藪から棒の記事タイトルですけれど、原語では「Tengo Famiglia」でありまして、
「テンゴ」と聴こえただけで「お、スペイン語か」と思ってしまったのですが、
実際はイタリア語でありました。
スペイン語としてはもっぱら英語の「have」の意味かと思ってたわけですが、
語尾変化する前のイタリア語「tenere」は「保つ」といった意味もあるそうで、
ここでの「テンゴ・ファミーリア」は「家族を養う」と解するのがよろしいのだとか。
なんでも米国のイタリア系移民が挫けず頑張って一家を成していく「合言葉」のようなものであるそうな。
…とここまで来てもまだ藪から棒のふうではありますが、
おそらくはジョー・ディピエトロというお名前からも推測されるように
ご本人もイタリア からの移民の子孫と思しき脚本家の手になる芝居「川を越えて、森を抜けて」を
見てきたものですから。
フランク・クリスターノ(加藤健一)は14歳の時にたった一人で移民船に乗せられ、アメリカに渡ってきます。
イタリアで漁師をしている父親がこのままでは子供の行く末ままならぬという苦渋の決断だったのでしょう。
右も左も分からぬまま、ニュージャージーはホーボーケンの町で大工として腕を磨き、
アイーダという伴侶(竹下景子)を得て家族をもち、早や60年。
すっかり老人になって、今では孫のニックが週末のディナーを共にするためにやってくるのを
最高の楽しみにしている様子。
それにしても、なぜ孫のニックがひとりだけで?
娘夫婦はフロリダに居を移し、もう一人の孫であるニックの妹は結婚してサン・ディエゴに行ってしまい…と、
身寄りで近くにいるのはニックだけになってしまっているのですね。
そのニックが仕事の関係でシアトルへ転勤になるという話を聞かされたフランクとアイーダは、
やはり近くに住んで行き来も頻繁な娘の亭主の両親ともども、何とかニックを引きとめようと画策するが…
というお話。
時の流れは核家族化を呼ばれる現象を見せて、取り分け日本(の都会)では
親戚付き合いのようなものも相当に希薄になっているやに思われますが、
現実は分からないものながら、映画なんかで見る限りは
アメリカでの家族関係、親戚付き合いはまだまだ日本よりも濃い形で残っているようにも見受けられなくもない。
とりわけイタリア系移民の場合には先の「テンゴ・ファミーリア」の思いが強いようですが、
そこんところをあんまり考えてしまうと「ゴッドファーザー
」なんかを思い出してしまいそうになります。
とまれ、家族が平穏にいつまでも共にいられることをひたすら望んできたフランクとアイーダには
ニックがまさに最後の砦であって、ニックが去ることは「自分たちが棄てられる」ことにも等しいのですね。
この辺り、ニックの両親も妹も先にいなくなってしまって
最後に残ったニックへの思いが強烈になってしまうのは
ニックにはいささか可哀想な気がしないでもない。
ニックにしても、シアトルへの転勤は栄転であることから出かける気満々ながら、
全く祖父母のことが気に掛からないわけでなく中々に思い悩むところでもあるという。
こうした話を見ながら我が身を省みると、毎週末とはいかないまでもせめて月に一度くらいは
両親と食卓を囲んでも悪くはなかろうてなこと思ったりもするところですね。
幸い(?)電車と徒歩で1時間もあれば親元にたどりついてしまうような距離。
芝居の中のフロリダやサン・ディエゴ、はたまたシアトル(これはわざと散らしてあるんでしょう)と
ニュージャージーほどに離れているわけではなし、
またニックのように孫でなくって自分は子供なわけですから。
もっとも世の中では子供が成長して孫でもできようものなら、
そっちの方が断然可愛いてなことになるのでしょうけれど…。
東京公演は終りながらこれから全国巡業でご覧になられる方がおいでかもしれませんから、
筋書きをこれ以上書くことはしませんが、
大笑いしながら家族のことをつらつら考えしまったり…という話でありましたよ。
おっと、ひとつだけ筋に関わることではないですが、
お年寄りらしい台詞がよく書けてる芝居だなぁと思ったのですね。
どうしても物忘れが激しくなりますから(最近実感しつつありますが)、
何かと「あれよ、あれなのよ」みたいに「あれ」で台詞を済ませてしまうかもしれませんが、
長年連れ添った夫婦だからって何でもかんでも「あれ」では済まないとすれば、
もそっと違うひと工夫が必要ですね。それをうまいこと料理していたような。
何か芝居めいたことを書こうかなというときのことを考えると「なるほど!」と思わせてもらったのでありました。
