「画竜点睛を欠く」とは、
最後の仕上げをしないでいるためにせっかくの作品が完成しない…
というところから、「珠にきず」的な意味で使われたりしますけれど、
本来の故事では、竜を描いて最後に目を入れる(点睛)こと憚ったのは、
目を入れて完成させてしまうと「この竜は飛んでいってしまうのだ」と作者が思っていたからやった
いわば確信犯的な出来事だそうですね。
この場合、竜を描いて目を入れない…傍から見れば未完成だし、不完全にしか思えないわけですが、
実はこの完成したものの、完全なものばかりが必ずしも「素晴らしい」とは言えない。
そういうことはままありますよね。
例の出し方があまりにオーソドックスに過ぎるとは思いますが、
例えば「ミロのヴィーナス」や「サモトラケのニケ」なんかどうでしょうかね。
「ミロのヴィーナス」は最初から腕がなかったわけではないでしょうに、
取れてしまったからには、どうなっているのか想像するしかない…
その想像をめぐらしてしまうところも含めて作品を見るときに、一層の感興に繋がるような。
「サモトラケのニケ」なんて頭が無いという大変なハンデにも関わらず、
一種独特の飛翔感は見ている側の想像の飛翔をも誘うようです。
と、例によって長い前置きですけれど、
三井記念美術館で開催中の「奈良の古寺と仏像」展でお目にかかった一体の仏像でも
同じような感懐があったからなのですよ。
もともと美術鑑賞の類いへの目覚めはかなり晩熟だったものですから、
なんとか西洋ものから入って、未だ日本古来のところまではたどりつかずの状態でありまして、
とても仏さまのふかぁい世界にはとんと近づくこととてなかったのですね。
たまたま「ギャラリー・フェイク」の昔のを読んでいましたら、仏さまの話が出てきたこともありますし、
また日本橋へうなぎを食しに出かけるという機会もあったものですから、
三井記念美術館に立ち寄った…そんなところです。
ところでそこで出会った仏像と言いますのは、これなんですね。
同展のフライヤーから借用させていただきました。
唐招提寺に伝わる「如来形立像」というものです。
ご覧のように頭の部分が失われていますし、画像では分かりにくいながら両手の先も失われています。
が、飾りを排した姿から「菩薩像ではなくて、おそらく如来像であろう」ということで、
「如来形立像」と呼ばれているそうな。
(もっとも、個人的には恥ずかしながら、ここへ行って初めて菩薩と如来の違いを知ったのですが…)
とまれ、ここに彫り出された流麗な曲線は、いやが上にもどんなお顔であったろうとも想像される一方、
お顔があれば視線はそちらに向いて、ことさらに体形ばかりに目が向くこともなったのではと思います。
また、手先の持ち物まで残っておれば、「○○如来立像」となって、
年代モノではあってもやはりそこらのうちの一つになってしまっていたかもと。
いやいやそれでも、これだけのものなら、どうあっても目を惹くに違いないと言えなくもないですが、
憐れにもお顔の失われた形なればこそのあれこれの想像の機会は、間違いなく得られなかったという。
微妙なところですね。
この一体で展覧会全体を語るのは実に乱暴な話ではありますけれど、
「唐招提寺のトルソ」とも言われる、この作品のようなものは直に見るものだなぁと思ったわけなのですね。
も一つだけ、ユーモラスというとおしかりを受けるかもですが、お出ましいただきましょう。
こちらは東大寺に伝わる五劫思惟阿弥陀如来坐像ですけれど、
あまりにも修行に打ち込むあまり長い年月が過ぎ去り、すっかり髪の毛が伸びてしまった…。
面白い、もとい興味深い仏さまが実にたくさんあるものですね。
ただ、今年はせんとくんで奈良は混んでましょうから、いつか出かけてみるとしましょうかね。


