ストーリーのことは後回しにして、やっぱりアキ・カウリスマキの映画は
こうであったかと思ったのですよ、映画「ル・アーヴルの靴みがき」を見て。


映画「ル・アーヴルの靴みがき」


といっても、カウリスマキ作品を見るのは「影のない男」以来ですけれど、
極めて台詞の少ないところで見せる点ではなかなかに圧倒的だなと思ったものですから。
(圧倒的という形容自体はカウリスマキ作品には適当ではないにしても、そういう印象で…)


先日見た映画「アーティスト」 はそもそもサイレントで撮っているわけで当然音声はありませんけれど、
映画の中では音は出ないものの何かしら喋っているという場面はあるわけですね。


こちらの映画はといえば、音が出る状態でありながら極めて口数少ないわけで、
その分どうしても映像そのもの、つまり表情やしぐさに集中してしまうことになります。
小津安二郎映画で笠智衆を見てるようなふうでありますね。


トーキー以降、音遣いが自由になったからと言って溢れんばかりの音の洪水へ向かうのとは
大いに異なるところというわけで。


さてお話の方ですけれど、
フランスの港湾都市ル・アーヴルでしがない靴みがきで生業を立て、もはや老境のマルセルが主人公。
たまたまガボンから運ばれてきたコンテナに不法移民が隠れていたのが見つかり、
警察に保護(あたかも逮捕?)されようというところから一人の少年が逃げ出しますが、
これを何故かしら匿うことにマルセルはなるのですね。


匿うこと自体はいかにも港の裏町人情的なところもあって、
普段はマルセルの一向に払われることのないツケ払いに業を煮やしているパン屋のおかみさんも
八百屋の店主もマルセルの行いにはひと役も二役も買うわけです。


そうはいっても、窓奥からカーテン越しに路地の様子を窺っているような御仁の中には
警察に通報する者も出てくるのですね。


ところが、ここで登場する警視というのがあたかも刑事コロンボが犯人と目した人物に付きまとうように
マルセルの行く先々に出没しては常に警告を発するものの、それ以上のことはせず、
マルセルは疑心暗鬼ながらどうも腹の中が読めない人物。

見てる側としてはマルセルよりは楽観視すると思いますので、最終的にはやっぱりなですが。


結局のところ、難民センターに収容されている少年の祖父を訪ねて話を聞いたマルセルは、
母親がいるというロンドンへ向けて少年を密航させる手はずを調えることまでしますけれど、
さてその結末やいかに…。


話は並行して、重篤な病で入院するも病状をマルセルにひた隠しにする妻アルレッティの姿があり、
つつましやかな暮らしであればこそとも思わせる夫婦愛や近所との関わりがここでも出てきます。
でもって、このアルレッティの病気の行方は?…とこのあたりは「魔法のお話」みたようなふう。


細かいことを言い出すと切りがないほどに、「なぜ?」と思われる部分の登場するストーリーではあります。
少年はなぜマルセルにこうも気を許すのか。
逃げ隠れしていた少年がマルセルと関わるとなぜ平気で人前に身をさらすようなことをするのか。
なけなしの貯えを少年のために吐き出して、妻の治療にかける費用はどうなってるのか…などなど。


でも、こうしたことはどうでもいいわけです。
なぜならば、これが大人の寓話だからなんですね。


不法移民のこともともすれば、

滔々と語ってしまうような問題ではあろうと思いますけれど、そうはしない。


それだけに現実的ではない、リアリティがないとも言えますけれど、
そういう見方をしない心積もりで見て、「これも理屈じゃない人間らしさだね、きっと」と思ったりすることで

何となく「気分もまずまずだぁ」という気持ちで映画館を後にするのが

いいところなんではなかろうかと思うのでありますよ。