先ごろ読んだ「カレーソーセージをめぐるレーナの物語 」の舞台がドイツ だったものですから、
これまた読もうと思いつつもそのまま記憶の彼方へと紛れていきそうになっていた小説をひとつ
思い出したのですね。


レオニード・ツィプキンの「バーデン・バーデンの夏」という一冊でありますが、
確かにドイツのバーデン・バーデン は出てくるものの、読んでみましたらロシアの作品だけあって
モスクワ やサンクト・ペテルブルクあたりも大きく関わるところでありましたが…。


バーデン・バーデンの夏 (新潮クレスト・ブックス)/レオニード ツィプキン

妻に先立たれてやもめ暮らしであったフェージャは

仕事の手伝いに来てもらったかなり年下のアーニャに一目ぼれ。
有名人ではあるものの、小柄で風采も上がらず癇癪持ちの上に手元も不如意のフェージャでしたけれど、
アーニャの母親の絶大なる援助の下、ドイツ目指してハネムーンに旅立つのでありました。


たどり着いた保養地のバーデン・バーデンは今で言えば高級温泉リゾートでありまして、
各界の著名人がわんさと訪れてはパーティーを開いたり、カジノに興じたり。


如何せんとても贅沢三昧とはいかないフェージャはせめてカジノでもってひと旗あげてと目論見るも、
勝っていたのはほんの最初のうちばかり、その後は持ってきた衣類を質入しては

賭けの挽回を図ろうとする始末。


いばりちらしながらもアーニャが愛想をつかしたと見るや、
フェージャは人前はばからずに跪いて赦しを乞うという大変な人物ながら、
そんなフェージャを呆れながらも赦し、愛し続けるアーニャでありました…。


…とまあ、ざっくり言ってしまうとそんな夫婦愛が語られる物語なのですけれど、
このフェージャというのが、何と!フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーその人なのですよ。


妻君であるアンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤが記したという日記を元に

出来ているお話といいますから、あながち虚構とばかりも言えないのでありましょうね。


以前、トロイの遺跡を発掘したシュリーマン が実は大層な曲者だったらしいことに触れて、
歴史上にその名を残すような有名人がイコール聖人君子ではないものの、
いささかそうした思い込みにとらわれてしまったりするものだなぁと思ったわけですが、
文豪ドストエフスキーもまた然りということのようでして…。


ただ一概に判断はできないものの、も少し人間的には高潔っぽいトルストイ の方は、
「終着駅 トルストイ死の謎」で読んだように、貴族的な考え方からどうにも抜け出せない妻との

確執を抱えて晩年まで苦悩を背負っていたことに比べると、

賭博に現を抜かす駄目亭主のドストエフスキーには最後を看取ってくれるアーニャがいたと思うと、

「うむむむ…」と考えてしまったりしますね。


ところで物語としては、こうしたドストエフスキー夫妻の話と同時並行といいますか、
時空の行き来が麻痺させられるような感覚で、語り手たる「私」がアンナの日記を片手にモスクワから
(著者が書いていた当時の)レニングラードまで旅し、ドストエフスキーの足跡をたどる様子が描かれます。


そして「私」自身はユダヤ人ながら、

ユダヤ人に思いのたけの差別意識を持っていたドストエフスキー文学の偉大さ、魅力から

逃れられない(自身を含めた)ユダヤ人の複雑な思いといったことにも触れられるという、
なかなか重層的な作りになっているのですね。

とまれ、描かれたアーニャの姿勢を見るにつけ、そこには「赦し」の意識があるんじゃないでしょうか。


また、文体の点で非常に特異な小説でもありますね。
先に「時空の行き来が麻痺させられる」と言いましたけれど、ほとんど句点が出てこないのですよ。

ひたすらダッシュ(「-」)で続けられ、改行もなければ段落分けもほとんどない。


そうした流れに身を任せるかのような中にあって、過去のドストエフスキー夫妻の旅と
(その時点で)現在の「私」の旅が交錯しまくっているわけです。


このような過去と現在の交錯という作りの点では、
実は「カレーソーセージをめぐる…」でも同じような体裁になっているのですけれど、
文章がダッシュをはさんでずらずらずらずらと続いていくのは、

さらに衝撃度が大きく感じられたのですね。


ついついアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画「エルミタージュ幻想」の

ワン・カットショットで切れ目なくずぅ~っと撮っていくさまを思い浮かべたりしたのでありました。