19世紀後半から20世紀初頭にかけてのパリ。
「ベル・エポック」と言われるこの時代に、燦然と輝きを放っていた一人の女優がいました。
彼女の名はサラ・ベルナール…。


どうもこの時代のパリのことは、絵を見たりしたついで(?)に触れることが多いので、
「サラ・ベルナールという女優がいて、大変な人気を博していた」ことだけは知っているのですけれど、
この間、アルフォンス・ミュシャの描いた「ジスモンダ」のポスター などを見たときにも、
「そういえば、サラ・ベルナールのことはよく知らんなぁ」と思ったわけです。
となれば、サラっと(おやじギャグ!)探究しておこうかと思うのですね。


ベル・エポックの肖像―サラ・ベルナールとその時代 (小学館ヴィジュアル選書)/高橋 洋一


だいたい「ジスモンダ」のポスターが制作されたのが1894年で、
このときミュシャは34歳、長い下積みからの突破口を得たわけですが、
はて描かれたサラ・ベルナールの方はおいくつだったんでありましょう…。

つうことで、やおら生まれ年から入ってしまいますけれど、1844年の生まれということなので…


えっ?!50歳なの?


別に50歳であることがいけないわけではないのですが、
そこまでの年齢とはちいとも思っていなかったものですから。


まあ、昨今の日本とは感覚が異なるやもしれませんけれど、
その後もミュシャはサラの肖像を使っていろんなポスターやらを制作していくわけで、
それが巷間大いに人気を呼ぶのですから、確立したサラの大女優ぶりが偲ばれるというものですね。
言い意味で、文句のつけようのない国民的女優だったのではないかと。


ところが、やっぱりと申しましょうか何と申しましょうか、
その生涯は苦労の連続でありますね。


出自にしても、父親は判ってはいるものの正確には婚外子なわけですし、
母親の方は最初地道なお針子をしていたものの、結局は生活のためにと自分自身と妹とを売り物に、
サロン(実際は娼家)を設けるのですね。


当然ちいさな子どもは商売の邪魔というわけで、里子に出され、
呼び戻されてみればサラの知らない間に妹が二人いて、

どうも母親はサラのすぐ下の妹ばかりを可愛がるようす。


こういう環境で、とにもかくにもある程度の年齢になってくれば

世襲?的に職業についてしまうような気がしますが、
母親の妹(サラの叔母さんですね)の最重要顧客(?)であったモルニー公爵が

サラの運命を左右することになります。


この公爵シャルル・ド・モルニーはナポレオン三世の異母弟でありまして、
第二帝政下でも要職にあったという「お大臣」ですから、大した客筋ですよね。


ところで、そのモルニー公爵がサラの演劇的素質を見抜いて、

コンセルヴァトワールへの入学を勧めたことで、サラは16歳にして演劇の勉強を始めます。

この人がいなかったら、後のサラ・ベルナールはいないんですなあ、きっと。


はたして素質は本物だったのか、徐々に演技を磨きをかけ、

卒業後にはコメディ・フランセーズでも頭角を現し始めるわけです。
が、どうしても「出る杭は打たれる」といったところもあるのでしょう、
1年ほどで飛び出してしまい、オデオン座などでだんだん人気も出てくると、
コメディ・フランセーズから呼び戻されることになります。


時にサラ28歳。

そして、自分の劇団で持つことになる36歳までコメディ・フランセーズで数々の当たりをとり、
多くの崇拝者に取り囲まれていくことになるわけです。


その中のひとりが、画家のジョルジュ・クレラン(といっても、これまで知らなかった…)。
丁度その当時30代後半のサラを描いた肖像があります。

タイトルはそのまんま「サラの肖像」(1880-85年)です。


ジョルジュ・クレラン「サラの肖像」(1880-85年)


どういう印象を持たれるかは人それぞれではありますけれど、
どうもこのクレランという人は「ハート形の目」でもって描いたとしか思われないんですなあ。
もう恋い焦がれちゃってる!てな感じ。

ちなみに、上掲の本の表紙もクレランによるサラの肖像です。萌えてます。


こうしてみると、幼い頃は大変だったけど、

結構順風満帆になってるんじゃないのと思われたとしたら、それはちと早いですねえ。


まあ「恋多き女」というと聞こえはいいですが、惚れっぽいんですな。
しかも、若い頃は誰もが振り向くということで、

意のままにならない男などいないようなところがあったわけですが、
だんだん振り向かない輩が出てくると、意地になって自分のものにしようとする。

その男がまた芝居に興味があったりすると、すぐ舞台に上げてしまうという。


演技の評判も上々の相手役をほっぽりだして、大根役者に大きな役を振ったりするものですから、
いかにサラの演技がよくても、芝居としては目も当てられないものになってしまったり。


そして、あまりに豪華な生活を送るあまり、いくら収入があっても足りず、
年がら年中、それこそ世界中に巡業に出なくてはならない。


そうこうするうちに、舞台で痛めた右ひざの手当てをきちんとしなかったことが災いして、
晩年(71歳)には右足を切除することになってしまうのですね。


そうしたことがあっても、つねに舞台に立ち続け、

足の手術の後は車椅子で舞台に上がったといいます。
1923年、79歳で亡くなる直前にも映画の出演に承諾していたといいますから、
これはこれで大変な人ですよね。


舞台ではスポットライトを浴び続けた人生ということになりましょうけれど、
その舞台裏もまた、あたかも波乱万丈の芝居を見るかのごとくと思うのではないでしょうか。