いずこかに出かけるときには、その場所の歴史的背景みたいなものを知っていると、
ただふらりと出かけただけとはまた違った見方考え方があるなぁということは、
ここ最近の例をとっても、ウィーン
やらサイパン
やら、
はたまた清里 やらでも大いに実感したところなのですね。
というところで、夏はまだまだこれからであるにも関わらず、すでに暑さしのぎを求めたくなり、
長野県は小諸、軽井沢に出かけることにしたわけです。
でもって、行くに当たってはまたその手のことが分かる本を探してみたところ、
見つけた本といいますのが、タイトルはそのものズバリ、題して「軽井沢物語」でありました。
(小諸のことは書いてないですけどね…)
軽井沢というところは、これまで何度もニアミスというか、
第2種くらいの接近遭遇というか、それくらいのことはあったのですけれど、
どうも変にお高い雰囲気を醸しているように思えてしょうがなかったのですね。
最近は、アウトレットだか何かも含めて、
ファミリーも若い人もどうぞどうぞ!になってはいるのでしょうから、
この受け止め方は年代的な差があるかもしれません。
「軽井沢物語」を読んで「なるほど、やっぱりなあ」の印象があるのは、こうした思いがあったからでしょうか、
もっと若い方が読んだとすれば、単純に「へえ、そうだったのか」ということかもしれません。
信州・軽井沢、その出自はと言いますと中仙道の宿場町でありまして、
江戸時代には参勤交代という制度があったことから、なかなかの賑わいであったそうなのですね。
江戸に向かうに当たっては、難所の碓氷峠を目の前にして、
馬を代えたり荷物を整理したりといったことをこの軽井沢宿で行ったようです。
ひとつの例ですけれど、加賀百万石の前田家の場合には、大名行列に連なる人数が約2,500人。
これに加えて現地で人足を2,000人ほど雇ったといいますから、大変な人数なわけで、
前田のお殿様が泊まったひと晩は、二ヶ月分の売上に匹敵したそうですから、ウハウハですよね。
これは極端な例にしても、北陸、信越の大名行列が決まって通るのみならず、
四国や九州の大名であっても往復のどちらかは中仙道を通ったといいますから、
宿場の活況は推して知るべしでありましょうか。
これが明治になると、パッタリ途絶えてしまいますね。参勤交代がありませんから。
さらに明治政府の近代化が軽井沢宿には反って災いしたようで、
新たに整備された国道が通ったのは宿場町のずっと南にあたり、
文明開化のシンボルである鉄道(信越線)の線路も国道に沿う様な形で通されたわけです。
駅前から離れた軽井沢宿の中心地が旧軽(旧軽井沢)と言われる所以ですね。
こうして、ひゅうと風が吹き抜け、枯れ草がからころと転がる…かどうかはわかりませんが、
西部劇のゴーストタウンのように(大袈裟かな)なってしまった軽井沢でありますけれど、
この寂れた、そして鄙びた、でも周りに自然がてんこ盛りに残された環境にある高原に目をつけたのが、
明治になって「すわ、布教のチャンス!」と各派から送り込まれたキリスト教宣教師であったといいます。
時に明治19年(1886年)、カナダ(当時、英領)出身の
聖公会宣教師アレクサンダー・ショーを初めとする外国人数家族が
軽井沢で初めてひと夏を過ごしたそうです。
この「ひと夏」というのが、肝心ですね。
明治期に日本にやってきた宣教師やお雇い外人は欧米人がほとんどでしたけれど、
とにもかくにも日本の夏の蒸し暑さは「しんぼう、たまらん!」と思ったわけです。
そんなときに、布教で各地を経巡るうちに立ち寄った軽井沢の、
高原ならでは清涼さを発見!したというのですね。
でもって、文字通り暑さを避ける「避暑」に来るのですから、たっぷり2~3ヵ月は滞在していくのでして、
当時日本人には「避暑」も「ひと夏」も全くピンとこなかったでありましょうけれど。
寂びれきった軽井沢宿に客が戻ってきた!
しかも、一泊やそこらで移動してしまわない長期滞在。
外国人であろうとお客さまは神様なわけで、
軽井沢の人たちもどんどん迎え入れる体制を整えていこうする。
そうすると外国人ネットワークの中で、「軽井沢は避暑にうってつけ」との口コミが広がる。
明治27年(1894年)に万平ホテルの開業後、軽井沢ホテル、三笠ホテルなどが開業し、
参勤交代のお宿から外国人向けホテルへと軽井沢宿は変貌を遂げるわけです。
ショーら一行が初めて滞在してから3年後の1889年には外国人避暑客は50名ほど。
これがその10年後、1899年には900名にも達するほどになっていくのですね。
一方、長期滞在する場所に土地は余るほどあるわけで、
1890年に駐日英国大使が軽井沢に別荘を持ったことが呼び水ともなって、
外国人の間で別荘ブームにもなっていきます。
こうした外国人の行動は、何しろ欧化政策の明治時代ですから、
日本人の上流階級、皇族、華族あたりが真似をしだすわけですね。
ただこの上流さは筋のとおったものでもありまして、
宣教師から始まったということもありましょうけれど、
江戸期の宿場では娯楽とも言えた「飲む、打つ、買う」を一切排除するという上品さを伴っていたとか。
これでは、庶民には面白くもなんともない場所だったかもしれません。
それが太平洋戦争で英米を中心とした外国人が送還された後、
一部は敗戦後に(清里のポール・ラッシュのように)日本に帰ってきたものの、
軽井沢は接待ゴルフも含めた社用族、
つまり大企業のトップはじめ幹部たちの集う場所にもなっていきました。
「上流さ」の真似っこは徐々に拡大していったわけです。
ただ、そうはいっても根っこにあるのが上流さであって、
その真似っこが裾野を広げた関係からすれば、
「ほんとうに偉い人は決して偉ぶらない」のと違って、
一層のまがいスノッブになっていったようにも思われます。
結果、冒頭に書いたような「お高い雰囲気」(揶揄して言っているのは明らかだと思いますが)が
醸しだされてきたのかもと思うわけですね。
当初の軽井沢はキリスト教の教えに従ったポリシーを持っていましたから、
日曜日は商店もお休みだったようですが、
今では日曜日は掻き入れどきとして当然の営業しているでしょうし、
「飲む、打つ、買う」の「飲む」は当然許容されていることでしょう。
こうした変化で、軽井沢は何の変哲もないリゾートになって、
分け隔てなく多くの庶民をも迎え入れるようになっているとは思いますが、
しばらく前に、静穏な環境保持のために「コンビニの24時間営業は不可」というのを聞いたことがあります。
これが本当に軽井沢であったとするならば、
腐っても鯛(あ、失礼!)でなくて、「三つ子の魂、百まで」の軽井沢魂は
僅かながらも健在なのかもしれませんね。
