開催されることを知ったときから「これは!」と楽しみにしていた展覧会。
公開されたばかりの頃には逸る気持ちを抑えつつも、出かけた方々の記事を拝見しては
弥増す期待を膨らませておりましたんですね。そして、ようやっと出かけた国立新美術館。
「モダン・アート,アメリカン」展を見てまいりました。
のっけから何ですが、じらしが効きすぎたのか、どうやら期待が華々しく過度なものになっていたようで、
「う~む、もひとつもの足りない…」と思ってしまったという。
まあ、贅沢に過ぎる望みなのか、無いモノねだりといいますか…。
館内は平日夕刻とあってか、さほどの混雑も無く見て廻るにはほどよい環境。
何となく薄めの空気感からして「う~ん、あめりかぁん!?」でありました。
これまでおよそ目にも耳にもする機会のなかった作家たちの作品に接する
「新鮮さ」もまたアメリカンな印象(?)でありましたけれど、
19世紀末から20世紀が進んでいくにつれ、所謂アート・シーンにおけるアメリカの比重の高まりが
この会場に集った作家たちを通じてなされていったのだなと思ったりもしたわけです。
ただ取り分け印象的な作品はと言えば、月並みな選択であるとは承知の上ですが、
やはりエドワード・ホッパーとジョージア・オキーフになるのではなかろうかと。
今回の展示作が両者の代表作とは言えないであろうにしてもです。
まずはホッパーですけれど、フライヤーにも使われた本展の目玉作品「日曜日」。
画中の人物のように思わず両肘を抱えてしまいたくなるほどの寂寥が肌を刺さんばかりでありますね。
ひと目でホッパーと気付く作品でありましょう。
この「日曜日」の誰もいない感は、昨年出かけたロサンゼルスのダウンタウンはバンカーヒル
で
ひしと感じたところでありまして、実体験的にもよくわかるような気がするわけですね。
いないんですよ、日曜日にはだぁれも。
「おーい、みんなどこへ行ったんだ。昨日まであんなに賑わっていたのに」
いささかSF的な世界にも通じる誰もいない感。
ただですね、本展のホッパー作品のもうひとつ「都会に近づく」を見ていて思ったことがあるのですよ。
先の「日曜日」の人物のようにだぁれもいない中でたったひとりの存在となると
「孤独」という言葉が思いつきますけれど、「都会に近づく」の方はそれこそ人間はひとりも描かれていない。
こうした画面は、例えば岡鹿之助
作品なんかでもそうですが、
誰もいないことからくる静謐感や時が止まったような感覚を得るところでして、
無人であることにシュールさを感じたり。
一方でホッパー作品の方はといえば、「誰もみえないけれど、誰かいる」感があるのですね。
(この感じは、以前ユトリロ
に感じたことがあります)
こうなると「孤独」という言葉よりは「孤立」という言葉が似合うような気がします。
(といいつう、かつてのホッパー探究 の折には「孤独」と言ってますけれど…)
現実世界では人里離れた山に分け入ったようなときに
ふと「孤独感」を抱くてなことはあるでしょうけれど、それは「孤立感」とは違う。
先の「日曜日」の方は「孤立感を抱えていようなぁ、きっと」という人を描きこんでいるので、
見ている側共振するだけですけれど、「都会に近づく」の方はどうでしょう。
人間の姿は見えども背景のビルの中には「きっと誰かいるはず」とも思え、
トンネルから現れるはずの地下鉄(?)には「きっと誰か乗ってるはず」なのに電車は姿を現さない。
ふと気付けば、孤立感を抱いているのは見ている当人に他ならないことになってきますね。
都会の寂寥をひしと受け止めてしまったような…。
ホッパーはアメリカの画家であって、そしてアメリカを描いているわけで、
それを見るアメリカの方々の心に兆すものを予めイメージしていたかもしれない反面、
彼の地を離れた場所でおそらくはメンタリティーが必ずしも同じでない者が見て、
かような思いに至るのはホッパーの描く都会の寂寥が普遍的である故でありましょうか。
というところで、もう一人、ジョージア・オキーフにも触れようと思っていたのですけれど、
長くなってしまいましたので、そちらは次の機会にということで。

