アルメニアの音楽 のことに触れましたときに、

ハチャトゥリアンとかチェクナヴォリアンとかいった名前を出しましたけれど、
どうやらアルメニア人の名前の特徴は最後が「~アン(あるいは~ヤン)」で終わることのようです。


もちろん、そうでない人もいるでしょうし、

アンとかヤンという人が全てアルメニア系でもありませんが…。


ただ、このことに行き当たったときに思い出すひとりの作家が、

ウィリアム・サローヤン(サロイヤンとも)ですね。


サローヤンはカリフォルニア州フレズノの生まれですので、

生まれたときからアメリカ人(本人が移民ではない)なのですが、
こんなことを語ったことがあるのだそうです。

私は、英語で書いていて、米国出身であるという事実にもかかわらず、アルメニア人作家であると思っている。私が使う言葉は英語であり、書く対象は米国人であるが、私に書かせる心はアルメニア人である。このことは、私はアルメニア人作家であり、アルメニア人作家の群像の一つであることの名誉をことのほか愛している、ということだ。

アルメニア系の方がこれほどの出自に関しての強い思いを抱いていることには、
ロサンゼルスのJANM で見たような日系人の歴史との対照を

(またしても!)思わずにはいられなくなりますが、ここでは深入りせずに、

この機会ですからサローヤンを読んでみようというわけですね。


かつて映画監督・俳優の伊丹十三さんが訳出した「パパ、ユーアークレージー」を

読んだことがありますけれど、今回は代表作と言えるかと思いますが、

「ヒューマン・コメディ」を手にしてみました。


人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)/ウィリアム サロイヤン


カリフォルニアの小さな架空の町を舞台に、電報配達で家計を助ける14歳の少年ホーマーが

その家族や友人、電報局員たちや町の人たちとの関わりの中で、
世の中のあれこれを知ることで大人への一歩を踏み出す…

と、要約してしまうと「ビルドゥングス・ロマン」っぽい印象。


さりながら、全体がとても仄かなユーモアで包まれていますので、

説教臭くないのがとても良いのですね。


と「説教臭くない」と言ったばかりではありますけれど、

このお話に出てくる善人たちはホーマーに対して、
よく教え諭すような話をして聞かせるんですが、これが嫌らしくない。
これはひとつの技ではないですかね。


ちょっと長いのもありますが、いくつか引用させてもらいましょう。
まずはお母さんがホーマーに話をします。

「これはおぼえておきなさいよ」と夫人はいった。
「いつもひとに与えるんです。持ってるものはなんでも与える。バカみたいでも、与えるんだよ。
ただただ、与えなくちゃいけない。おまえたちが人生で出会うすべての人に与えなくちゃいけないのよ。そうすれば、そんなものも、そしてだれも、おまえたちを、どんなことででもだますことはできない。だって、もしおまえが泥棒に与えてごらん。泥棒はおまえから盗めないし、もう泥棒でもなくなってしまう。そしてたくさん与えれば与えるほど、もっと与えなくちゃいけないもんだよ」

続いて、学校で古代史を教えるヒックス先生が話しています。

もしわたくしのクラスの子どもたちが人間らしい人間ならば、人間としてのおこないの上で、おんなじであってもらいたくありません。子どもたちが堕落さえしなければ、ひとりがほかの人とどんなにちがってもかまいません。わたくしは教え子のひとりひとりがその人自身であってほしい。ホーマー、ただわたくしを喜ばせようと思ったり、またわたくしの仕事を楽にしてあげようと思うだけで、あなたがだれかほかの人の真似をするのは困ります。そんなふうだと、いまに教室の中は非の打ちどころのないちいさな紳士や淑女でいっぱいになってしまうでしょう。わたくしは、教え子たちが-ひとりひとり独立した-ひととちがった-ひとりひとりが愉快なそして魅力ある違いを持った人たちであってほしい。

長く電報局で発信受信をやってきた老人グローガンさんも話してきかせます。

「すべての人々は一つだ」と彼はいった。
「きみが一個の人間のようにな。そして、きみに善いところと同時に悪いところがあるように、すべての人のうちに、悪いところと善いところがある。すべての人のうちに、あらゆる国々の人々のうちに、悪いところと善いところがある。すべての人のうちに、あらゆる国々のあらゆる人々のうちに、
善と悪はいっしょくたになって存在している。うん、われわれの国民のうちにおいてもだ。人の良心がその人の性質の中にある反対のものと闘うように、こういった反対のものは、生きている者の全体-つまりこの全世界の中でも闘いをおこす。そして、こういった場合に、戦争がおきるんだ。われわれのからだも病気と闘う。だが、心配せんでいいよ。というのは、善は永遠につづくが、悪はあらわれるたびに追っぱらわれてしまう。病気にかかったからだや病的な精神はいつも、もとの健康な状態にもどるんだ。また病気になるかもしれんが、またいつも良くなる。そして、新しい病気がおこり、それが追っぱらわれるごとに、肉体も精神も強くなり、そして最後には、もともとそうなるべきもんだが、あらゆる腐れ朽ちはてるものから清められ、洗練され、よりやさしく、より気高く、そして堕落からまぬがれる力を持つようになる。

そして、最後にもう一度おかあさん。

「いまにわかってくるよ」と夫人はいった。
「だれも教えてはくれない。ひとりひとりが自分の道を見つけだすものでね。それが悲しくても、気高いものでも、ばかげたものでも、その人自身がそうしたんだよ。もしそれがとても悲しいもの、あるいは美しさにみちあふれたものだとしても、それはその人自身がそうだからなんで、まわりのものが悲しかったり、美しかったりするんじゃない。だから、悪くても、みにくくても、あわれでも-いつもその人自身がそうなので、ひとりひとりの人が世界なんだよ。ひとりひとりが全世界で、自分の思ったとおりに世界をつくり、人たちでみたす。だからその人の持っているのが愛ならば、愛することができる人々でいっぱいになるし、その人が憎しみを抱いていれば、憎まなくてはいけない人たちがいっぱいになるわけね」

先にアルメニア は世界で始めて民族的にキリスト教を受容したことを知ったわけですが、
以来、千何百年にも渡って受け継がれたものなのでしょうか、アメリカ生まれであっても
サローヤンの中にも信仰の果実(?)が深く深く宿っているように思えてくるのですよ。


とかく宗教が胡散臭くなるのは「ご利益宗教」的に我が身の安寧のみを保障する、
逆にそればかりを願うような場面に出くわしたときでもありますけれど、
ここではそんな「自分ためだけの…」みたいなことは

遥か何億光年も向こう飛び去っている感じがしますね。


こうした教え諭し(というと硬いですが)が日常的に普通に語られる町が舞台なのでして、
本当に登場人物は善人ばかり。

(明らかに変なのは、体育教師とスポーツ用品店主の二人だけではなかったかな…)


こうした舞台設定と配役で語られる物語をして「ヒューマン・コメディ」というタイトルをつけるとは、
ますますもってサローヤンの、軽妙さの裏側の深さを思い知るようですね。


個人的に、どうも最近はイライラしていたり、

何をやっても「どうせ…」と考えてしまいがちになっていたりしたのですが、
何とも単純な!と自分自身思うものの、もう少しだけでもポジティブに行こうかな…

と思わせられてしまったのですよ。


完全にサローヤンの術中に嵌った感がありますけれど、
それだけ作者の心に根付いたものが深く、確固たるものだからでありましょうね。