この間、作家へルマン・ヘッセの水彩画 を見ましたけれど、
その際にヘッセの文学作品の中で「デミアン」が転機の一作なのだということであれば、
これを読んでみようかと思ったようなわけです。


デミアン (新潮文庫)/ヘッセ


先にはヘッセの生涯に少々しか触れてませんが、幼い頃から厳格な家庭環境の中で、
さまざまな葛藤を抱えて成長していく姿が想像されるのがヘッセでありまして、
「デミアン」前も、またその後もそうですけれど、

自伝的要素というのはヘッセに終生ついてまわったもののようですね。


ヘッセの作品でおそらくは一番有名と思しき「車輪の下」などはまさにそうした産物であるわけですが、
「デミアン」以降はその要素を残しつつも、

より普遍化した人間なり世界なりの話を展開したということでありましょうか。


さて、「デミアン」でありますけれど、
これは人間であればおそらくどんな人でもその内に抱える善と悪の間で

揺れ動く主人公エミール・シンクレールのお話であります。


エミールは子供の頃から、自分を取り巻く「二つの世界」を意識しているのでして、
どちらの世界にも自分がいることを知覚しているのですね。


これを「善」と「悪」という具合に対置してしまうのは、いささか大袈裟すぎて、
感情移入しにくくなる元ではありますが、

それがかなり卑近な例(殺人やら何やらでなく)で示されますので、
ついつい我が身を振り返って、あれこれ思い巡らしてしまうものですら、
そうした点では物語として頭に入って来にくい小説になってしまいました(個人的にですが)。


主人公エミール・シンクレールの抱える振幅が少々悪い方に傾いたところを見てみます。

低級な飲食店のきたないテーブルに向かって、こぼれたビールのあいだで、友だちたちをとほうもない毒舌で喜ばせたり、たびたび驚かせたりしてはいたものの、自分が嘲笑しているすべてのものに対し、心の奥では尊敬の念を持っていた。そして自分の心の前に、自分の過去の前に、自分の母の前に、神の前に、内心では泣きながらぬかずいていた。

飲んだくれて大騒ぎするくらいのこと(と言ってよいかどうかではありますが)で「善」に対置する「悪」と
言ってしまうのは何だなぁと思いますし、内心での葛藤を抱え続けているさまが見てとれますよね。
これって、すごく普通の人らしいんじゃないですかね。
(小説で作りこまれた、それこそ絵に描いたような悪人ではないという…)


この辺りの「二つの世界」を内面に持つことになった理由のようなものは
(そもそも人間が本源的に持っているといえないこともありませんけれど)
作中では必ずしもはっきり示されてはいませんけれど、ひとつキーになるものがあると思われます。
ちょっとまた引用さえてもらいます。

その夢では、クローマーがナイフをとぎ、私の手に握らせた。私たちは並木道の木の下に立って、だれかを待ち伏せていた。だれを待ち伏せているのか私は知らなかった。だが、だれかがやって来、クローマーが私の腕を押して、刺し殺さねばならないのはあの男だと教えたとき、見れば、それは私の父だった。そこで私は目をさました。

クローマーというのは、小学生だった主人公がついうっかりと?

付き合いを持ってしまった近所の年長のワルガキでして、

その関わり部分も「うんうん、子どもならありそうだ」と思ってしまうことですが、
ここはそこが肝心なのではなくって、父親の存在でありますね。


ヘッセ本人にしても、厳格な父親(ひとつの側の世界の代表ですね)との関係を

うまく築けていないことが伺えますけれど、この主人公もまたしかり。
これがかくも根強いものか…などと考えると、

思いはまた小説を離れて頭の中を経巡ったりするわけです。


ところで、「デミアン」をお読みでない方は、
「それではいったいデミアンというタイトルは何なの?」と思われるかもですね。

この小説の登場人物の一人がエミールよりはいささか年上のマックス・デミアンという少年で、
エミールに多大なる影響を与える人物として出てくるわけです。

巻末の解説にはこうあります。

デミアンはデーモン(Dämon)と同じく、「悪霊にとりつかれたもの」から出ている、と作者は語っている。

そういえば映画「オーメン」の主人公がダミアンという名まえだったのも、
同じことなのでありましょう。


そうはいっても、ここでのデミアンはキリスト教の教えに対して穿った見方でもって
(もちろん、それは異端的とも見られますが、少々背伸びした訳知り顔の少年の繰り言とも言えそう)
エミールを翻弄するところから出たタイトルなのでしょうね。


ヘッセ本人が抱えた幼少期からのさまざまな葛藤を底におきながらも、
自伝的というものから一歩抜け出して、いささかの普遍性をまとった小説「デミアン」。


個人的にはいともあっさりその普遍性に絡めとられてあれこれ思いめぐらしてしまいましたけれど、

それは極端な例にしても、これを青年期に読んだとしたら、どうでしょう。


青年期特有の溌剌さの陰に憂鬱さを持つ年頃の者たちは、
その卑近な(キリスト教の教義にまつわる部分はともかくも)例を目の当たりにして、
「自分だけではないのだ」といういささかの安堵を覚えるかもしれません。


そのあたりこそヘッセが青春の作家と言われる由縁なのでしょうね。