ここ数年、正月にはどこかしらの七福神を回っておりまして、
今年も元旦に八王子七福神
をひと巡りしたわけですけれど、
一度も行ったことがないという友人を導いて、またしても七福神を廻ってきたのでありました。
何しろこちらは七福神の先輩ですから。
友人の行き来の便を考慮して、JR田端駅で待ち合わせ。
谷中七福神を巡るということにしてたのですけれど、
何でもここは「江戸最古」という触れ込みのせいか、中々の人出。
田端駅の改札口あたりでも、駅発行のマップを配布している力の入れよう。
お参りするにもご朱印を頂戴するにも行列が出来てました。
中には「出発、しますよぉ!」などと掛け声が聞かれるとは団体さんがいたのですねえ、きっと。
とまれ、ひと回りして友人と二人「これで満願成就だぁ!」と意気込んだわけですが、
ここでお寺さんを紹介するというよりは、回ってみて「ほぉ、ここにこんなものが?!」という
副産物のことを落ち穂拾い的に。
田端から歩き始めたわけですけれど、
やがて段々と谷中に近づき、ふいっと突き当たるのが有名な「夕焼けだんだん」。
こちらはこちらで結構な賑わいでありましたよ。
名物のメンチカツでも食べたいところながら、
こうした喧騒を尻目に脇道に入っていきますと、さすがに寺町・谷中。
お寺さんが増えてくるのですね。
前にも思ったことですが、数あるお寺さんの中で七福神リーグに加盟?していないところは
みな素通りされてしまい、賑わいの違いたるやと。
ですが、そんな素通りしてしまうお寺さんにも何やらの来歴を持つものが実はあったりするのでして、
寿老人・長安寺へ向かう手前にある観音寺もそうした一つかと。
こうした七福神に関わりないお寺さんに足を踏み入れると、
後から歩いてきた人が「すわ、ここがご朱印ポイントか?!」と入ってきてしまったりしますが、
足を止めた見ものはといえば、これでありますよ。
「赤穂浪士供養塔」との看板がお目にとまろうかと思いますが、
はて四十七士
とこの寺との関わりと言いますと、門前の案内板によればこんなふう。
四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。
ちなみに仇討当時は長福寺と称していたそうですが、
浪士策謀の場は忠臣蔵外伝「そば志ぐれ」に出てくるそば屋ばかりではなかったのですな。
あちこちと場所を渡り歩いたりもしながら、とことん隠密裏に事を運んだことでありましょう。
観音寺からは目と鼻の先、七福神に戻って寿老人の長安寺。
こちらには江戸から明治に掛けて狩野派の最後を飾る絵師・狩野芳崖の墓所がありました。
切手の図案にもなった「悲母観音」で有名ですね。
と、お墓の話が出たところで歩きの方も谷中の墓地へとさしかかります。
しばらく前に墓まいらーとして谷中霊園
はひと回りしましたけれど、
広い敷地ですから見落としもあるもので、その最たるものがお墓でなくってこれです。
何かの土台とはお分かりいただけましょうけれど、
かつては関東一の高さを誇ったとされ、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった塔が
建てられたいたのだでそうですよ。
昭和32年(1957年)の放火によって焼失してしまったとのことですが、
在りし日の姿とまさに燃え上がるさま、そして鎮火後の姿を撮った写真が掲示されていました。
放火とは実にいたましい限りながら、不謹慎を承知で言ってしまいますと、
真ん中の紅蓮の炎が天を突く塔の形なりに燃え上がる様子というのは、
ある種の恍惚を引き起こすのではないかと思えてしまいますですよ。
ところで、霊園をまさに抜けなんとするところで、
「川上音二郎」の文字が目に飛び込んできたのですね。
パリ万博
でも貞奴とともに公演して一世を風靡した、あの川上音二郎ですね。
ずいぶん変わった形の墓所だと写真を撮ってよく見れば、「川上音二郎君之像」となる。
つまり墓だと思ったのは台座部分で、本来はこの台座の上に立像があったのだそうな。
(たぶん墓所もすぐ近くだったのでしょうね)
ということで、七福神としてはこの後に上野へと向かっていったわけですが、
最後にひとつ、「だれそれの…」といった類いではないものを。
通る道筋からはちと横丁へ入ったところにあった和洋折衷的なお住まい。
門のアーチにも意匠を凝らして、レトロモダンな雰囲気かと。
こうした路上観察的な街歩きというのも、いいものですよねえ。