とても才能のある素晴らしい俳優さんが、舞台のアフタートークで女性蔑視発言をしたらしいという情報がSNSを通して目に入ってきた。


その内容は、演劇を観たことのない人にも演劇を観てもらいましょう!ということを伝えるために「処女」という言葉を使ったそうなのだが、その発言を受けて不愉快になった人たちが数多くいたらしく、

主催側はすぐに謝罪文を発表していたし、俳優さん自身も謝罪文を発表していた。


わたしもその発言を目にして、ぐらりと心が揺さぶられるのを感じた。


でも、何に対してだろう。

何が気持ち悪いと感じて、何を受け入れられないと思ったのだろうか。



処女だとか童貞って言葉自体にはじめてであることが、経験がないことが恥ずかしいと思わせる何かがある。

中学生くらいから、性的な経験をしていることがカッコよくて、そうでないとダサいみたいな空気があって、高校に進むとさらにその空気は濃くなった。


経験がないことをバカにされたり、求められない自分はどこか欠陥があるのではないかと思わされた。それは全く間違った価値観だと今だと分かる。でも、当時はそれに苦しんだ。

人とうまくつながることのできない痛みを、孤独を、理解されないことから生じる深い悲しみを、言葉にすることはできなかったし、表に現すことも出来なかった。


俳優の仕事は、そういう消え入りそうなか細い声に力を与える仕事だとわたしは思う。

誰にも分かってもらえないのだと、一人ひっそり抱え続けた孤独を一緒に抱きしめてもらえるような感動を求めてわたしは劇場に通うのだ。


素晴らしい才能を持った大好きな俳優さんが、アフタートークで発した言葉を直接聞いたわけでもないのに、心がぐらりと悪い意味で揺さぶられたのは、何故なのか。「処女」と言う言葉のはらむ様々な記憶について全く共感してもらえないのだ、と裏切られた気持ちになったのかもしれない。


どんな小さな声も拾って、大きな声に変えてくれるスーパーヒーローでさえ、わたしの声は届かないのだ、という絶望感かもしれない。


自分は何に傷付き、何に怒り、どうして欲しかったのかを見つめてみると、心の揺さぶりの奥深くに眠っている自分の記憶が目を覚ます。

それとしっかり向き合うことでしか、誰かを、何かを許すということは起こり得ないのかもしれない。

どれだけ謝られたとしても。

そんなことを思った今日。