動かされて生きている。

そのほとんどは無意識に行われる。


だが、「演技」になると意識が介入する。

セリフがあり、ミザンスがあり、動線や立ち位置といった「決め事」があるかぎり、それは避けられない。


それでもなお、「生きた流れ」を止めずにやり続けるには、どうすればいいのか。

つまり、無意識にしていることを、どうすれば意識的に再現できるのか。

このワークショップでは、その問いにただただ向き合い続けた。


やがて、自分の中の「生きた流れ」を観察することで、様々な気づきが生まれ始めた。

私たちが「感情」と呼ぶものの多くは、感覚の延長線上にある――そんな発見だった。


まばたきをわざと繰り返していると、

胸のあたりがむずがゆくなり、呼吸が浅くなり、イライラが生じてくる。

お腹の柔らかい部分を思いきりつねってみると、

その刺激がじんわりと頭の方まで収縮するように伝わり、涙がにじむことすらある。


感覚の揺れが大きく振れたとき、私たちはそれを「感情」として認知する。

だがその源は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚といった五感にある。

演技とは、その五感の震えに耳を澄ませる作業でもあるのだ。


「生きた流れ」について学んだことで、

研修所で取り組んできたさまざまなエクササイズが、一本の線として繋がっていった。


それまで感覚的に受け止めていた学びを、言語化すること。

それもまた、このワークショップで初めて意識的に取り組んだことの一つだった。

この経験がなければ、今こうして文章を綴ることもなかったと思う。


神は細部に宿る――そう言われるように、

言葉にできない微細な感覚や、つい見過ごしてしまう身体の小さな反応。

それらを丹念にすくい上げる作業こそが、「生きた流れ」を絶やさないためには不可欠だ。


ほんのわずかな目の動き、指先の緊張、呼吸のリズム。

その些細な変化の中に、真実の衝動が潜んでいる。


俳優として舞台に立つとは、

その繊細な兆しに耳を澄ましながら、「決め事」の中でなお、生の瞬間を立ち上げていくことだ。


観客に届く「リアル」とは、俳優の身体を通して、いまこの瞬間に確かに生まれているもの。それを人は求めて劇場に通うのではないだろうか。


研修所を修了したあの時期に出会った「生きた流れ」という概念は、

いまも私の中で静かに息をしている。

そしてこれからも、演技を続けていく限り、私はその呼吸に耳を傾けていくのだと思う。