小山実稚恵さんの演奏会
でやおらピアノから色気が立ち上ったと書きましたけれど、
これはあたかも湯気のような感じで「見える」ほどのものであったのですね。
実際には、この「感じ」は実体があろうはずもなく見えるわけがないのですが、
それでも、見えた!んですなぁ。
でもってそれで思い出すといえば、
ヴァシリー・カンディンスキーがシェーンベルクの演奏会の様を描いた一枚の絵ではないかと。
数年前にミュンヘンのレンバッハ美術館で見たその一枚、
「印象Ⅲ(コンサート)」はまさに今東京に来ているではないかと。
こうなっては行かずばなりますまいね、三菱一号館美術館へ。
実はカンディンスキーはかなりの好物でありまして、
初期の風景画から晩年の幾何学的抽象に至るまでさまざまにスタイルを変えたカンディンスキーの絵画は、
その折々の傾向にそれぞれ違った面白みが感じられるからなのですね。
さりながら、昨年秋にいささかのひきこもり傾向?が生じて以来、
大きめの展覧会にはちいとも足が向かなくなってしまったおりました。
まもなく会期終了ではありますが、見られるうちにこのような背を押される出来事に遭遇したのは、
なんと幸いであったことでありましょうや。
一度ミュンヘンで見たとはいえ、年月も経っており、
改めて新鮮な印象を持って眺めた「カンディンスキーと青騎士」展。
「開いてて良かったぁ!」なのでありました。
1896年、ロシアからカンディンスキーがたち現れたことから
ミュンヘン美術界は激震に見舞われることになりますけれど、
当初は具象的な風景画を描いていたカンディンスキーでありますね。
すでに19世紀末ですから印象派の洗礼後の美術界では、
後のカンディンスキーを思えばオーソドックスとさえ言えるやもしれません。
が、ペインティング・ナイフの跡がはっきり残る、このダイナミックなタッチは、
カンディンスキーの息遣いさえ感じられそうなのですよね。
やがて、フォーヴもびっくりの色彩の洪水にもなっていくのですけれど、
造形(カンディンスキーの絵画はどの時代にも造形的ですよね)への思いを
まずは色彩に委ねたというところでしょうか。
それがやがて抽象と結びついたときに、
カンディンスキーらしさがひとつステップアップしたのかも。
そのことをはっきりと感じさせてくれたのが、
あの「印象Ⅲ」に先立つこと2年ほど前の1909年に描かれた「山」という作品ではないかと。
山とその麓に二人の人物を配した、非常に具体的、具象的な題材を扱いながら、
この色遣いは?そしてこの鮮やかな色が占める領域とは?
勝手な想像を巡らせれば、これらの鮮やかな色彩は山を前にして高揚した気分、
(個人的にはマッターホルン
を前にした時の気分でありましょうか??)
これが広い領域を占めているだけ、その気分の高揚具合に繋がるのではないかと思ったりするんですね。
それだけに、見ている側にも自分の内面がブワッと噴き出すさまを見せられる思いがしてきてしまいます。
こうした(顔の表情を描き出したりするのは別ですが)本来視覚的にとらえようの無い気分、
これを目の当たりにさせてしまうことをやってのけたカンディンスキー。
こりゃもう、革命的ですよね。
そして、本展フライヤーにも部分引用される有名作「印象Ⅲ」に至るわけですけれど、
カンディンスキーの凄いところは、自分の感情表出を視覚化したのでなくって、
その場に居合わせた群衆の気持ちの表出を可視化してしまったという。
自己の内面云々のレベルではありませんね。
カンディンスキーはこんなことを言っているようです。
眼に見える形や既存の価値観にとらわれず、精神的なものを自由に色彩とフォルムで表現することを目指す。
ここでまた思い出すのが、この1月に4回シリーズで宮沢賢治 を扱っていたNHKの番組。
その中の2回目に登場した生命誌研究者の中村桂子さんがこんなことを言っていました。
近年脳科学で共感覚の存在が指摘されています。人間の脳は見る、聞くなどの五つの感覚を独立して処理する一方で、脳内でそれらを関連づけています。その関連づけが強烈で、数や音に色が見えたりする人がいることがわかってきたのです。
これに続けて、宮沢賢治が共感覚の持ち主ではないかと中村さんは言うのですが、
どうもカンディンスキーこそと思えてきてしまうのですね。
ごくごく普通の人には見えない色彩やフォルム、
これを単なるイメージではなく、実際に見えるものとしてキャンバスに置いていった。
それがカンディンスキーだったのかもしれませんね。


